五月雨 (一)
年明けて久寿二年、五月。
帝の御病状はいよいよ深刻なものになっていった。
都のうちに、御病平癒を祈祷する読経の声、護摩を焚く煙が途切れる日はなかったが、帝がいま一度、ご回復なさることはないということは誰の目にも明らかだった。
ただお一人、ご生母の美福門院さまを除いては。
義朝さまは、祈祷に使う護摩壇などを作らせては院の御所にしきりと寄進なさっているようだった。
数年前から荘園の寄進などを重ねてきた義朝さまは、少しずつだけれど着実に院とその院の御所からの信頼を得ておられた。
私はまた三条坊門のお邸にあがるようになっていた。
由良の方さまから、端午のお節句にこと寄せて
「今年も佳穂のつくった薬玉が見たいわ」
とのお使いを下さったので、献上するかたわら久しぶりに参上したのを機にまた数日ごとに伺わせて貰うようになったのだ。
薬玉というのは、御方さまが随分と無沙汰を続けてしまった私が帰参するための口実を作って下さったのだと思う。
そのお心遣いが分かっていたから、私はとりわけ心を込めて丁寧に薬玉を作った。
献上したそれをご覧になった御方さまは
「綺麗ねえ。佳穂のはこういったものにしても着物にしても、色合いの選び方と合わせ方が上手いのね。この細工も見事だこと」
と絹糸と布で作りあげた菖蒲の花飾りを撫でながら仰って下さった。
乳母どのの膝に抱かれた綾姫さまが、
「だあ、だあ」
と可愛らしいお声をあげて、お手を伸ばされる。
御方さまは微笑んで、献上したなかから小さな手鞠細工をとりあげて姫さまに持たせて差し上げた。
たおやかで気品に溢れたお美しさは相変わらずでいらっしゃるけれど、頬のあたりが心なしがほっそりとされたようだ。
「七条の御方に、秋には二人目となる御子がお生まれになるらしいわよ」
四条の家に遊びにきてくれた千夏と小妙から聞いた話を私は思い出した。
それでも内面はどうあれ、御方さまはやはり毅然としていらして、お側に寄らせていただくだけで自然と背筋がすっと伸びるような凛とした雰囲気は以前のままであられた。
清冽な深山の空気のようなその御前の雰囲気が懐かしく心地よかった。
私が邸に引きこもっていたこの半年以上の間に、こちらのお邸でもさまざまな変化があった。
小妙は結婚して人妻となっていた。
私より二つ上で、もう二十歳を過ぎているのだから何も不思議なことはないけれど。
夫君は、さる宮家の家司をつとめている方で親戚筋の紹介でまとまったご縁らしい。
結婚してもお邸勤めは続けていて、数日に一度、室町小路のあたりに構えた夫婦の新居に戻っているのだそうだ。
「それでね。うちの殿ったらね。本当に私がいないと何にも出来ないの。 この間だってちょっと姫さまのご用で時間をとって帰りが遅くなったらもう拗ねてしまって大変。私がいないとダメな人なの。もうなりは大きいけど、子供みたいな人で……」
御用の合間に交わすお喋りは、以前は千夏の華麗なる恋愛遍歴の披露の場だったのだけれど、最近は完全に小妙の独壇場だった。
五つ年上のその夫君は、新妻の小妙に夢中のようで、小妙が言うにはもうそれこそ内親王さまにでもかしづくように、大切に大切にしてくれているらしい。
そうされて小妙の方も満更ではなかったようで、結婚前に四条のお邸に来て、縁談の話をしてくれた時には、
「まあ、取り立てて心惹かれるようなお相手でもないけれど、特に嫌なところもないしこんなものじゃないかしら。私もそれなりの年だしね」
なんて冷めたことを言っていたのに、今では
「もう本当にやきもち妬きで困っちゃう。うちのお邸なんて北の方さまと小さな若君さま、姫さまがいらっしゃるだけでそんな若い殿方なんてまわりにいないっていうのに変な心配ばっかりして…本当に仕方ないのよ。まあ、そこが可愛くもあるんだけれど」
と、たいそうなのぼせっぷりである。
「ほんとに男の人ってなんであんなつまらない事を気にするのかしらね?ねえ、佳穂」
ねえ、って言われても。
やきもちなんて妬かれたどころか、正清さまにそんな感情があるのかどうかもよく分からない。
あ、でも、昨年、新しく東国からきたすごく上等な葦毛の馬がご自分より七平太の方にうんと懐いてしまったときはご機嫌を損ねていらしたっけ。
「もういい。俺はそんな馬、絶対乗らない」
とか仰って。
そのくせ、あとでこっそりご自分でいつもよりいい飼い葉をあげたりして何日もかけて懐かせようとしていたのよね。
別にヤキモチをやいて欲しいわけではないけれど、馬以下の存在かと思うとさすがに空しいものがあるわ。
「なんなのよ。ぼんやりして。人妻の先輩として色々教えて貰おうと思ったのに」
「お役に立てなくて申し訳ないけど、そういう方面に関しては私に助言出来ることは何一つないと思うわ」
「なに言ってるのよ。鎌田殿がものすごーく嫉妬深いっていうのはお邸内でも有名じゃないの」
「だからそれは根も葉もない噂で……」
小妙の勢いは止まらない。
私たちが聞いていようがいまいが構わないといった様子で、頬を上気させて夢中で喋り続けている。
私は顔は小妙に向けたまま、そっと隣りの千夏の膝をつついた。
「ねえ、小妙って結婚以来ずっとああなの」
声を潜めて尋ねると、千夏もやはり正面を向いたままで溜息をついた。
「そうよ。もう三ヶ月はたつと思うんだけれど、おさまるどころか日に日に酷くなるわ」
「はあ、夫君にあそこまで夢中になれればある意味幸せよね……」
呟くように言うと、べしっと千夏に膝を叩かれた。
「なに他人事みたいに言ってるのよ。上洛してきたばかりの頃のあんただってまあまあ酷かったわよ」
「嘘。こんなんじゃなかったわよ」
「嘘じゃないわよ。毎日、毎日、明けても暮れても、殿、殿、殿って。馬に乗っていらっしゃる姿が凛々しいだの、甲冑姿が勇ましくて素敵だの、柱の角に足の指をぶっつけて絶対に痛かったはずなのに意地でもそんな素振りを見せないところがお可愛いだの、馬っ鹿じゃないの。二、三度、本気で引っぱたいてやろうかと思ったわ」
「……ほんと、馬っ鹿じゃないの、ねえ…」
それは二、三発引っぱたかれても文句言えないわ……。
その時、簀子の方で
「もし、佳穂どのはこちらにいらっしゃいますでしょうか」
という声がした。
「はい」
私が返事をすると衣擦れの音は近づいてきて、鬼武者さまのお乳母の小兵衛の君が入ってこられた。
小兵衛の君のご用向きは、以前のように鬼武者さまの武術のお稽古の付き添いを頼みたいとのことだった。
私は快く承知した。
「私で良ければ喜んで」
「ありがとう。助かるわ。佳穂どのがいらっしゃらない間は千夏どのにお願いしていたのだけれど、先日から急に渋られるようになって…」
千夏はそ知らぬ顔で視線を逸らしている。
この半年ばかり熱愛中だったあちらの若い郎党の方と十日ほど前に、本人曰く
「完膚なきまでに破局」
したらしい。
来世を誓った仲だったはずなのに、今となってはもう顔を見るのも嫌なのだそうだ。
「それで小妙どのにお願いしようと思ったら…」
小兵衛の君に恨めしげに見られて、小妙は
「申し訳ございませぬ。私としてもお役に立ちたいのはやまやまなのですが、あちらのように殿方の多いところに出入りしたりするのが知れるとうちの人がもう大変で…」
口調だけはしおらしげに、けれどどこか誇らしげに言った。
「それというのも、うちの人ときたらもう大層なやきもち妬きで…」
小妙の惚気がまた最初から繰り返されそうになるのを、
「出入りしたのが知れたらって、あんたが自分で言いさえしなければ知れるわけがないじゃないの」
千夏のぼやきが遮る。
「あら、そんなの分からないでしょう。この間だってねえ…」
「はいはい。あとで聞くから」
「では、佳穂どの。よろしくお願い致します。若君は今、御方さまのお居間にいらっしゃいますの。
弓のお稽古は申の刻からとなっておりますので、そろそろ…」
「はい。今からお迎えにいって参ります。終られましたらお部屋の方までお送り致しますので」
「ありがとう。本当に助かりました」
小兵衛の君が出てゆかれるのを見送って私も立ち上がった。
鬼武者さまは今年、御年九つになられる。
母君譲りの品の良い、涼やかなお顔立ちはご幼少のころのままだったけれど、しばらくお目にかからない間に背丈がぐんと伸びられ、少しずつ父上の義朝さまの精悍な逞しさが添ってこられたようであった。
私がお迎えにあがると
「ああ。では参ろうか」
と頷かれるさまなど、鷹揚な気品がおありになって、源氏の棟梁としての威厳が今から輝くようであられた。
武芸のお稽古は寝殿の南庭の片隅に設けられた一角で行われる。
本日は弓のお稽古とのことだった。
正清さまが仰るには鬼武者さまの弓の腕前はそれはもうお見事なもので、今からもう大人が引くような大きな強弓を楽々とお引きになられるらしい。
「ほんとうに八幡太郎義家公のご再臨に違いなし、と夫が繰り返し申しております」
寝殿に向かう途中、私がそう口にすると鬼武者さまははたと立ち止まられた。
そのまま、じいっと私をご覧になる。
なにかお気に障るようなことを申し上げてしまったかしら、と不安になりかけた刹那。
「佳穂」
鬼武者さまがお口を開かれた。
「なんでございましょう?」
次の瞬間、
「佳穂は正清に他に女の人がいても平気なの?正清がよそで生ませた娘を引き取って育てていて…それは嫌ではないの?」
思ってもよらない方から思ってもみないことを言われて私は絶句した。




