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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第四章 動乱前夜
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父の上洛

新院が鳥羽の田中殿を出て、斎院の御所へお移りになったことはすぐさま都に広まった。

次いで前左大臣、頼長さまも宇治からご上洛になりそちらへお入りになる。


為義さまは、新院と頼長さまのご身辺をお守りするべく、兵を率いてご子息がたと一緒に参上されたとのことだった。

義朝さまは、近頃はもうほとんど片時も離れずに高松殿の内裏に詰めていらっしゃる。


「本当に戦になどなるのかしら」

千夏が不安げに言った。

「新院と前左大臣さまが謀反を企まれたからって、それでどうしてこんなに物々しいことになるの? 普通ならば新院がご出家などなさって、左大臣さまは一時都を払われて……それでおしまいではないの?」


千夏の言うことは最もだった。

これまでにも都のうちで帝の位、東宮の位、摂関家の方々がその地位をめぐって争いが繰り広げられたことはあった。

けれどそれはあくまで政争──九重の奥深く、御簾の内でひそやかに行われるものだった。


こんな風にお互いがそれぞれの御所に武士たちをかき集め睨み合うなどということは、京の都の人々にとっては前代未聞のことだった。


「新院方はご謹慎なさるどころか、ますます盛んに兵を集めていらっしゃるらしいわ。諸国から集って来た武者たちが御所の外にまで溢れて近くを通るだけでも恐ろしい有様ですって」


「そもそも、そのご謀反っていうのがよく分からないのよね。左大臣さまのお邸で怪しい僧が祈祷をしていたっていうのは聞いたわよ。でも、それでどうして新院までがご謀反に加担していたってことになるわけ?」

「だから、その祈祷っていうのが今上の御代を傾けむとする呪詛だったんじゃないの? 今上と東宮さまを呪詛し奉って、その、お二人を御位から下ろされたあとに新院の一の宮さまを御位におつけしようっていう企みだったとか」

女房たちの話題は寄るとさわるとそのことばかりだった。


十日の昼間。

三条坊門のお邸に数日ぶりに正清さまがいらっしゃった。

珍しく興奮した面持ちで、

「佳穂! 佳穂!」

と御簾の外からお呼びたてになる。


「はい。どうなさいました?」

簀子縁に出て行くと、そこにいたのは長田の父さまと、景致兄さま、頼致兄さまをはじめとする懐かしい実家の一族の面々だった。

「おお、佳穂か。佳穂なのか」

「はい。父さま。お久しゅうございます」

階から下へ降りて頭を下げた私を父さまはだしぬけに抱きしめた。

「おお、おお。元気そうではないか。こんなに大きゅうなって……」


「そうですか。身の丈は前もこんなようなものだったと思いますが」

頼致兄さまが笑いながら言う。

「いいや、大きゅうなったしそれに見違えるほどに美しゅうなったぞ。母さまの若い頃に瓜二つだ」

「また始まった」

「親バカの上に惚気ですか」

兄さま方が口々に言われるに父さまは、

「言うておれ。おまえ達とて娘を嫁入りさせる年頃になれば分かるわ」

と言い返されている。


父さまも兄さまも、直垂姿に籠手をつけ、脛当を履き、腰の右側に脇楯と呼ばれる防具を着けたいわゆる「小具足姿」と呼ばれる服装だった。

正清さまは近頃は、ほとんどこの姿で過ごされている。

先日、左大臣さまの東三条殿へ押し入られた際は、この上にさらに鎧と兜をつけてお出ましになられていた。

つまり、小具足姿というのはあとはこの上に鎧、兜を着ければすぐに戦場に出陣できる、いつ戦が始まってもいいように備えている時の格好なのだ。


「義父上は、此度の戦にお味方下さるためにご上洛下さったのだ。そなたからも御礼を申し上げるといい」

正清さまが言われた。

「まあ」

私は目を瞠った。

「それでは本当に戦が始まるのですか?」


「今更何を言っておる。あちらでは新院と前左府がすでに斎院御所から白河北殿へうつられて、門という門を固めて昼夜となく気炎をあげているらしい。こちらでも先日、信西入道が直々にお出ましになられて警戒を怠らぬように、いつでも出陣出来る心構えで備えよとのお言葉があった」


「では父さま方も戦にお出になるのですか?」

見るからに百戦錬磨といった感じの義朝さまやその配下の方々と比べて、長田の父さまも兄さま方も、いかにも田舎の呑気な長者とその一族といった感じで頼りない。


義朝さまが東国にいらした頃は近隣の豪族同士の所領の境界争いや、御厨をめぐる争いに介入されたり、小規模な戦闘をしょっちゅう経験されていたらしいけれど、野間の方ではどんな争いにも父さまや兄さまが鎧を着て出られたなんて話は聞いたこともない。

そんな人たちが、いきなり都のこんな帝と院が対立なさるような大変な戦場に出たりして大丈夫なのかしら。


父さまたちは昨晩、上洛されて四条の家に入られたところらしい。

「殿は、義父上がたの参陣をたいそうお喜びになられ直々にお言葉をかけられた。俺もおかげで面目を施したぞ」

心もとない思いでいる私をよそに正清さまは喜ばしげに言われた。

父さまも満足げに頷いておられる。


今回の戦では、正清さまも義父上と敵味方に分かれて争われることになる。

当然、鎌田の家付きの郎党もこちらとあちらに分かれて戦うことになるわけで……。

率いて出られる手勢が少ない中で、舅とその一族が手勢を率いてはせ参じたということは、正清さまにとって誇らしく、心強いことのようだった。



いつ戦が始まってもおかしくないということで、父さま方も諸国から上がってきた郎党の方々が集まっている東の対の一角に寝起きして貰うことになるという。


「では、こちらのお部屋を父さまと兄さま方。そのお隣りが叔父さま方で、その他の人たちはあちらの曹司の方へ──七平太がご案内しますわ」

部屋を割り振りながら、調度の支度をする。

楓をこちらへ呼び、さしあたってのお身の回りの世話をとりしきって貰うことにする。悠も一緒についてきた。


「かあさま」

私を見ると嬉しそうに駆け寄って腰に抱きついてくる。

「姫。お利口にしていましたか?」

私が髪を撫でて言うと、

「はい。北の方さまのところで浅茅さまのお手伝いをしていました」

悠はこくりと頷いた。

「姫さまはとても利発でいらして、浅茅さまや北の方さまにもお褒めの言葉をいただいてばかりで……」

楓が自分のことのように嬉しそうに言う。


「とうさま」

正清さまのお姿をみつけた悠が私の手を引いてそちらへ行こうとする。

それに気がついた正清さまが、こちらへやって来て悠を片手に抱き上げられた。


「おお、少し見ない間にまた大きゅうなったな」

「あら。長田の父と同じことを仰いますのね」

「ああ、大きゅう美しゅうなった。だが、聞いた話では悠はこの母よりも随分とお利口にしておるようだな。木登りなどはしておらぬか」

「まあ、嫌な方」

正清さまが笑うと悠も嬉しそうな声をあげて笑う。

私は少し切ない思いで、正清さまに抱かれている悠の背をそっと撫でた。


万事にそつのないこの子は、最近では特にあまり顔を合わせることもない父親の正清さまにも、ばたばたとお邸内の用事で駆け回り、ほとんど楓にまかせきりの母親の私にも、顔を合わせればこうして適度に甘えてみせてくれる。


けれど、それは本当に分を弁えた「適度」なもので、聞き分けなくぐずったり、わがままを言ったりして困らせることは決してない。


両親や槇野に好き放題に甘えて育った自分の子供の頃を思うと胸が痛んだ。


「では俺はそろそろ、殿のもとへ戻らねば」

 悠を私に渡そうとした正清さまのお手がふっと止まった。

「殿?」

 見ると私の背後の方に視線を向けたまま、目を細めるようにしてそちらをご覧になっておられる。

振り向いてみると、そこには私とそう変わらないくらいの年恰好の若武者が立っていてじっとこちらを見ていた。

ただ、親子のやりとりを眺めているというわりには妙に無表情で、冷めた様子が気になって見返しているうちに気がついた。


「……致高さま?」

それは従兄弟の致高さまだった。


三つ年上の致高さまと私は幼い頃から、実の兄妹のように睦まじく育った。

私が上洛して以来だから六年ぶりということになる。


「致高さま! 致高さまもいらっしゃったの?」

思わず昔のままの口ぶりで言うと、致高さまは苦笑して軽く手をあげられた。


「久しいな、佳穂。少しは大人びたのかと思えば相変わらずだ」

以前は、いつも年齢よりも幼く見られてご本人はそれを嫌がっていらしたのに、今年二十四になるはずの致高さまは年よりも落ち着いたというか、老成して見えてなんだか知らない人のようだった。


それでも呆れたように笑われるそのお顔とお声は間違いなく私のよく知っている致高さまのもので、私は嬉しくなって正清さまを振り仰いだ。


「殿。従兄弟の致高どのです。菅田の叔父のところの三郎君で……」

「ああ。婚礼の折か何かにお目にかかったかな」

「いえ。その折は所用にて某は出席出来ず失礼をいたしました。正清どのにはお初にお目にかかりまする」

致高さまの声は、やけに鋭く、切り返すように響いた。


私は驚いたが、正清さまは律儀に会釈を返されると、

「この度は参陣いただき礼を申し上げる。何か不自由があれば何なりと佳穂にお言いつけ下さるように」

と言われ、今度こそ私に悠を渡すと

「しばらくはあちらへ詰めたきりになる。何かあれば七平太に言って寄越せ」

と言い置かれて、父さま、兄さま方に挨拶をされてから寝殿の方へ足早に戻っていかれた。


「婿どのは相変わらず、殿の御覚えもめでたいようで結構なことだ」

父さまがその背中を満足そうに眺めて言われる。

そう言えば父さまに悠を合わせるのは初めてだった。


「父さま。この子が悠です。悠、こちらがあなたのお祖父さまよ」

抱いたままそう声をかけたが、父さまは、

「ああ」

と短く頷かれただけで、それきり悠の方をちらりともご覧にならないまま、

「ああ。しかし疲れたな。一働きするにしても一晩くらい休みたいものだ」

とわざとらしい大声で言いながら室内に入っていってしまわれた。


楓が慌てて、円座や脇息を用意して白湯をおすすめしている。


居たたまれない思いで立ち尽くしている私を見かねたように、頼致兄さまが寄ってきて、

「おお、これが佳穂のところの小姫どのか。器量良しではないか」

と声をかけて下さる。


けれど、悠は怯えたように私の胸に顔を埋めてしまった。

ある日突然、知らない大人たちのなかに放り込まれて、そこで懸命に愛想をふりまいて育ってきたこの子は他人からの悪意や冷たい視線にひどく敏感だった。


「大丈夫よ、悠。母さまとお部屋に戻りましょうね」

私は悠の背中をそっと撫でると、一度北の対へと戻ることにした。


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