手鞠(三)
(まったく、割に合わない)
七平太は、やりきれない思いで溜息をついた。
その途端、
「聞いておられるのですか、七平太殿!」
居丈高な叱責が飛んでくる。
「聞いておりますよ。そのようにがみがみと怒鳴り立てられたら嫌でも聞かないわけにいかない」
「まあ」
槇野がたちまち眉を逆立てた。
「なんですか、その言い草はっ! 無礼な!」
「無礼をしたくもなりますよ。さっきから何度同じことを言わせるのですか。だから、それがしなどは何も知らぬと申しておるではありませぬか」
四条の邸を訪れるのは久しぶりだった。
この頃、あるじの正清は多忙である。
自然と、七平太もその使い走りであちらこちらへ飛び回らねばならず、時には都を離れることもあったりして、以前のようにしばしばとこちらを訪れることは出来なくなっていた。
(だから、今日は久方ぶりに御方さまにお目にかかれると思っていたのに……)
いや、会えることは会えたのだが。
「佳穂。今帰ったぞ」
正清がそう言って、邸内に入っていくとすぐに悠姫の手を引いた佳穂が出てきた。
「おかえりなさいませ、殿。お疲れさまにございました」
夫を迎える声は明るく弾んでいる。
そのとなりで三つになるという悠姫が、教えられたとおり小さな手を床について、
「父しゃま、おかーりなしゃ、ませ」
と挨拶をする姿は、とても愛らしかったが、それを見る七平太は複雑な思いだった。
「留守中、変わりはなかったか?」
いつも通り佳穂に尋ねた正清は、そのあとで娘の頭に手をやり
「良い子にしておったか?」
と髪を撫でてやっている。
「はい」
よくまわらない舌で応えると、悠姫は恥ずかしげに母の後ろに隠れた。
佳穂がくすくすと笑って姫を膝に抱き寄せ、正清はその様子を苦笑しながらみつめている。
「お食事になさいますか?」
「いや、少し休む。些か疲れた」
この主がそんな事と口にするのは珍しかった。
よほど、このところの義朝と為義一派との不仲の調停に奔走する毎日が堪えているらしい。
佳穂は一瞬、顔を曇らせて、だがすぐに明るく言った。
「お湯もたててございます。お使いになられるようならばすぐにでもお支度致しますけれど」
「そうか」
正清が振り向いた。
「ありがたい。では、そうさせて貰おうか」
「では、すぐに支度して参ります」
あるじ夫婦は奥に入り、七平太たち郎党も下屋にうつって、侍女たちが運んできてくれた膳を前に一息ついていたところだったのだが。
食事が終るのを待ち構えてでもいたように、佳穂の乳母の槇野が忙しない足取りで入ってきた。
驚いている七平太を掴まえると、有無を言わせぬ勢いで他の者から少し離れた場所に引っ張っっていく。
それきりもう半刻近くも、「悠姫の出自」についてあれこれと問いつめられ続けているのだ。
槇野の気持ちも分からないではない。
大事な養い君の夫がある日突然、素性も知れない娘を連れてきたのだ。腹を立てない方がどうかしている。
七平太だとてこの話を聞かされた時は、佳穂の為に心を痛めたり憤ったりしたものだ。
だから、気持ちは分かるのだが、だからと言って自分を責められても困るというのだ。
そもそも、悠がこちらへ引き取られた頃、七平太は都を離れていた。
所用をいいつかって、一月ばかりかけて東国へ下向して先頃帰ってきたばかりなのだ。
事の顛末や詳しい事情については、槇野以上に何も知らないといってもよかった。
「だいたい、姫さまが誰のお子であれ良いではないですか。御方さまがお手元でお育てになると決めたのでしょう」
だったら、余計なことは知らない方が良いのではないか。
槇野は腹だたしげに鼻を鳴らした。
「御方さまはああいった呑気なご気性ですからね。殿がご自分に嘘をお吐きになるなど、夢にも疑っていらっしゃらないのです」
「では、それで良いではありませぬか。そこが御方さまの良いところです」
「殿方にとっての、都合の『良いところ』でしょう。御方さまはそれで良くとも、お側つきの私はそれで済ませるわけには参りませぬ。長田の殿さま、北の方さまから姫さまをお預かりした責任がございますもの」
槇野はしつこかった。
七平太は、はあっと溜息をついた。
「お勤めご苦労に存じます。だが、それならば他所を当たられるがいいでしょう。何と問いつめられても、たとえ火責め水責めにかけられても、知らぬものは知らぬ。知らぬことについてお答えすることは出来ないのですから」
「何が火責め水責めですか、人を野蛮人のように!」
「いてっ」
槇野が七平太の肩をいやというほど、どやしつけた。十分に野蛮ではないか。
「何もそなたが、一から十まですべてを知っておるだろうなどとは申しておりませぬ。ただ、殿のお側近くお仕えしているそなたのこと。おおかたの推量くらいはつくのではないかと申しておるのです」
「そう言われましてもねえ」
もう、ここはのらりくらりと適当に相づちを打って向こうの気が済むのを待つしかないかと思い、白湯の椀を引き寄せた七平太は、次の瞬間、口にふくんだ白湯を危うく噴出しそうになった。
「坊門だの六条だの。あとはそう。美濃のなんたら言う白拍子」
「な、な、な…っ」
七平太の動顛に構いもせず、槇野は淡々と続けた。
「七条にも先頃から御馴染みがいらっしゃるようですわね。まあ、姫さまのお年から考えてもその線はなさそうですけれど。側仕えのそなたなら、どこのお人も顔くらいは垣間見た折があるのでしょう。姫さまのお顔をみて、だいたいの察しくらいはつくのではありませんか?」
「……っ」
七平太は、慌てて椀に残った白湯を喉に流し込んだ。
危うく、
(なぜ、それをご存知なのですかっ!)
と聞き返すところであった。
たった今、槇野が涼しい顔をして並べてみせた名前は、どれも正清と「馴染み」のある女人ばかりであった。
けれど、自分も含めて数人程度しか知る者のいないような話を、何故、邸内からろくに出ることもないはずの槇野が知っているのか。
理由を尋ねるわけにもいかず、七平太は黙って目線をうろうろとさ迷わせた。
首の裏にじっとりと変な汗がにじんでくる。




