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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第一章 出逢い
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5.黄楊の櫛

頼致兄さまに送られて、部屋に戻った私は、この騒ぎで目を覚まして、私の姿が見えないのに真っ青になっていた母さまと槇野に、こっぴどく叱られてしまった。


母さまは、私の無防備さを叱りながらも無事でいた事を喜んで下さっていたけれど、世間体や体裁を気にするたちの槇野は、


「みっともない!恥ずかしい!」


と繰り返して、怒り過ぎて半泣きになっていた。

でも、泣きたいのはこちらの方だ。

出来れば、二度と顔を合わせたくない相手が、生涯をともに過ごす夫君だなんて。

悪い冗談としか思えない。


「ねぇ、槇野」

「何でございますかっ!」


怒ってる怒ってる。


「何でもないわ」

このうえ、今日の婚礼に出たくないなんて言ったら、久しぶりにお尻をひっぱたかれそうな雰囲気だ。


この頃の婚礼は夜である。

当時は、従来までのいわゆる『婿取り婚』と『嫁取り婚』とのちょうど過渡期に当たっていた。

けれど、男系による血の血統を重んじる武家の間では、夫の側が妻を自身の所帯に迎える形態の『嫁取り婚』も早くから広まってきていた。


鎌田のお家と我が家の場合は、当面の間は、『通い婚』の形がとられる事が決まっていたこともあり、婚礼の儀は、妻側である我が家で執り行われることになっていた。


婚礼の刻限になるまで、私は一歩も部屋から出ないようきつく言い渡された。

言われなくても、出歩く気にもなれなかったけれど。


槇野は私の見張りを楓に言い付けると、朝から忙しく飛び回っている。

今日は1日、腰を下ろす暇もないくらい忙しい槇野を、結局夜中に叩き起こすはめになってしまった事を改めて申し訳なく思う。


「ふぅ……」

思わず知らず溜め息が漏れる。


楓が気遣わしげに声をかけてくる。


「姫さま。あまりお気に病まれませぬよう……。確かに、婚礼前夜に婿君を野盗の類いと間違えて手桶を投げつけるなど、あり得べきことではありませんけれど……」


「何も投げつけたりしていないわよ……」


もう、そんな尾鰭がついてまわっているのか。

私はがっくりとうなだれた。


そこに、衣擦れ(きぬずれ)の音もさやかに母さまが入ってこられた。


「いよいよですね。気分はいかがですか、姫」

「良いはずがありませぬ」


頬をふくらませて答える私に母さまは、ころころと笑われた。

本当に母さまはどんな時でも笑っていらっしゃる。

それに救われることも多いけれど、こんな時は多少恨めしくもなる。


「笑い事ではありませぬ。良い気分どころか……今すぐにでも、どこかへ逃げ出してしまいたいくらいですのに」


母さまには槇野には零せなかった泣き言も、つい口にしてしまう。


「まあ、どうして?もう数刻もすれば日の本一幸せな花嫁になる人が」


母さまは心底意外そうに目を丸くして云われる。


「どうしても何も……昨晩のようなことをしでかした後で、どんな顔を婚礼の場に参れましょう。恥ずかしくって穴があったら入りたい……というか、なければ掘ってでも入りとうございますわ」


「穴など掘らずに、三国一の立派なお婿さまにようやっとお会い出来ることだけを楽しみにしていらっしゃいな」


いや。その「三国一」のお婿さまに、すでにとんでもない形でお会いしてしまっているからこそ悩んでいるんですけど…。


「母さまは呑気でいらっしゃる」


私は溜め息をついた。

母さまはにっこりと微笑まれると、楓に言い付けて櫛を持ってこさせた。


黄楊の櫛で丁寧に私の髪を梳いて下さりながら、


「綺麗な髪だこと。光沢があってしなやかで。まるで絹糸を縒りかけたよう」

謳うような口ぶりで云われる。


「母さまったら」

「じっとしていらっしゃいな。

……ねえ、佳穂。人は生きていれば誰しも色々あるものよ。

 その時はまるでこの世の終わりのような気がすることでも、一日過ぎ、二日が過ぎ、ひと月も経つ頃には、どうしてあんな些細なことをそんなに気に病んだりしたのか、自分でおかしくなったりするものですよ。

 つらいこと、困ったこと、悲しいことがあった時はあまりそればかりを思いつめず、気持ちを他に向けて呑気にしていた方がいいわ。

 そうしているうちに、知らず知らずのうちに物事が良い方に向かっていたりもするのだから」


「そうかしら…」

私は半信半疑で首を傾げた。

「そういうものよ。ほら、動かない」


じゃあ、今回の場合も日が経つうちには、


(なあんだ。別に気にすることもなかったわ)


なんて風に思えてきたりするのかしら。

とてもそうは思えないけれど…。


と、いうか今回の場合は、私が気にするしない以前にもっと重要な問題があるのでは…。


「仮に私はそれで良くっても、正清さまの方はそうではないと思いますわ。

 なんてはしたないとんでもない女子かって…呆れ果てていらっしゃるに決まっています」


下手をしたら今頃帰り支度をなさっていらっしゃる頃かもしれない。


「あらあら。そんな心配をしていたの?」


 母さまはまた笑い声をたてられた。


「心配しなくても、その事ならば今朝一番にあちらのお部屋に伺ってきちんとお詫びをしてあります。

 あちらの父上は、『可愛らしい外見に似合わず、勇ましい娘御ですなあ』とおっしゃって、たいそうなご機嫌でしたよ」


「でも…」

「正清さまご本人も、確かに昨夜はかなり驚かれたようだったけれど…」


 母さまはくすりと笑って、


「『佳穂どのにお怪我はありませんでしたか?とっさのことで怖がらせてしまったようで申し訳もございません』と、あべこべに謝られてしまったわ。

 男らしくてお優しい方。佳穂は幸せね」


「そう、ですか…」


 母さまの穏やかな声と、優しい手の動きで。

 神と一緒に心のもつれまで、さらりと解けていくようで。


 とりあえず、先ほどまでの逃げ出したいような気持ちは、まったく消えないまでもかなり和らいでいた。











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