戸惑い(一)
(あれは……なんだったのかしら…?)
数日後。
私はやはり六条堀河のお邸の、北の対にいた。
2日後に、北の方さまご主催の歌会が開かれるということで、そのお手伝いに参上したのだ。
ご当家の競争相手である平氏一門の棟梁は、武芸だけでなく詩歌や管弦、舞などにも通じた風流人でもあられるそうで。
すでに殿上への昇殿を許されているそちらへの対抗心からか、大殿の為義さまはこのところ、盛んにそのような雅びた催し事を奨励なさっておられるらしい。
とはいえ、武勇が本分の御家でいらっしゃるので歌会のあとには南の馬場で騎射の催しも行われるという、よくいえば趣向にとんだ…逆にいうと、どこかちぐはぐな会であられるようなのだけれど。
私は北の方さまに頼まれて、当日の優秀者へ授けられる予定の衣装の仕立てなどをお手伝いしていた。
縫い物は好きだし、得手でもあるのでそれに関しては特に問題はなかったのだけれど。
北の方さま付きの女房どのたちと一緒に集まって、黙々と針を動かしていると、どうしても先日の出来事に思いがたどり着いてしまう。
夕暮れ時。
井戸のほとりで、頼賢さまとお話をしていたときに。
出し抜けに引き寄せられ。
腕のなかに強く抱きしめられた時のことを。
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「よ、頼賢さま……?」
驚いて身じろぎしようとしたものの、背中にまわされたお腕の力は存外に強く。
私は為すすべもなく強く押し付けられるままに、頼賢さまのお胸に頬を寄せていた。
頼賢さまは、そのまましばらく、じっと黙ったまま私を抱きしめていたけれど。
やがてお顔をあげると、兄君の義朝さまの面差しを僅かに宿した大きな瞳で、まっすぐにこちらをご覧になり。
「そなたは…やはり優しい女子だな……」
囁くような低い声音で言われると、まるで頬ずりをするようにして私の耳元の髪にお顔を埋められた。
(え……え…?)
戸惑ううちに、片方のお手が私の頬に添えられ。
柔らかな力でそっと顔が仰向けられる。
ゆっくりと閉じられた瞳。
傾けられた頬の角度。
(これは……ちょっと……不味いんじゃないの……?)
遅まきながら身の危険を感じて私は頼賢さまの腕から逃れようとした。
が、正清さまなどと比べたら随分と細身で頼りなげに見えるのに、殿方の力はさすがにお強くて。
どんなに押しのけようとしてもびくともしない。
(しまった……義朝さまのご一族が女と見れば手当たり次第で見境もなくお手が早いというのを忘れてた…)
それにしても、私が独り身ならともかく、正清さまというれっきとした夫がいると知りながらこんな真似をなさるとはいったい、どういうおつもりだろう。
いくら、それがこちらのご一門の流儀だといってもあんまりひど過ぎる。
そうして、じたばたとしている間にも頼賢さまのお顔は近づいてくる。
力では叶わない。
だとしたら、力以外のものでどうにか思いとどまっていただく他はない。
私は必死で頭をめぐらした。
噛み付くか引っ掻くかすれば、一瞬は時が稼げるかもしれないけれど。
最悪の場合、それでかっとなさった頼賢さまにこの場で引き倒されて、一気に行き着くところまでいかれてしまう恐れがある。
いつかの正清さまのお言葉が頭を過ぎる。
(拒めば拒むほどもっとこうしてやりたくなる。嫌だと恥ずかしがって嫌がる顔が見たくなる)
(男を止めたいのなら、そんな顔で見ないことだ)
その時は
(嫌がる顔を見てよけいにその気になるなんて、それはただの変態じゃないの)
としか思わなかったけれど。
今となってみると、それにも一理あるような気もする。
要するにこういう時に、真っ向から抵抗するのは逆効果だということ…よね?
だったら……。
「あ、あのっ……!」
近づいてくるお顔から、出来るだけ自分の顔を反らして遠ざけながら私は懸命に言った。
「…なんだ?」
「その、頼賢さまには嫌いなものなどございますかっ?」
「は?」
虚をつかれたように頼賢さまの動きが止まられた。
「嫌いなもの?」
「は、はい。野菜でも果物でも。これだけはどうしても食べられない、という苦手なものなどおありになるのでしょうか、と思いまして……」
「なぜ今、そのようなことを聞く?」
言いながらも、頼賢さまのお手は私の首の後ろにまわって、そのまま顔を引き寄せようとなさる。
「あのっ、我が殿はちなみに茄子が苦手でいらっしゃるのです」
「茄子…?」
頼賢さまが眉をしかめられる。
その隙を逃さずに私は立て続けに言った。
「その、正清さまは基本的に家で出した御膳にあれこれ文句をおつけになられるような方ではないのですけれど…っ。ですから私も、京にあがるまでは気がつかなかったのですけれど…っ。ある時、召し上がられた御膳の隅っこにいつも、綺麗に茄子だけ避けられていることに気がつきまして。ああ、お嫌いでいらっしゃるのだな、と。だったら仰ってくださればいいのに、黙って残しておかれるのが正清さまらしくていらっしゃるなー、と。あんなにお強くて逞しくて頼もしい殿方でいらっしゃるのに、どうしても食べられないものがおありになるというのが、なんとなく可笑しくて、でも、そこがちょっとお可愛いらしいなー、なんて思ったりなどしたものですから………っ!!」
あちらに口を挟まれる隙を与えない勢いで、立て板に水というか滝というか。
とにかく、早口に喋りまくった。
「可愛いらしい……ね」
何度も夫の名を口に出されて、さすがに興を削がれたのか、頼賢さまのお手が緩む。
その隙に私は急いでお腕のなかから抜け出した。
頼賢さまは、呆気にとられたような。
それでいてばつの悪そうなお顔をなさっておられる。
そのお顔をみると、何となくお気の毒なような気持ちになって。
私は首をすくめて、ちょこんと頭を下げた。
それを見て、頼賢さまはぷっと吹き出された。
「そなたは案外と賢いな」
「いいえ。我が殿などは顔さえ見れば、私のことを『馬鹿だ、馬鹿だ』と申されます」
「いや。なかなかの策士だ。あそこまで間合いを詰めながら取り逃がしたことなど今までにないのだがな。してやられた」
「まあ、お戯れを」
私はにこにこして言った。
(なにが『してやられた』ですか。人の妻だと知りながらふざけかかっておいて…!)
腹はたったけれど、この場合下手に怒っているところを見せたら、こちらが多少なりとも動揺したことを認めることになってしまう。
この場は、さらりと何も感じていないようなふりをして、受け流してしまうに限る。
だから、頼賢さまが
「佳穂は存外に情が強いな。そんなに正清に惚れておるのか?」
と、さらに戯れかかってこられたときも。
「ええ。それはもう」
間髪をいれずに笑顔で応えた。
「我が君ほど、お強くて、頼もしくて凛々しい殿方は他に存じませんもの。佳穂は三国一の果報者にございます」
あっけらかんとした、陰のない口調でそういうと。
「あ。どなたかが呼んでいるようでございます。そう言えば、北の方さまに御用を言い付かっていたのでした。では、これにて御前失礼致します」
呆気にとられたようにご覧になっている頼賢さまが何か仰られるよりも早く、すっと踵を返して退散してきてしまった、というわけなのだった。
もちろん、誰かに呼ばれたなどというのは嘘で。
槇野に小言を言われているときなどにも、よく使う手だったのだけど。
足早にその場を去る間も、いつ後ろから頼賢さまが追いかけてきて、肩をつかまれるのではないかとひやひやした。
建物の角を曲がってお姿が見えない場所にはいってからは、裾が乱れるのも構わずに駆けに駆けて、一目散に、人のいる北の対の方まで走っていった。
北の対の女房どのが、それを見て
「佳穂どのはお若くていらっしゃるだけあってお元気でいらっしゃること」
と、呆れたように言われたけれど、息が切れて、すぐにはお返事も出来ないありさまだった。
それくらい、あの場では平静を装っていたけれど、内心では夫でもない殿方にいきなり抱きすくめられて、顔を寄せられたことが怖ろしかったのだ。
もちろん誰にもそんなことは言えず、
「え、ええ。ちょっと体がなまってきたものですから運動を……」
などと言って誤魔化したのだったけど…。
(はあ……それにしても、あの時は殿に教えていただいた、殿方のお心に関する暮らしの知恵のおかげで助かったわ。身は離れ離れに暮らしていても、殿はいつも私を守ってくださるのね……)
そんなことを思いながら、針に糸を通そうとしていると。
「だから、それは貴女の自意識過剰じゃなくて?と私は言ってやったのよ」
ふいにそんな声が耳に入ってきた。
「ええ、本人に?」
「そうよ。はっきり言ってやらなくちゃ分からないのだもの」
「まあね。あの人はいつもそうだものね」
「世の中の殿方は皆、自分に惚れて当り前だと思っているのよ。図々しいったら」
顔をあげてみると、少し離れた場所で数人の女房たちが縫い物をしながら、忙しくお喋りをかわしている。
こちらのお邸には為義さまのご子息であられる御曹司方も数多くお住まいになっていられるのだけれど。
なかには数人姫君もいらっしゃる。
その女房たちは、こちらの北の対付きではなく、日頃は姫君がたの方にお仕えしている人々のようだった。
宴の準備に借り出されて、お手伝いに来ているのだ。
姫君付きだけあって、こちらの御殿の女房どのたちよりは、数段年若である。
そうなると、話題の中心は殿方と色恋のことになってゆくのはどちらのお邸でも変わりのないことらしい。
私は、千夏や小妙のことを懐かしく思い返した。
まだ十日も経っていないというのに随分と会っていないような気がする。
(みんなどうしてるかしら。御方さまにもお会いしたいな……)
こちらの深芳野さまももちろんとてもお優しい、いい方だけれど。
お側にいるだけで清冽な深山の空気に触れるような、背筋が伸びて心が引き締まるような。
そんな凛とした空気に包まれた由良の方さまと、その御前の雰囲気が、私はとても好きだった。




