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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第四章 動乱前夜
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夫の愛人(三)

紗枝さんの愚痴を聞きつつ、なんだかんだと話し込んでいると、

「御方さま! こちらにいらしたのですか」

慌てた様子の七平太がやってきた。


「あら、どうしたの。七平太」

「どうしたのではございません! 弓のお稽古を終えられて御曹司が先ほどからお迎えを待っておられます」

「え、もうそんな時間?」

いけない。つい話に夢中になって時間を過ごしてしまったらしい。


「ごめんなさい。すぐに行きます」

紗枝さんに会釈をして行きかけたその時。


「遅い! いったい何をしておったのだ、おまえは!」

聞きなれた怒声が飛んできた。


見れば正清さまが、お怒りもあらわなお顔でこちらに歩いて来られるところだった。


その背後から、鬼武者さまが懸命に

「正清。私ならばいいんだ。お願いだから佳穂をそんなに怒らないで!」

と仰るのに

「いいえ。お迎えの時間に遅れて御曹司をお待たせするなど言語道断。他の者ならばともかく、それがしの妻がそのようなご無礼をはたらいたとあっては示しがつきませぬ!」

と返されながら、ずんずんとこちらへ近づいていらっしゃる。


私は慌てて頭を下げた。

「も、申し訳ございませんっ!!」

「申し訳ないですむか! いったい何をしておったのだ、こんなところで!」

「あの、それは……」


「どうせ、立ち話にでも夢中になっておったのだろう。ほんとにお前というやつはいつまでたってもふらふらと落ち着き、の、な……い……」


きっと睨みつけた視線が私の隣りで止まる。


「あら。おひさしゅうございます」

 絶妙のタイミングで紗枝さんが一歩、進み出た。正清さまが、う…っと声を詰まらせて立ち止まる。


「申し訳ございません。大切なお役目がおありとは存じませず、私が奥方さまをお引止めしておりました。お叱りになるのならどうぞ私を」


 しおらしげに言って頭を下げる紗枝さんと、その隣りの私を正清さまは忙しく見比べた。

 しばらくの沈黙のあとに、絞り出すように出したお声には気の毒なほどに狼狽が現れていた。


「……こんな、ところで、いったい何を……」

「久しぶりにお姿をお見かけしたのでご挨拶をと思いましたら、つい話が弾んでしまいまして」


「挨拶って、なんでわざわざ佳穂に……」

 正清さまが、ちらっとこちらをご覧になる。


 紗枝さんが、うふふと笑った。

「ご心配なく。大切な奥方さまを苛めたりはしておりませんよ。以前はさんざん叱られましたものね。余計なことはするな、って……」

 そう言って紗枝さんは私をふり返った。


「はじめて佳穂さまにご挨拶をさせていただいた時があったでしょう? あの後、『まだ年若いうちの妻に要らぬことを言って泣かせるな、俺はあれの泣く顔は見たくないって』私、と~っても叱られましたのよ。おかしいと思われません? 本当に佳穂さまを泣かせたのはいったいどこのどなたなのかしらね」


「ばっ……何を言うておる!」

「何をも何も、かつてあなた様が仰ったことをそのまま申し上げているだけではありませんか」


 さっきの思い出話をしているうちに、くすぶっていた怒りに火がついてしまったのか紗枝さんの態度はやたらと挑戦的だった。

 はらはらしながらも心の片隅で、ちょっとワクワクしながら紗枝さんを応援してしまっている私はやっぱり情の薄い女なのかしら。


「今日もただ、ご挨拶をしてこれまでの来し方行く末のことなどお話していただけにございます。私たち、話してみたら案外気が合いましたの。ね? 佳穂さま」

「え、ええ……まあ」


「誰? どうしたの?」

 鬼武者さまがお袖を引くと、正清さまはハッと我に返ったように顔を上げた。

「これは失礼を致しました。その、こちらは……」


 その言葉を引き取るように

「こちらの御殿にお仕えしております紗枝と申します。この度は私のせいで佳穂さまのお迎えが遅れてしまって申し訳ございませんでした」


 紗枝さんがにっこり微笑んだ。

 その声の調子といい、小首を傾げて微笑む仕草といい、いかにも優雅に洗練されていて、さすがに都育ちで、お邸勤めを長くしている人は違うとこんな時なのに妙に感心してしまう。


 鬼武者さまは鷹揚にうなずかれた。

「いや、構わない。佳穂の知り合いなの?」


「はい。鎌田さまのご夫婦にはどちらにも大変お世話になっておりまして……」


「御曹司! そろそろお戻りになられませんと‼!」

 正清さまが唐突に言って、鬼武者さまのお手を引いて歩きだされる。

「で、では紗枝どの。これで失礼致す」


 足早に立ち去りかけて、しばらく言ったところでこちらを振り返り、

「何をぼうっとしておる。おまえもさっさと来い!」

ぽかんと見送っていた私に言う。

ご自分がここにいるのは限界だけれど、かといって私と紗枝さんを二人で残していくのもお嫌らしい。

まあ、お気持ちは分からないでもないけど……。


「え、あ、はいっ」

 慌ててあとを追おうとするその背中から、紗枝さんの声が追いかけて来る。


「まあ。大切な奥方さまにそのような怖い物言いをしてよろしいのですか? あれだけ見たくないと仰っていた泣き顔にさせてしまうのではありませんか?」

 ものすごく楽しそうな声だ。


 思わず立ち止まって振り返ろうとしたところで、正清さまの

「佳、穂! さっさと来い‼」

 というお声が飛んできて私は紗枝さんに、ちょこんと会釈をしてそのままお二人のあとを追いかけた。


 御簾の影や、庭のむこうで興味深げにこちらを見ている女房や、郎党がたの姿がちらほら見える。

 しばらくはまた、面白半分の噂に悩まされるかもしれないと思いながらも、私はさっきの狼狽しきった正清さまのお顔を思い出して、思わず緩みそうになる口元を懸命に引き締めた。


紗枝さんと私がこれまでに味わった色々な思いのことを考えたら、これくらいは許されてもいいわよね。




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