55.黄昏(二)
通清は愕然とした。
黄昏時である。
六条堀河の館へ行っている佳穂の帰りが遅いので、そこまで迎えに出てやろうかと門のところまできた時。
その光景が目に入った。
門扉を入ってすぐのところで一組の男女が立っていた。
いや、立っているだけでない。
二人は抱き合っているようであった。
(なんだ、こんなところではしたない。どこの若い者だ……)
苦々しく思いかけて通清は息を呑んだ。
女の方は、まさしく今、自分が迎えに出ようとしていたところの、嫁の佳穂で。。
男の方は、夕暮れ時の薄暗さのなかでも、主家の御曹司の一人である四郎頼賢であることが分かった。
(な……な……っ!!)
絶句して立ち尽くす通清の視線の先で。
頼賢が何やら言いかけて、腕のなかの佳穂の頭を引き寄せた。
佳穂はといえば、こちらに背を向けているので表情までは見えないものの、とりたてて嫌がって、抗っているようにも見えない。
やがて、頼賢が腕をほどいて二人の体が離れた。
頼賢が、腕に下げていた布の包みを佳穂に渡し、そのついでのように見せながら手を握った。
佳穂がはにかんだように俯く。
それを見て微笑むと、頼賢はそっと顔を寄せて何やら囁きかけると、そのままくるりと踵を返して門の外へと去っていった。
あとには布包みを抱えた佳穂だけが残された
去りゆく頼賢の姿を見送って立ち尽くしているその姿は、恋しい相手との別れ際の切なさに浸っているようにも見える。
(まさか…まさか、な。いや、しかし、今のは……)
混乱しながらも、通清は意を決して足を踏み出した。
「か、佳穂」
我知らず声が上擦る。
しかし。
「まあ、義父上」
こちらの姿をみとめ
「ただいま戻りました。遅くなりまして申し訳ございません」
ぺこりと頭を下げる佳穂の様子は、特に慌てた風もなく、いつも通りであった。
密か事の現場を舅に見咎められたというような後ろめたそうな気配は微塵もない。
「今日は姫さまがたのところの女房衆も北の対にいらしていて、御前が随分と賑やかで。お喋りにお付き合いしているうちに遅くなってしまいました」
「そ、そうか」
「菊里さんは水屋の方にいらっしゃるのかしら? この荷を部屋に置いて、お手伝いして参りますわね」
にこやかに言って歩き去ろうとする佳穂の背中に、通清はやっとのことで絞り出した声をかけた。
「ま、待て。佳穂」
「はい?」
振り向いて小首を傾げる。
「今の、は……」
「はい」
「今、そちらでそなたと一緒におられたのは、わしの見間違いでなければ頼賢さまではなかったか?」
「まあ」
佳穂は軽く目を瞠った。
「ご覧になっておられましたの?」
通清は大きく一つ息をつくと、一気に言った。
「ああ。見ておった。その……今のはいったい、どういうわけだ。なにゆえ、頼賢さまがわざわざそなたをここまで送ってきて下さる? ましてや、別れ際にあのようにだ、抱き、抱き合ったりなど……」
冷静に、年長者らしい落ち着きをもって事実を糾そうとするのだが、どうにも歯切れが悪くなってしまうのは、それだけ狼狽が大きかった証であった。
だが、佳穂は悪びれた風もなく
「いえ。わざわざ私を送ってきて下さったわけではなくて、義父上に御用があられたようです。けれど、門のところまでいらしたら『やはり今日はいい』と仰せになられて。先日の件で義父上に謝りたく思し召されていらしたようなのですけれど、いざとなったら気恥ずかしくなってしまわれたのでしょうか」
年若い嫁の顔を、通清は初めて見るような思いで見つめなおした。
(佳穂はこんな風にすらすらと嘘をつける娘ではない……と思うが、しかし、わざわざわしに会いにいらしたと言いながら門すらくぐらずにお帰りになられるなどということがあるであろうか…。
いや、そもそも…)
通清は、きっと表情を改めて口を開いた。
「送っていただいたのはそれで良いとして、あ、あれはなんだったのだ。別れ際に、こう抱き合って……」
言いながら変な汗が滲んでくる。
何故に自分がこんなにも焦っているのか分からないが、夫以外の男との『逢引』としか思えない場面を舅に見られて、けろりとしている佳穂の思惑がまるで分からず、落ち着かない心持にさせられてしまう。
「ああ」
佳穂はさすがにちょっと赤くなって頬をおさえた。
「私も驚いたのですけれど……。どうやらあれは都では社交辞令というか、挨拶のようなものなのだそうでございます」
「挨拶!?」
通清の声が引っくり返った。
「そんな馬鹿な話があるか!挨拶のたび男女が抱き合ったりなどという話は聞いたことがないわ!」
「で、ございましょう?」
佳穂は真面目な顔で頷いた。
「私の育った野間の里にもそのような風習はございません。どうやら都の若い男女の仲では、最近はそのようなことになっているようなのでございます」
「誰から聞いたのだ、そんなことを」
「今日お会いした姫さま付きの女房どのがたからでございます」
もっともらしく言う佳穂の言葉を聞きながら、通清は眩暈がしてきた。
以前、正清が佳穂のことを称して
(素直といえば聞こえはいいのですが、箱入りというか、世間知らずが過ぎるところがあって困ります)
と言っていたことを思い出す。
その時は、なんだかんだといってそこが可愛いという惚気であろうと思って聞き流していたのだが……。
確かにこれでは、正清が邸勤めになど出したがらぬのも分かる。
こんなのを、世慣れした耳年増揃いのお邸女房などの間に交わらせておいたら、なにをどう影響されて帰って来るか知れたものではない。
「佳穂。その挨拶云々というのは頼賢さまもそう仰せられたのか? 先ほどのもほんの挨拶替りだと……」
「いいえ」
佳穂は首を振った。
「けれど、先日のこともほんのお礼のつもりだったと仰せになっておられましたし。そういうことなのだろうと思います。田舎育ちの私などは驚かされましたけれども」
「いや……わしも驚いた」
言いながら通清はふと気になって訊ねた。
「先日のことというのは何のことだ?」
「はい。先日、お怪我の手当をして差し上げたときちょっと……」
なんでもないような顔で佳穂が語ってのけた内容を聞きながら、通清はまた軽い眩暈を感じた。
「抱き、抱きしめられたと申すか。その時も」
「はい」
佳穂は困ったように首を傾げた。
「抱きしめられたと申しますか、抱きつかれたと申しますか……」
「どちらでもよい。ともかく頼賢さまの方から先ほどのように身を寄せてこられたわけだな」
「はい」
頷く佳穂は相変わらず屈託もない様子である。
話が話なので、多少、気恥ずかしそうにはしているが、後ろめたいような様子は微塵もない。
どうやら、最初に二人を見かけたときに一瞬、危惧したような「不貞」だとか「密か事」とは縁のない話のようで。
通清はそれだけでも、ほっと胸を撫で下ろした。
(しかし……)
通清は、ちらりと佳穂をみやった。
(それは佳穂の側の話で、御曹司の方ではどうなのであろう……)
はじめは、よくある話で頼賢が同じ年頃の佳穂にちょっとした好き心を抱いたというだけの話なのだと思っていた。
佳穂が正清の正室だといって紹介してある以上、それも酷い話なのだが、あるじの一族の男子たちの、時折、常軌を逸しているといってもいいほどの好色ぶりは通清も嫌というほど承知している。
また、佳穂くらいの年頃の女子が、人妻として慎ましやかに暮らしているさまにこそ、男慣れした女房たちにはない色香を感じて惹きつけられるという心理も同性として理解は出来るつもりだ。
しかし、それならば一過性の麻疹のようなもので。
佳穂を四条の正清のもとへ返してしまえば、それで済む話だと思っていた。
……が。
先ほどの佳穂との会話を反芻してみる。
「ええっと……ご自分は大殿さまには要らぬ御子なのだ、みたいなことを仰られていたので『そんなことはありませんよ』といった意味のことを申し上げた気が……」
「それで抱きすくめられるほど感謝をされたのか?」
「いえ…ええっと、あまりはっきりとは覚えていないのですけれど…。ああ。そうだわ。確か。頼賢さまの、父君想いのお優しいお心がきっと大殿やご一門のお力になる時が参ります』というようなことを…」
「………」
「そうそう。『そんな頼賢さまを影ながら見て、慕わしく頼もしい御方だと思っている人がきっといます』と。『他の人が何を申されても、それでご自分のことを貶めたりなさらないで下さいませ』とそう申し上げたのです」
曖昧な記憶を辿るようにして佳穂はそう言った。
通清が驚いたような顔をして見ているのに気がつくと、
「なんて、ほとんどが実家の母の受け売りなのですけれど」
と、ぴょこんと肩を竦めた。
通清は溜息をついた。
「……なるほど。よう分かった。しかし、お優しい心もなにも、そなた頼賢さまとはそうお親しくもないではないか。そもそも、そんな頼賢さまを影ながら見て慕わしく頼もしく想っておる人というのは誰なのだ?そんな知り合いがそなたにおるのか?」
「まあ、いいえ」
佳穂はびっくりしたように首を振った。
「別段、深い意味があって申し上げたわけではなくて。ただ、頼賢さまがひどく落ち込んで傷ついていらしたようでしたので、なんとかお心を安らげる術はないものかと思いまして……」
「口から出まかせを申したと申すか」
「まあ。人聞きが悪い」
佳穂はちょっと嫌な顔をした。
「確かにその時は、根拠があって致したお話ではございませんけれど。まったくの嘘というわけでもございませんのよ。今日、お会いした女房どのたちに伺ったら、頼賢さまはお邸の女房がたの間で結構人気がおありになるそうなのですもの。次兄の義賢さまには及ばないそうですけれど」
通清はまた溜息をついた。
先ほどよりも深い溜息だった。
「……女子というのは、恐ろしいのう」
「はい?」
小首を傾げて訊ねる佳穂に通清は片手を振ってみせた。
「よい。なんでもない。……要するに、だ。そなた自身が頼賢さまを慕わしく想っているとか、恋しく想うておるとか、そういうわけでないのだな」
「当り前です。私には正清さまというれっきとした背の君さまがいらっしゃいますもの」
胸を張って言う佳穂を見て、通清は弱々しく頷いた。
「ならば良い。息子は幸せものだ」
言いながら内心、通清は厄介事が巻き起こりそうな予感に頭を痛めた。




