波多野義通 (一)
鬼武者さまをお稽古場までお送りして、さて北の対へ戻ろうと簀子を歩いていると、
「佳穂どの、佳穂どの!」
と庭先から声をかけられた。
見ると、正清さまのご朋輩のお一人がにこにことこちらに手を振っておられる。
「まあ。首藤さま」
私は足を止めて頭を下げた。
「おひさしゅうございます」
「まこと。久しぶりだ。相変わらずお美しい」
「お上手ですこと」
首藤滝口と仰るその方は年の頃は二十二、三ばかり。
正清さまとは同じ相模のご出身だそうで、私が京に上がったばかりの頃などはよく我が家にも遊びに来ていらした。
「正清殿にお邸の奥深くにしまい込まれているという噂だったが、出歩いてもよろしいのですか? 今日は虫干しですか?」
「まあ!」
からかうように言われて、私は軽く首藤さまをにらんだ。
「おやめ下さいませ。別にしまい込まれたりしておりませぬ」
「おや。聞いた話では他の男の目に触れぬように邸の奥の長櫃に後生大事にしまいこんで、鍵をかけてあるということでしたが」
「でたらめです。そんな話をなさると我が殿がお怒りになられますよ」
「もうさんざんにからかって、さんざんに怒られたあとですよ。おかげで最近はちっとも家に呼んで貰えない」
「悪い方ね。お願いですからもうそのことで夫をおからかいになるのはおやめ下さい。あの六条での宴のお話は本当にそういうことではないのですから」
「まあまあ。別に誰も責めておるわけではないから良いではないですか。それがしだとて、佳穂どのが我が妻であれば大事に隠して外になど出さぬ」
「調子のよろしいこと……」
欄干越しにそんなやりとりをしていると、
「そんなところで何をしておる!!」
背後から怒鳴り声が飛んできて、首藤さまはぎくっと肩をすくめた。
見ると少し離れた場所から、年の頃四十くらいの厳めしい顔をした男性が立ってこちらを睨んでいた。
「弓の稽古の時間だというに、そんなところで何を油を売っておるのだ」
「も、申し訳ございません。すぐに参ります」
首藤さまは私に一礼すると、くるっと踵を返してその人の方に駆けだした。
男性はふうっと大袈裟にため息をついて言った。
「まったく近頃の若い者ときたら。武芸の稽古もそこそこに女の尻ばかり追いかけておる。おまえも坂東武者ならそんな都の浮かれ女なんぞに鼻の下を伸ばしておるのではない!」
こちらに聞えよがしの大声だった。
正直、むっとしたがこんなことでいちいち腹を立てていてはお邸勤めは出来ない。
まだまだ、邸勤めの女房を「慎みがない」と快く思わない男性は多いのだ。
うちの正清さま自体も、いまだに若干その気配がおありになるし。
だから気にせず立ち去ろうとしたのだけれど、正清さまとは同郷の首藤どのの方が慌てたように私の方を振り返って、
「は、波多野どのっ。失礼ですよ。あちらの女人は鎌田次郎どのの奥方ですよ」
と仰った。
首藤さまは純粋に私へ……というか正清さまへのお気遣いで言って下さったのだろうけど。
「何? 鎌田だと?」
それを聞いた「波多野どの」と呼ばれている男性の表情が変わった。
正清さまのお名前を出されては、そのまま行き過ぎるわけにもいかない。
私はそちらに向き直って、深々と頭を下げた。
波多野さまは大股にこちらに歩み寄って来られた。
正清さまは何と言っても義朝さまの乳母子にして一の郎党。
お邸内でのお立場は強い。
失礼致した、とでも謝られるのかと思い、気分を損ねていないことを表すために笑顔を向けようとした私に、
「鎌田の妻がこんなところで何をしておる」
波多野さまがはき捨てるような口調で言われた。
「え?」
「は、波多野どの」
首藤さまが慌てて割って入られる。
「佳穂どのは、殿の北の方さまのもとへお仕えしておられまして……御方さまのお話相手や若君がたのお世話など……」
「ほう」
値踏みするような視線が当てられる。
鎌田、と呼び捨てられるからにはこの方は正清さまには上役にあたられる方なのだろう。
感じの悪い人だけれど失礼があってはいけない。
そう思って、
「鎌田次郎正清の妻の佳穂と申します。いつも夫がお世話になっております」
挨拶をしたが、波多野さまは聞こえなかったように会釈もかえさずに、ふんと鼻を鳴らされた。
「義朝どののご機嫌をとるしか能のない男だと思うておったが、北の方さまや若君のもとにも妻を潜り込ませて取り入っておったとは。さてもぬかりのないこと。無骨な我々、坂東武者には真似の出来ない芸当よ。いや、恐れ入った」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
ぽかんとしている私の前で、首藤さまが慌てふためいている。
「は、波多野どの。何を言われます」
「本当のことを言うただけではないか。おべっか使いをそう言うて何が悪い」
「波多野どの!」
止めようとする首藤さまを邪険におしのけて、波多野さまはぐっと私を睨みつけられた。
「思い出したぞ。なんでも六条のお館にも出入りさせて御曹司がたのお気を引いておったとか。四郎御曹司が随分ご執心であられたとか皆が言うておったのはこの女子であろう」
「いや、そんなことは……」
「義朝どのの乳母子でありながら、六条へもほどよく尻尾を振り、その為には自分の妻さえ差し出すとは。なんとも見下げ果てた性根よ。父祖代々、乳母子として腰巾着のようなことをしておると、そのような男になり果てるのやもしれぬな」
そう言ってわざとらしい大声で笑われた。
あまりにも突然に、あからさまな悪意と侮蔑の言葉を次々投げつけられて呆然としている私の前で、
「も、もう行きますよ! 佳穂どの、ではこれで」
首藤さまが背を押すようにして、波多野さまと立ち去っていかれた。
私はその後ろ姿を見送りながら、黙って立ち尽くしていた。
 




