撫子(五)
「それで。結局どうなったのよ」
「どうなったって…ああなったわけだけれど」
楓が悠を連れていった方向を指差して悠と、千夏の目がたちまちつり上がった。
「ああなったわけだけど、じゃないでしょ!何なのよ、そのぼうっとした言い草は! 佳穂あんた本当にそれでいいのっ? ううん。それ以前にあの子はいったい、どこの誰の子なのよっ!!」
「さあ?」
「馬鹿っ!」
首をすくめると、途端に肩を嫌というほど張り飛ばされた。
「痛っ。ちょっとぶつことないでしょ」
「あんたがあんまりぼやぼやした事言うからよ!」
千夏は鼻息も荒く膝を進めた。
「今回ばかりはあの強烈な乳母どのの言うことが正しいわよ。ある日突然、子供を連れ帰ってきて何の説明もなしに面倒を見ろだなんて馬鹿にするにも程があるわ。それじゃ何? あんた、どこの女に生ませてきたとも知れない子を自分の子として、後生大事に育てるっていうわけ? あんたが源氏物語が好きなのは知ってるけどね。何も実生活で本当に紫の上の立場にならなくてもいいじゃないの。しかも、源氏の君はちゃんと、姫君のご生母が明石の上であられることをご説明なさったうえで姫をお引取りになられたんじゃないの。それがあんたのとこの旦那のやり口はなんなのよ。正室であるあんたをあまりにも蔑ろにしてるじゃないのっ!!」
「それなんだけど」
千夏も槇野に劣らず舌がよくまわる。私はようやく口を挟んだ。
「あのね、殿は悠はご自分の子ではないって仰ってるの。だからね、そういうお話じゃないのよ」
そうなのだ。
あの晩、槇野と明け方近くまでさんざん口論をして、結論の出ないその争いにぐったり疲れて寝所に引き上げて、
(なんで、私がこんなに躍起になってあの子を引き取ろうとしなくちゃいけないのかしら)
と思いながらそっと褥の端っこに身を横たえた時。
「佳穂」
「きゃっ」
名を呼ばれたかと思うと、ふいに体を引き寄せられて私は小さく悲鳴を上げた。
ぐっすりお休みになっておられるとばかり思っていた正清さまが、腕のなかに引き込むようにして抱きすくめられたのだ。
(え、起きていらしたの?)
だったら槇野との不毛な口論を止めて下さっても良かったんじゃないの、という不満の声はうなじを引き寄せるようにして強引に落ちてきた口づけに塞がれてしまった。
お手が小袖のあわせのあたりに触れる。
(ちょっと! いくらなんでも勝手が過ぎるじゃないの)
さすがに腹が立って胸元に手を突っ張って押し返そうとしたが、さらに深く重ねられる唇と、抱き寄せる腕の有無を言わせない力の強さに、私は小さく吐息をついて抵抗する手を緩めた。
こういう時はもう仰る通りに従ってしまった方が結局早い、ということを最近の私は学んでしまっていた。
半刻ほどののち。
胸元に預けた私の頭をあやすように撫でながら正清さまは仰った。
「面倒をかけてすまぬな」
「いえ」
寝物語にねだりごとをする傾国の美女の物語は昔ばなしにもよくあるけれど。
ちょっとややこしいことをお話したり、お願い事をしたりするのに、こうしてお褥をともにしたあとでくつろいでいらっしゃるところを狙うというのは確かに効果的なやり方だとは思う。
私は、正清さまの胸元に頬を寄せると、お腕のなかからそっとお顔を見上げた。
「お気になさらないで下さりませ。殿のお役にたてるのなら佳穂はそれがなにより嬉しゅうございます」
本題に入る前に、とりあえずご機嫌が麗しくなられるような言葉を並べ立てておく、というのも数年の結婚生活で私が学んだ知恵のひとつだった。
そうしておくと、その後のお話がすんなりと運ぶ。
「だって、殿は佳穂のたった一人の大切な、大切な背の君さまなのですもの」
「そうか」
果たして、正清さまは満足げにお目を細められ私の頬を撫でられた。
そのまま、もう一度引き寄せられそうになるのを慌てて押しとどめ、
「あの、殿?」
伸びてきたお手を両手のひらで包むようにしながら、じっとお顔を見上げる。
「何だ?」
「ひとつ、お伺いしたいのですけれど……」
「うん?」
「その、あの娘の……悠の母君とはどのような御方なのでございましょうか?」
髪をゆっくりと撫でてくださっていたお手がぴたりと止まる。
「いえ。槇野が申すように嫉妬心で申し上げているのではございません。あの、まったくそのような気持ちがないといったら嘘になりますけれど。でも、悠も今はともかく大きくなったあかつきには、生みの母君のことを知りたいと思う折もあるだろうかと思いまして……」
言いながら手のひらのなかの大きなお手をぎゅっと握る。
言ったことは半分は嘘で半分は本当だった。
この時点で、私はもう悠を手元に引き取るというこの急な申し出をお受けしようと決めていた。
正清さまだとて、他にあてがあるのなら我が家へ連れてくるはずがない。
他にどうしようもないから、そうされたのだ。
だったら、ごちゃごちゃとごねてみても仕方が無い。
そして、そうする以上、悠の母君がどこのどなたかなのか、などということはもう知っても知らなくても良いことで、むしろ、知らない方がいいままなのもしれないとすら思っていた。
(だって、もしあの紗枝どのが母親だ、なんて聞かされたらとても平静な気持ちで可愛がれないじゃないの)
ただ、事前にひと言の断りもなくいきなり当の娘を連れて来る、というなさりようには槇野の言う通り、少し腹がたっていた。
正室としての体面だとか誇りなんてものにこだわるつもりはないけれど、いくらなんだって順序というものがあるだろう。
夫婦としての仲がどうこうという以前に、人としての礼儀として、正清さまが私を妻として認めて下さっている証として、私はきちんと事の次第を説明して欲しかった。
「…佳穂」
私をみつめる正清さまのお目が躊躇うように揺れる。
(いったいなんだってそう言い渋られるのかしら。紗枝どのとの時は腹がたつくらいあっさりとお認めになられたのに)
もどかしく思いながら、私はじいっと正清さまのお目を見上げた。
(まさか本当に紗枝どののお子なんじゃないでしょうね)
嫌な予感に襲われながらも、ここまできたら聞くものは聞いておかなければ落ち着かないと思い、もう一押しと畳み掛ける。
「もちろん、お差支えなければで結構なのですけれど。このように何もお話いただけないままですと、殿に妻としてご信頼をいただいけていないような気がして。
佳穂はわが身が情けなくなって参ります」
袖で口元を押さえてそっと目を伏せる。
責められていると思わせてはいけない。
どちらにも五分五分の言い分があるような場合ならばともかく、今回みたいにどこからどう見ても正清さまのなさりように非がある、といった場合は逆に正面きって非難してはいけないのだ。
言い逃れようがない分、もう開き直って怒り出されるに決まっている。
あくまで「あなたが悪い」のではなく、「私は悲しゅうございます」というのを前面に出さなくては。
正清さまは無骨ではあるけれど、心根はお優しい方である。
それを聞くと、果たして
「そんなわけはない!」
驚いたように仰られた。
「そなたのことを信頼していないなど、そんなことがあろうはずがない。信頼しておらねば、そもそもあれを託そうなどと思わぬ」
「殿……」
「事前に何も言わずにあれを連れてきたのは悪かった。だが、本当に急な話で暇がなかったというか……ともかく、そなたを蔑ろに思ってのことではない!」
「はい」
「そなたのことは、正室として他の誰よりも信頼しておるし、大事に思うておるつもりだ」
「もったいのうございます」
殊勝げにうなずきながら、
(それはもう分かったから、早くお相手の名を仰って下さらないかしら?)
と内心、苛々していると。
「悠は俺の子ではない」
思いもかけないお言葉がかえってきた。
私は目を丸くした。
「え……?」
「あれの父親は俺ではない。俺に子が出来ぬのはそなたも知っての通りであろう」
それまでの躊躇いがちなご様子をかなぐり捨てたようにきっぱりといわれて、今度は私の方が戸惑う番だった。
「でも、それでは……」
「仔細があってのことなのだ」
「仔細?」
「詳しいことは今は言えぬ。だが、それはそなたのことを疎かに思うてのことではない。むしろ、そなたのことを思うてのことというか、そなたにいらぬ気苦労をかけたくないゆえと申すか…」
(他所の子をいきなり連れてきて引き取れと言っておいて、いらぬ気苦労をかけたくないも何もないと思うのだけれど…)
腑に落ちない思いで眉を寄せた私の表情を見て、なにをどう思われたのか。
「だが誓ってそなたを悲しませるようなことはしておらぬ。先だっての父の悪ふざけの折によう分かった。俺にはそなたがおらねば駄目だ。俺の妻は、この先何があろうとそなた一人で、正室がそなただということは揺るぎがない。それは約束する。……だからもう、そのような悲しげな顔をするな」
「殿……」
正清さまはぐっと私を抱き寄せて痛いくらいに抱きしめられた。
(もう夜が明けるのに…)
そう思いながら、私は小さく溜息をついて、その性急な流れに諦めたように身を預けた。
「……何それ。惚気!? そんなこと誰も聞いてないんですけどっ!!」
千夏が激昂してまた私の、今度は頭をぶった。
「痛っ!」
「それであんた、その場の勢いに流されて、そんなわけの分からない言い分に言いくるめられて引き下がったってわけ!? ほんと信じられないわっ!」
「ちょっと待って。落ち着いて」
私は、両肩をつかまれてぐらぐらと揺さぶられながら懸命に千夏を宥めにかかった。
「別に言いくるめられたわけじゃないんだけど、なんかお気の毒になってきちゃって」
「気の毒? 誰が!? 私からしたら、夫が愛人の子を連れて戻ってきて、それをいきなり押し付けられたのに昼行灯みたいにぼやぼやしてるあんたの頭の中身の方がよっぽどお気の毒だわよっ!!」
「だから落ち着いてったら」
千夏にそんな一部始終を話したのは何ものろけようと思ったわけではなくて。
「俺にはそなたがおらねば駄目だ」だとか「俺の妻はこの先何があろうとおまえ一人だ」だとか。
普段の正清さまなら、天地が引っ繰り返っても、雨が降っても槍が降っても仰らないようなお言葉を次々と仰られるのを聴いているうちに。
(何なのかしら、この必死さは……)
と、そうまでして誤魔化そうとしていらっしゃる事の答えを知ってしまうのがなんだかお可哀想になってきてしまったのだ。
「あんたって子は……」
千夏ががくりと肩を落とした。
「夫を気の毒がってる場合じゃないでしょう。そんな呑気なこと言ってると、男なんてつけあがって、これから先も浮気され放題の誤魔化され放題、子供押し付けられ放題になっちゃうわよっ! そうなってから後悔したって遅いんだからねっ!!」
「千夏ったら」
「だいたいねっ! 継子が可愛くて賢くてよく懐いてくれて、年を経るごとに美しく聡明に育ってくれて末は女御か中宮か、なんてあんなの作り物語のなかだけなんだからねっ! 現実は厳しいのよ!大抵の場合は、バカで不細工で可愛げのない子供にキリキリ舞いさせられて、ちょっと叱りでもしようものなら継母に苛められたと吹聴されて、やっとどうにか大きくなったと思ったら、後足で砂をかけるようにしてぷいっと出ていって、変な男に引っかかって不幸になった挙句に逆恨みされて家に火でも付けられるのが関の山なんだからっ!!」
「……よくもまあ、そう次々と最悪の状況が思いつくものだわね」
私は圧倒されながら、思わず笑い出していた。
「何がおかしいのよっ!」
「ううん…ありがとう。千夏」
何はともあれ、私のことを思ってこんなに怒ったり嘆いたりしてくれる友人がいるというのは幸せなことに違いない。
「まあ、そういうわけで、しばらくは坊門のお邸には伺えないと思うわ。悠は楓には懐いているけれど、長く私が側を離れると不安がって泣くんですもの。御方さまにも、どうぞよしなに伝えてちょうだいな」
千夏はぶつぶつ言いながらも、それでも、
「また、近いうちに小妙も連れてくるから。ひとりでごちゃごちゃ考え過ぎるんじゃないわよ。……ってあんたの場合、少しはものを考えなさいって言った方がいいのかしら」
と言ってくれて、帰っていった。




