撫子 (三)
「いったいどういう事なのよっ!」
あとを追ってきた楓が娘を連れて下がるが早いか、千夏が血相を変えて詰め寄ってきた。
「どういうことかって聞かれても、私もまだ何がなんだか分かっていないんだけれど」
何から説明していいものか迷いながら、私はとりあえず話し始めた。
あれは今から十日前のことだった。
数日ぶりにお帰りになられた正清さまのご様子が、どうもおかしかったのだ。
「おかえりなさいませ。お疲れさまにございました」
と、いつものようにお迎えに出た時も。
お召し替えのお手伝いをした時も、妙にそわそわと落ち着かないご様子で、
「留守中、なにか変りはなかったか」
と、三度も私にお尋ねになったかと思うと、
「勤めがあるとはいえ、いつも家のことはそなたに任せきりですまぬな。ありがたいと思うておる」
などと、とってつけたような労いの言葉を仰ったり。
夕餉の御膳を運んでくる間にも、簀子縁に出て、うろうろと前栽を眺めていらしたり。
これは何かあると嫌な予感を覚えていたら、案の定。
夕餉のあとでお出ししたお酒の杯を二、三杯一気にあおられたかと思うとふいに立っていかれ。
しばらくして戻って来られたときには、さきほどの女の子を腕に抱いていらした。
「仔細あって我が家で預ることになった。よろしく頼む」
驚くというよりも呆気にとられてぽかんとしている私の前で、その子を床に下ろされる。
「え…?」
「名は悠という。年は三つと半だそうだ」
(いえ、伺いたいのはそういうことではなくて……)
悠と呼ばれたその少女は不安げに顔を曇らせてこちらを見ている。
それはそうだろう。
まったく見も知らない邸にたった一人で連れてこられたのだ。
どんなにか心細いだろう。
事情は飲み込めないながらも、その様子が可哀想になって、私はとりあえずその娘に笑いかけた。
「こんにちは」
少女はびくっと身を縮めた。
私は構わず、膝をすすめて小さな手をとった。
「悠、とおっしゃるのね。やさしい、可愛らしいお名前ね」
言いながらそっと手を引いて抱き寄せると、はにかんだように俯いて、それでもおとなしく膝の上に腰を下ろした。
肩のあたりで切りそろえたさらさらの髪と、ふっくらとした頬がお人形のように愛らしい。
「可愛らしいお子ですね。どちらの御子でいらっしゃるのですか?」
てっきり、朋輩のどなたかのお名前でも出るのかと思ったら
「いや、まあ、ちょっとした知り合いの子というか……親戚筋のようなものというか」
はっきりしない事を仰る。
「まあ、そうですの」
腑に落ちないものを感じながら、私が呑気に頷きかけたその時。
「恐れながら」
突然、部屋の隅の几帳の後ろから槇野が姿を現した。
ふいをつかれて私は小さく悲鳴をあげた。膝の上の悠がぎゅっと私にしがみつく。
「ま、槇野、あなたまた、いつからそこにいたのっ!」
私の声に構わず、槇野はずいっと正清さまの方に膝をすすめた。
「身を弁えないことながら、ひとつ。殿にお伺いしたいことがございます。どこのどなたのお子かもはっきり仰れないその娘御を、御方さまに預かれとはいかなるわけにございましょうか? その娘御……いえ、その娘御の母なる女性とはいったい殿とどのような縁のある方なのでございます?」
恐れながらだの、身を弁えないことながらだの、言い方は遜っているものの槇野の口調はずいぶんと鋭かった。
私に子が出来ないこともあって、槇野がある意味、私以上に殿のご身辺の女性の影に神経を尖らせていることは知っていたけれど、それにしてもこの小さな女の子を見て、即座に他所でつくった子供の可能性を疑うその発想には呆れるのを通り越して感心しそうになる。
「いや、どのような縁も何も別に……」
正清さまが曖昧に口ごもられるのに、すかさず
「特に縁もなにもない方の御子を姫さまに預かれ、とそう仰るのですか? そんな馬鹿な話はございますまい。しかも、事前にひと言のお断りもなく、いきなり連れてきて預れとは、些か乱暴が過ぎませぬか?」
早口に畳み掛ける。
私は慌てて、二人の間に割って入った。
「控えなさい。槇野。殿に向かってなんです。その口の利きようは。失礼な」
「そうは申されましても姫さま」
「いいから控えなさい。殿のお話の途中ですよ」
私は正清さまに向き直った。
「失礼いたしました。殿。別にそのような筋のお話ではございませんわよね」
にっこりと笑いかけると、正清さまは虚をつかれたようなお顔をされ。
それから、慌しく頷かれた。
「む、無論だ。当り前だ。そんなわけがない」
必要以上の強い否定に内心の嫌な予感を強めながら、つとめて私は明るく言った。
「もちろん構いませんわ。こんなに可愛らしい女の子を預るくらい。むしろ、嬉しいくらい」
数日ことですものね、、と言いかけるより早く正清さまがほっとしたように口を開かれた。
「そなたならそう言うてくれると思うていた。先だっても言うておったであろう。女の子がひとりいると、邸内がぱっと花やかになると」
「ええ、そうですわね」
にこやかに相づちを打ちかけた私は、次の瞬間笑顔のままで固まった。
「幸い、その娘もそなたにもう懐いておるようだし。一応、都育ちではあるようだが、まだなんのわきまえもない年頃だ。俺は女の子のことなど何もわからぬし、そなたの良いように可愛がって、生い育ててやってくれ」
「……え?」
固まったまま、ちらりと目をやると、槇野が目を剥いたまま絶句している。
私はゆっくりと膝の上の娘に目をやった。
少女は何心もなく無邪気にこちらを見上げている。
正清さまに視線をうつした。
膝に娘を抱いた私の様子を、いかにも微笑ましいものを見るようなご様子で、安堵の表情を浮かべてご覧になっていらっしゃる。
私は恐る恐る口を開いた。
「え、ええっと、その、殿?」
「なんだ?」
「あの、この子をお預かりするって、その、ずっと、のことでございます、か?」
「ああ。俺の留守が続く折など良い慰みになろう」
その場に、時間が止まったかのような怖ろしいまでの静寂が落ちた。
しばらくしてその静けさを破ったのは、やはり。
「何を馬鹿なことを仰っていらっしゃるのですかっ!?」
天井を吹き飛ばすような勢いの槇野の叫び声だった。
 




