手紙
ノックの音が鼓膜を震わせる。
「兄さん、今、だいじょぶ?」
控えめな克己の声。昨日のことがあったからだろう。若干声が震えている。
「休憩中だからモーマンタイ」
「おっけい」
恐る恐る入室する克己。
「母さん、珍しく外出てるからそんな緊張しなくていいぞ」
「そうなん? 知らんかったわー」
途端、克己は肩の力を抜いてベッドに転がった。
「悲報。氷上、屋上に来ず」
「マジで!? なんか予定あったんかな」
「常識的に考えてあの手紙、非常識の塊だったわ。気づかない俺もアレだがお前もお前だ。明らかにあの手紙はダメだろ。指摘してくれよ」
「えー。オレ、翔が書いたような手紙下駄箱入ってたら、なんだこれ面白そうっつって屋上行くけどな」
「脳天気過ぎだろ。差出人も用件も書いてない手紙だぞ。普通に行かんわ」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ」
「んなら新しい方法を考えねば!」
「それはもう考えてある」
「さっすが~」
「まあ明日バシッと決めてくるから待ってろ」
翔は机に向かい、手紙をしたためた。
明日、それを朝イチで氷上の下駄箱へ投函する予定だ。
「へ~なになに……先日は不躾に怪文書を送ってしまい、誠に申し訳ございませんでした。私は貴女と同じクラスの姿月翔と申します。この度は私のバンドにお誘いするべく手紙を送らせていただきました。貴女の声が必要なのです。返事はすぐでなくてかまいません。本日六月一三日から一週間後、六月二〇日の放課後の屋上にて返事をお聞かせ願いませんか? お待ちしております……やけに丁寧だな。クラスメートに送る手紙とは思えん」
克己は翔の後ろから手紙を読み上げると、渋い顔を作った。
「このぐらい丁寧な方がいいんだよ。俺たちは氷上さんのこと何も知らないんだし話したことすらないんだぞ?」
「確かにな。流石のオレも話しかけに行くのは勇気がいる相手だわ。なんちゅーか壁感じるんよな」
「分かる」
「翔と同じ種類の」
「……そんなに俺、拒絶オーラ出てる?」
「出てる出てる。ほら、翔がよく見てたアニメのなんとかフィールドばりに」
「そんなにかぁ。まあ教室内で友達なんかいらないからいいけど」
「ひねくれてんなぁ。んなこと言って本当は友達欲しいんだろ?」
再びベッドに戻っていた克己が何気なくそう言った直後、やたら大きな音を立てながら翔が立ち上がった。
「そういうのが一番むかつくんだよ。勝手に決めつけるな。お前も知ってんだろ。俺はSNSを通じての友人が沢山いるし、オフ会にも参加しててリアルの繋がりもある。誰も彼もが学校で友達とエンジョイしたいと思ったら大間違いだ」
「……へーい。気に障ること言ってすまんかったな。自分の部屋戻るわ」
「おう。報告楽しみにしとけよ」
「ん」
険悪になりかけていた空気は霧散。翔は腰をおろした。
勉強するか。んでその後はネトゲだ。
翔は頭を切り替えてルーチンワークへ移るのだった。
翔が手紙Ver.2を送った翌日。
下駄箱を開けた翔は、予想外の出来事に下顎ががくんと下がった。
手紙が入っている。しかも淡いピンク色ので、表には姿月翔様へ、と丸っこい字で書いてある。
この手紙は女子からのものだと見て間違いないだろう。
下駄箱に投函される手紙は二種類のみ。ラブレターか果たし状だ。
昨日、自分がそのどちらでもないものを投函したことをすっかり忘れていた翔は、震える手で手紙を回収した。
まさかまさかまさか。
早足で男子トイレの個室へ駆け込み、鍵をかける。
閉じるために使われていたシールをゆっくりとはがす。
ついに俺にもこの時が。
―――なんて期待は、トイレに駆け込んだ時に自ら握りつぶした。
頭を冷やせ。影が薄く誰の印象にも残っていないような俺がラブレターなんぞもらえるわけがない。大体今の時代、ラブレターなんて文化は廃れている。主流はメッセージをリアルタイムで送り合えるスマホアプリでの告白だ。
ともすると、恐れていたことの到来かもしれない。
そう。イタズラ。明確な悪意の矛先が向けられた可能性。
先ほどとは違う意味で震えながら、中身を取り出した。
『今日の放課後、体育館裏に来なさい』
差出人不明。
タイミング的に氷上である確率が高い。
確率が高いというだけで、イタズラというセンも消えてはいない。しかも場所が場所だ。体育館裏といえば古くから不良がいじめられっ子から金を巻き上げるスポット。
行くべきなのかバックレるべきか。
答えは決まっている。
翔は放課後まで生きた心地がしないまま過ごし、その時を迎えた。
答え。現場には行くものの、隠れてイタズラじゃないか見極める。
これしかない。身の安全のためだ決してチキンとかではない。
翔はそう自らに言い聞かせながら、体育館裏近くの木陰に身を潜めた。
帰りのHRが終わってすぐ来たから、手紙の差出人はまだいない。
さあ、どう転ぶ。誰が来る。
気を紛らわすために英単語カードをぺらぺらめくりながら待つこと二〇分。
現れたのは……。
長い黒髪。真っ直ぐ伸びた背筋。
どこからどう見ても氷上だった。
翔は一気に肩の力が抜け、木の根本に座り込んだ。
待て。油断するのはまだ早い。もしかすると氷上を中心に複数人で俺を陥れようとしているのかもしれない。もう数十分ほど様子を見よう。
翔は隠れたまま、氷上の方をうかがいつつ英単語カードめくりを再開した。
一〇分経過。特に何も起こらない。
二〇分経過。やはり、何も起こらない。
翔は、流石にもう大丈夫だろうと、木の縁に手をかけ、踏みだそうとした。
動けなかった。
氷上が、鼻歌を歌いはじめたから。
軽快なリズム。正確な音程。透き通る音。鼻歌でさえ、引き込まれる。
「……ハッヘルベルのカノン」
「っ!」
氷上は急に視界に入ってきた翔に驚き、息をのんだ。
「ご、ごめん。もしかしたら、その、罠かと思って」
「……罠って何よ」
「いや、告白するフリして俺を騙して笑いものにするだとか、金ゆすりとられるだとか」
「そんな古典的なイジメ、今どきそうないと思うけれど」
「わ、わからないじゃないか。仮にそういう分かりやすいのじゃないにしても」
「それはまあ、あるかもしれないけど」
「だろう? そ、そうだ。俺はなんで、こんなところに呼ばれたのでしょうか?」
翔は下手から出て、質問を投げかけた。
それを聞いた氷上は、目を細めて眉間にしわを寄せた。
「あの手紙の真意を尋ねにきたのよ。何、あれ?」
「最初の果たし状みたいなやつについては本当に申し訳ありませんでした。二枚目については記載した通りです、はい」
「同級生相手にそこまで畏まられると気持ち悪いわね。それで、手紙に書いてあったことに対する答えだけど……断らせてもらうわ」
「普通そうなりますよね」
「あの、まずその敬語やめてもらえる?」
「お、おう」
翔は終始氷上に押され気味だった。
クラスの人間相手だとどうもやりづらい。氷上が、俺にバンド誘われたーとか言いふらさないタイプだと見込んで接触してみたが、てんでダメだ。
「なぜあなたが私をバンドに誘ったか知らないけど、他をあたってちょうだい。私、目立つの好きじゃないから。だから今日この場所を指定したの。屋上だと誰かいる可能性があるから」
「俺も目立つのは好きじゃない。むしろ嫌いだ」
「え? なのにバンドしようとしてるの?」
氷上は意味が分からないとばかりに目を丸くさせた。
「それは、あの、氷上さんの、いや、何でもないごめん。確かにおかしいよな。俺みたいな日陰者がバンドやりたいだなんてさ」
翔は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、別の言葉で会話をつなぐ。
氷上の声、歌を聞いて、いてもたってもいられなくなった、なんてとてもじゃないけど言えない。キモがられるに決まっているし、単純に恥ずかしい。
「あなたが日陰者かどうかは関係ないでしょ。自分がやりたいかやりたくないかが大事なんじゃないの?」
氷上は若干語気を荒くしながら、翔を問いつめるように声を叩きつける。
「そう、だね。氷上さんの言うとおりだ。ぐうの音も出ない。周りの目を気にしてばかりじゃ何もできないって、分かってはいるんだけど」
「話は終わりね。私は姿月くんがバンドをやりたがってるってこと言いふらしたりなんかしないから安心して。その代わり、あなたが私を誘ったこと、私がそれを断ったこと、誰にも言わないでね」
背を向け、校舎の方に戻っていきながらそう告げる氷上。
翔は、去っていく氷上の背中に、フッと湧いた疑問を投げかけてみた。
「それはもちろん。変な噂流れても困るし。そうだ、最後に一つ、いいかな。氷上さんに聞いてみたいことがあったんだ。ほら、俺たちって普段しゃべらないだろ? こんな時じゃないと聞けそうにないからさ」
「手短に」
「ありがとう。氷上さんも俺と同じく目立つのが嫌いなんだよな? なら、なんで合唱コンクールのソロパート決めの時、あんな本気で歌ったんだ? わざと下手に歌えばソロに選ばれることはなかったのに」
氷上は思わず足を止めた。
回れ右で振り返った氷上は、一直線に翔を見据えた。
目力のある氷上ににらまれ、後ずさりそうになった翔だが、なんとか踏みとどまった。
「言いたくない。だから言わない。でもだからって変な勘違いはしないで。目立ちたくないっていうのは本当。矛盾しているのは自分でも分かってる。……じゃあ、今度こそ行くわね」
後半はもう、普段の氷上に戻っていた。
感情をあまり表に出さず、当たり障りのないことばかり言う氷上に。
思いの外強く言われて翔はたじろいだ。
怒らせてしまったのだろうか。それとも用事があって急いでいたとか?
どちらにせよ、勧誘失敗だ。
しかもどうやら俺は、氷上を怒らせてしまったらしい。
克己に失敗の旨のメッセージを送りながら、帰路につく翔だった。