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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第三章 確執
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子のない正室 (二)

もともと口数の多い方でも、弁舌のたつ方でもない。

反論したい気持ちはあるが、うまく言葉になっては出て来ない。

下手に口を開けば、父に対して声を荒げてしまいそうで。


正清は自分のなかを感情を抑えながら、懸命に考えをめぐらせ、言葉を選びながら言った。


「仮にあれが石女だったとして…それを理由に離縁というわけにもゆきますまい。長田の家にはどう申し開きをなされるおつもりです」


もともと佳穂との縁談を決めてきたのは父である。

それも、伊勢の海の海上交易権をもち、広大な荘園の庄司として豊かな富みを築いている長田家の財力を後見にと当てにしてのことで。


正清自身はそれを目当てに佳穂を娶ったなどと意識したことはないが、それにしても二人の婚姻が両家を結びつける役割を果たしていることは確かで。


いくら長田家が、主家の中枢部に近いところに勢力をもっている鎌田の家との結びつきを重視しているとはいえ、溺愛していた末娘を一方的に離縁されるような仕打ちをうけてまで、それまでの付き合いを続けてくれるとは到底思えなかった。


それが分からぬ父ではあるまい。

子が出来ぬから離縁するなど…。

道義的なことは別として、現実的に考えても平素の父の考えとも思われなかった。

 

しかし、通清は動じた風もなく鷹揚に首を振った。

「ああ。それに関しては問題ない」

「問題ない…?」


「我が鎌田の家のみならず長田殿にとってもこれは悪からぬ話なのだ。案ずることはない」

「娘を離縁されるのが悪からぬ話のはずはありますまい」

話の流れが読めず、次第に苛立ちを隠しきれなりながら正清は言った。


「離縁したのちの片付き先に、当家よりもずっと条件の良い相手を世話してやると聞けば、あの利に聡い男のことだ。大喜びで承知するわ」


「当家よりも……」

 

頼賢(よりかた)御曹司があれを随分とお気に入られておる。あちらの北の方さまのもとへ出入りしておったのを見初められたらしい。おまえの妻だと知りながら、大層なご執心で。譲ってもらえるのなら、他になんでもくれてやると申されるのだ」


「な……っ」

絶句する息子に構わず、通清は悠然と続けた。


「もしそれが叶えば、あれは源家の御曹司のご妻女だ。正室とまではゆかぬまでも、ほれ。義朝さまのところの常盤さまの例もある。下手をしたら、ご正室を凌ぐご寵愛を得られるやもしれぬ。おまえのところで、子のない正室として燻っておるよりは余程女子としては幸せだとは思わぬか」


正清は膝の上で握った拳に力を込めた。


荒い呼吸を数度くり返し、落ち着くのを待ってから口から出た声は我ながら驚くほどに低くて、平坦なものだった。

「……それで、父上は御曹司になんとお答えしたのですか」

「なんとも何も。こんな喜ばしい話はないではないか。二つ返事でお答えしたわ。なんでもくれてやるなどとんでもない。 あんなもので良ければいつでもお持ち下さいと。そのかわり……」


そこで言葉を切って、通清はにやりと笑った。


「もしもこの先。大殿が義朝さまではなく義賢さまに跡目を譲られ、棟梁の座につかれたとしても。我が子正清と鎌田の家のことをどうぞ、よしなにお願い致しまする、とそう申し上げたのだ。案ずるな。この先、お家の主流の座がどちらへ転ぼうとも、そなたも我が家もこれで安泰ということだ。長田の庄司とてもともと、主家への手がかりをもとめての縁談だったのだ。娘が、傍流となることがほぼ決まっている義朝さまの一の郎党の正室ではなく、次代の棟梁となられる義賢さまとも近しいご兄弟の頼賢さまの愛妾ともなれば、怒るどころか諸手をあげて喜ぶであろうさ。それを思えば、子など出来ずとも、まあそれなりに役に立ってくれた嫁であったではないか」


正清はもう一度、大きく呼吸を繰り返した。


生まれてから今日まで、父に対して一度も感じたことのない感情が腹の底から沸きあがってくる。

が、幼い頃から叩き込まれた武士としての礼節や節義が、こんなときでも感情的に振る舞うことをよしとしなかった。

こみ上げてくる感情をこらえて正清は口を開いた。


「それで……佳穂は今、どこにいるのです」

「堀河のお邸だ」

通清はこともなげに云った。


「歌会の手伝いということで北の方さまのもとへ伺わせておるが。今日は、御曹司がたも軒並み集まられる。ちょうどいい折ゆえ、頼賢さまにお引き合わせしようと思うてな。それにはなまじわしなどが側に舅面して控えておらぬ方がよいであろうと思うて、こうして昼寝を決め込んでおったわけなのだが……」


「……佳穂はそれを知っておるのですか」

通清は首を竦めた。


「知るわけがあるまい。 そなたも知っての通り、あれは十七にもなって、てんで子供のような女子だ。いくら理をわけて話してやっても承知するとは思われぬ。なに、心配せずとも頼賢さまはお若いとはいえ、なかなかにそちらの方面には秀でた御方だ。うまいこと事を運んで下さるだろう」


正清は立ち上がった。


「どこへ行く」

それには応えずに(きびす)を返す。

部屋を出たところで通清の声が追ってきた。


「六条へ行く気か? 招待されておるわけでもないのに。かような場所に義朝さまの側近のそなたがいきなり顔を出せば面倒な騒ぎになるぞ」

それにも応えずに歩を進めようとすると、通清が簀子(すのこ)へと出てきた。


「悪い話ではないではないか。女はあれ一人ではない。そなたになら、他にいくらでももっと条件もよく見目も気立ても申し分のない妻の一人や二人すぐに見つかるわ。それよりも、そなたもそろそろ、義朝さまがもしご嫡男の座から外された場合のことを考えて……」


足を止める。

振り返って、通清の顔をじっと正面から見返しながら。

正清は生まれて初めて、父のことを憐れむような感情を抱いた。


「我が殿は……東国にもその名を轟かせた、優れた武勇と気高いお志を備えられた源氏随一の武者にあらせられます。それは……御家の跡継になられるか否かに関わらず、揺るぎなき事実にございます」


「……」


「正清はそんな殿を心よりお敬い申し上げ、この身のすべてを賭して生涯お仕えさせていただく所存にございます。父上にご心配いただくには及びません」

 

通清はわずかに口元を歪めた。

「云いたくはないが……大殿が義朝さまをお跡継ぎにとご指名されることは、万に一つの望みもないぞ。義朝さまが、今のまま、ご自身の道を進まれるのならの話だが……」


正清は笑った。


「父上は、大殿が……為義さまが源氏の棟梁であらせられるから今日までつき従ってこられたのですか」

「何?」


「もしも大殿が、ご兄弟との間の競争に敗れ、部屋住みの御曹司の一人として不遇をかこつようなお暮らしをなさっておられたのなら、父上は今、あの方のお側にはおられなかったのですか、と伺っておるのです」

「……それは」


通清は言葉につまった。

正清は静かに続けた。


「そうではありますまい。たとえ、ご一族のなかで傍流へと追いやられ、官位も得られず、都では身をたてる術もなく、むなしく東国をさすらっておられたとしても、父上はそのお側に離れずにおられたはずだ。

何かの見返りを求めて、今日までお仕えして参られたのではないはずです」


「無論そうだ。だが……」


「それがしも同じにございます。我が殿が、大殿のご意向に背かれ、一族から追われるようなことがもしあろうとも。それがしは最後のひとりになっても殿のお側におります。他の方に仕え、多少の良い衣や館に恵まれて暮らすよりも。それがしにとっては、殿の側でともに泥にまみれ、地を這って生きる方がよほど幸せなのです。それがしが…あの方の側を離れるときはこの命が尽きるとき。それ以外にありませぬ」

「正清……」


言葉を失って立ち尽くす父に向かって一礼すると、正清はまたくるりと踵を返した。

そのまま、足早に渡殿を去って行く。


その背中を見送りながら、通清は小さく溜息をついた。


「随分と意地悪をなさいますのね」

いつのまにか、やってきていた菊里が言った。


「若君のご気質をよくご存じでいらっしゃりながらお人の悪い。ご夫婦の仲立ちをなさるのなら、もっと他になさりようがございましょうに」


呆れたように云いかけるその肩を、通清は軽く叩いた。


「あれは滅多なことで自分の気持ちを言わぬ男だ。わしと亡き妻があれに童の頃より我慢することばかりを覚えさせ過ぎた」


「確かに、若君はご幼少の頃より辛抱強い、聞き分けの良いお子様でいらっしゃいましたわね」

菊里が微笑んだ。


「若君に本当のお気持ちを言わせるためにあのような事を?」

通清は、それには応えず、にっと笑った。


「若造が一丁前に生意気なことを申しておったわ。相変わらず若殿のことになると、いちいち、むきになりおる。 あの半分でも、そのまた半分でも良いから、妻にも言葉をかけてやれば、ややこしいことにならずに済むものを。不器用というか、面倒くさい男じゃのう」


菊里は黙ってそれを聞いていたが、やがてふふっと笑った。


「……私も、そのような殿御をお一人だけ知っておりますけれど。若君はどなたに似られたのでございましょうかね」


通清が眉をあげてそちらを見ると、菊里は首をすくめて微笑んだ。


「それにしても……若君がむきになられたのは義朝さまのことだけが理由ではございませんでしょう。先ほどの殿のあの仰りよう。傍で聞いていた私でも腹が立ったほどですもの。若君は十分、佳穂さまを大切に想っていらっしゃいますよ。あんな意地悪を仰って……。堀河のお邸で何か大変なことにならなければよろしいのですけれど……」


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