59.涙
振り向いた顔を見て、頼賢は目を瞠った。
佳穂の黒目がちの瞳には、涙がいっぱいたまっていた。
「頼賢さま」
驚いたようにぱちぱちと瞬きをして。
慌てて居住まいを正し、床に手をついて頭を下げる。
頭を下げた拍子にこっそりと袖で目元を抑えていたが、顔をあげると頬には涙のあとが残り、目が赤かった。
一瞬、ぎゅっと胸をしめつけられるような思いに襲われて、頼賢は我ながら驚いた。
宴席で、佳穂が空いた御膳をいくつも重ねて部屋を出てゆくところをふと見かけて。
気がついたら膝にしなだれかかるようにして酌をしている女房を押しのけるようにして立ち上がっていた。
「酔いがまわったのでひとりで少し風にあたりたい」
などと適当な言い訳を口にして。
何故、そんなことをしたのか分からない。
あとを追って、どうしようというのだと問われれば自分でもうまく答えが見つけられないのだが
ただ、もう一度だけ、話をしてみたかった。
今日の宴のことなどをとっかかりに、他愛のない世間話でも出来れば良いと思っただけだった。
宴が終れば、もうそう遠くないうちに佳穂は自分の邸へと帰ってしまうのであろう。
そうなればもう会う手立ても口実もない。
所詮は他人の妻である。
しかも、夫はこちらの兄弟とは折り合いの悪い長兄の義朝の一の郎党だ。
何かの折に、偶然、顔を合わせるということも、もうない。
そうなる前にもう一度、声をかけるといつもはにかんだように小首を傾げて微笑む顔が見たかった。
ただ、それだけだ。
そう思っていたのに。
振り向いた佳穂の、涙をためた瞳を見た瞬間、頼賢は自分がなんと言って声をかけようとしていたのかをさっぱりと忘れてしまった。
「……泣いておったのか?」
訊ねると、佳穂は困ったような顔をして首を横に振った。
「いえ、ちょっと目に、ゴミが入ってしまって」
俯きがちになったその顔を見ているうちに、先日、耳に挟んだ女房たちの噂話が甦ってきた。
(お子もいらっしゃないお飾りのご正室だそうよ)
(まあ、要はご実家の財力をあてにしてのご縁談だったのでしょう?)
その時は、いかにも邸勤めの女房らが好みそうな無責任な噂に過ぎないと思っていた。
正清はそのあるじの義朝と違って、朴念仁といっていいほど物堅く、浮いた噂もあまり聞かない。
女漁りをする暇などあったら、あるじの役に立つべく、弓や刀の鍛錬に精を出すような男だ。
そんな正清の妻として、控えめで慎ましやかな佳穂は年齢こそ少し離れているもののしっくりとおさまる印象で。
悔しいが似合いの夫婦だと思っていた。
無骨で面白味はないであろうが、実直で真面目な夫に愛されて、佳穂は幸せなのであろうと。
そう思っていた。
けれど、そうでないのなら。
女房たちの噂話が本当ならば……。
「頼賢さま?」
訝しげにこちらを見上げる佳穂の瞳が存外に近いところにあることに気がついて、頼賢は慌てて身を引いた。
いつの間にか、跪いている佳穂の前に膝をつき、恐縮して少し下がって控えようとした彼女の手を、無意識のうちにとっていたのだ。
佳穂の瞳が驚いたように丸くなる。
しかし、頼賢の側も十分、驚いていた。
(なんだ、この手は……)
(俺は何をしようというのだ…)
戸惑いながら。
「……少し酒を過ごしたようだ」
自分がそう言う声を頼賢は他人のもののように聞いた。
「まあ」
佳穂が気遣わしげに顔を曇らせる。
「冷たいお水でもいただいて参りましょうか。」
「いや。少し外の風にあたってくればすぐに治まるだろう。 庭の方を散歩したらすぐに戻ってくる」
言いながら膝を起して立ち上がりざま。
わざと均衡を崩したように足元をふらつかせる。
「危のうございます」
佳穂が慌てたように飛びついてきて肩を支えてくれる。
「少しお静かにお休みになられた方が」
予期した通りにそう言われて、後ろめたい思いが胸をよぎる。
しかし、その思いも、至近距離でこちらを見上げてくる、潤んだような黒目がちの瞳を見て。
髪から香るほのかな香りを嗅いだ途端どこかに飛んでいった。
自分はこの女を気に入っている。
好いていると言っても良い。
佳穂の方だとて、先日あのようなことがあったのに自分の顔を見るなり逃げ出さないところを見ると、満更嫌い抜いているというわけでもないのであろう
だったら。
夫に愛されること少ない可哀想な身の上の彼女を、自分が慰めてやったとて、何の悪いことがあろう。
佳穂の父親の長田忠致とて、娘が義朝の郎党ののお飾り妻として捨ておかれるよりも、主家の御曹司である自分の愛妾として迎えられた方が喜ぶに決まっている。
そうだ。
これは人妻相手の好き心などというものではない。
むしろ人助けのようなものなのだ。
そう思い決めると、頼賢は寄り添ってきている佳穂の肩をぐっと引き寄せた。
「頼賢さま?」
「……部屋で少し休むとしよう。すぐそこになるのだが、済まぬが少し手を貸して貰えるか」
「はい」
佳穂は素直に頷いた。
このあたりの無防備さは、むしろ若くして人の妻となっているゆえであろう。
邸勤めの女房たちのように男の好色な目に晒された経験がないのだ。
すでに夫のある身の自分に、他の男が好き心など抱くはずがないと信じているのだ。
その時。
佳穂がふいに振り向いた。
訝しげに小首を傾げる。
「いかがした?」
そう尋ねながら。
頼賢は、佳穂の髪にそっと手を伸ばした。
 




