41.留守
今回は、佳穂の視点を離れた三人称の形になります。
「佳穂、今帰ったぞ」
四条の邸に戻った正清は、出てきた人影を見て軽く眉をあげた。
恐縮したように上がり口のところで平伏しているのは、佳穂の乳母子の楓だった。
ほうっておけば、日がな1日でも喋り続けている槙野と違って、万事控えめで物静かな女である。
常に佳穂のそばにいるので、顔を合わせることは多いのだが、物怖じをする気性らしく、いつも少し下がって控えるようにしていて、正清のまえではろくに声を出したこともない気がする。
それが、こんな風に、1人で出迎えに出てくるなど、珍しいことだった。
「楓か。佳穂はいかがした?」
尋ねると、それだけで楓は叱りつけられでもしたように、ビクリと身を縮めた。
「あの、御方さまはまだお戻りではなくて、その……」
「坊門の邸からか?」
「は、はい。申し訳ございません…」
楓は自分が悪いことをしたかのように小さくなっている。
正清は小さく吐息をついて、その脇を通って居間へと向かった。
「北の方さまから今日は、少し早くから来られませぬかとの仰せでございましたので」
と言って、朝げの給仕を済ませるなり身仕度もそこそこに、慌ただしく佳穂が家を出ていったのは、確か戌の刻頃だった。
今は酉の刻も過ぎようかという頃合である。
あるじの北の方である由良御前が、どうした気まぐれか佳穂のことを随分と気に入っているのは知っていた。
しかし、以前は四、五日に一度くらいだった参上の度合いが半年ほど前から三日に一度程度になり。
最近では、ほぼ一日おき。
下手をしたら、三日も四日も続けて参上することもあるようだ。
主家の女あるじに、妻が気に入られて悪いことがあろうはずはない。
しかし、あくまで佳穂はあちらの女房ではなく、一家人の妻に過ぎないのだ。
家のことに支障が出るほど、呼びつけられるというのは些いささか度が過ぎてはいまいか。
支障が出るとはいっても、食事の支度や着る物の仕立てが雑になったとか、邸内が乱れがちになったとかそんなことはなくて、せいぜい、正清が戻るよりも佳穂の帰りが遅くなったことが数度あった程度なのだったが。
結婚して以来、どんなに訪れが間遠であっても、遅い時間に訪れても、
「おかえりなさいませ。お疲れさまでございました」
小さな手をついて出迎える妻の姿に慣れていた正清にとって、自分が戻ったときに佳穂が外にいるというのは、面白いものではなかった。
居間へ戻って着替えを済ませ、しばらくすると槇野がやってきた。
「失礼致します」
「うむ」
槇野はさらさらと衣の裾を鳴らして、室内に入ってきた。
「御方さまにおかれましては、ただいまお留守にございまして……」
「楓から聞いた。坊門へ参っておるのであろう」
「え?ああ、いえ……」
槇野は慌てて首を振った。
「確かに、今朝は坊門のお邸へと参られたのでございますけれど、先ほどお使いの者が参りまして」
「使い?北の方さまからか?」
「いいえ。六条の義父上さま、通清さまのところの橋田三郎殿にございます」
正清は眉をひそめた。
たちまち嫌な予感が頭を過ぎる。
「橋田が?なんの用だ?」
「御方さまは今、六条堀河のお邸にいらっしゃるそうです。今夜はお戻りになられぬやもしれぬので、よろしくお伝え下さいと」
「何だと」
思わず尖った声が出る。
「何ゆえそのようなことになったのだ。俺は何も聞いておらぬぞ」
楓あたりならそれだけで泣き出しそうなものだったが、槇野はさすがに平然としていた。
「さあ。詳しいことはよく分かりませぬが、何でも本日、坊門のお邸に義父上さまがおいでになられた由にございまして」
「義父が?何をしに参ったのだ」
「ですから詳しいことは存じませぬ。私とてその場にいたわけではございませぬゆえ。なんでも近々、あちらのお邸で何かの宴を催されるとかで。そのお手伝いに姫さまをしばらくお借りしたいとのことでございます」
「なにゆえ佳穂を。あちらにも女房衆ならいくらでもおるであろうが」
「姫さまが、三条の御方さまに差し上げられた五節の薬玉飾りをご覧になってお気に入られたとのことにございます」
「だったら、佳穂本人を連れていかずともその飾りだけ持っていけばよいではないか」
「そうお思いならば殿から義父上さまにそう申し上げて下さいませ。ともかく橋田殿はそう仰せになられまして。姫さまも日頃、不義理をしてしまっているぶん、こんな折くらいはお役に立ちたいと思し召しのようでございます」
宴などで人手が必要な折に、女房や雑仕女などが知人や親戚の邸同士で行き来するのは珍しいことではない。
だから父が、主人の邸での宴を息子の嫁である佳穂に頼んでも、別段何の不都合もないはずなのだが、正清はなんとなく腑に落ちないものを感じた。
(まあ、そのうちに七平太にでも様子を見て来させれば良いか)
そう結論をつけると、正清は槇野を下がらせた。




