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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第三章 確執
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39.本音(二)

私は意を決して口を開いた。


「ええっと、あのね。その……つまり、その事の前に殿が仰られたことなんだけれど……」

「うんうん」


「その、殿が紗枝どののところに行かれたのは……その、私が妻としてのつとめを果たしていないせいだって、そう言われて……」


「妻としてのつとめ?」

「うん」

私は頷いた。

それだけでまた目に涙が浮んできて慌てて袖で抑える。


「つとめって何よ。夫の特殊な性癖に付き合うこと?それが出来ないから愛人のところへ行ったってそういうこと!?」

「違う!いいから千夏は一回その発想から離れて!」


「じゃあなんなのよ?」

千夏が苛立ったように言う。

小妙も訝しげに首をかしげている。


まだ独り身の二人にはピンと来ない話なのかもしれない。


「それは、つまり跡取りの問題で、という意味か?」

「……うん」

 私は涙を堪えながら頷いた。


千夏と小妙の表情が固まった。


「正室たるそなたに子が出来ぬゆえ、他の女のもとへ通っておるのだと、正清がそう申したというのか?」


「いいえ…そんな言い方ではございませんでしたけれど手……要はそういう事なのかなって……。私にいまだ子が授からぬのは事実でございますし」


「それにしたところで、それは別にそなたの咎ではないであろう。子などというものは神仏からの授かりものなのだから」


「でも、でも……武家の妻としてのつとめを果たしていないというのは確かですもの。子が出来ぬ以上、本来ならば私から殿にお側女をお召しになられることをお奨めしなければいけないぐらいなのに。あんな風に嫉妬して殿を責めたりする資格など私にはないのに……」


「佳穂……」

小妙が涙ぐんで私の手をとる。


「分かっていたけど、わざと知らぬふりをしてきたの。もしこのまま子に恵まれなかったら、いつか殿は他の女君のところへいってしまうって……私にはそれを止めることは出来ないって……。分かっていたけど考えないようにしてて……怖くて……」


「うん…うん」

千夏が私の肩を抱いて背を撫でる。


私は堪えきれなくなって、ぽろぽろと涙を零しながらしゃくりあげた。


「でも、いざ本当に紗枝どのみたいな方が出てきたら、気持ちが抑えられなくて。あんな生意気で可愛げのない態度をとってしまって……。殿が呆れられるのも無理はないわ。正室としての務めも果たさないでおいて文句だけは一人前で……」


「泣くことはない。もともとは正清が悪いのではないか。自分の浮気で妻を泣かせておいて小賢しい理屈を並べたておって。可哀想に。そんなに自分を責めるものではない」


「いいえ……いいえ! 殿は何もお悪くなどないのです。全部私が我儘で堪え性がなくて……」


そこまで言って私はぴたりと口を噤んだ。

縋りついていた千夏の膝から身を起こし、恐る恐る後ろを振り返る。


「この期に及んでもそのようにあれを庇い立てして……佳穂はほんに優しいのう」


私のすぐ後ろで難しい顔をして腕組みをなさっている通清義父上と視線があったとたん。


「きゃ───────っ!!!!!!」


私はけたたましい悲鳴をあげてその場に突っ伏した。

「な、なんじゃ、どうした?」


義父上のお尋ねになる声がするけれど、とても顔をあげられない。

私は声もなく床に顔を伏せ続けていた。


すると、その声をを聞きつけて、お居間との境の襖を開けて浅茅さまが入っていらした。


「なんの騒ぎです。今の悲鳴は何!?」

「いやいや。お騒がせして申し訳ない。うちの嫁がわしの顔を見るなり嬉しさのあまり悲鳴を……」


「まあ、では今の声は佳穂どの?」

私はそれにお返事する気力もなく俯せていた。


「喜ぶにしても泣くにしてももう少し静かに出来ぬものですか、あなたは。御方さまは常ならぬお体なのですよ!まったく……!」

「申し訳ございません……」

倒れたまま呟く私を見てひとつ溜息をつくと、浅茅さまは通清義父上にお声をかけられた。


「お帰りになられたのではなかったのですか、鎌田どの」


「いや。そうしようかと思ったのだが、そこを通りかかったらうちの嫁の声がしたものだから、久しぶりに可愛い顔でも見てゆこうかと……」


「仲が良くておよろしいこと。佳穂どの。せっかくだから、実の息子よりも嫁の貴女に甘そうなそのお優しいお舅殿に愚痴でも何でも聞いて貰って、夫君を少し叱っていただいたらどう?」


浅茅さまはそれだけ言うとまた襖を閉めて、お居間の方に戻ってゆかれた。


「…………」


「ねぇ、佳穂」

突っ伏している私の背中を千夏がつついて言った。


「気持ちは分かるんだけど、死んだふりでこの場を乗り切るのは無理があると思うわよ」


それは確かにその通りなので、私は仕方なしに身を起こした。


涙目の顔をあげて義父上を恨めしげに見やる。

「どうして義父上がこちらにいらっしゃいますの?」


「いや。こちらの御方さまのおはからいでな。以前から、月に一、二度の割合でこちらへ参上しては、我が殿の最近のご様子をお話したり、反対に若殿のご身辺のご様子を伺ったりしておったのだ。御方さまは、このまま殿と若殿の御仲が疎々しくなったままになってしまうことを、大層案じて下さっておってな……。まこと、お心遣いの細やかな、武家の北の方として申し分のない御方じゃ」


「まあ」

私は目を瞠った。


「まったく存じませんでした」


「これまではそなたが伺候しておらぬ折を選んで呼んで下されておったのじゃ。知ればそなたがわしと正清との間にたって、余計な気を揉むはめになるのではないかとお案じになられてな」


「御方さま……」

私は目を潤ませた。


本当になんてお気遣いの細やかな、思いやりに溢れた、素晴らしい女性なのだろう。


私なんて逆立ちしても、あと何十年年齢を重ねても、とても追いつけそうもない。


「申し訳ございません。本来なら私こそ、そういった気を回して義父上に正清さまの日頃のご様子などお知らせすべきでございましたのに……一向、気の回らぬ嫁でお恥ずかしゅうございます……」


しょんぼりと言う私の肩をぽんぽんっと叩いて、通清義父上は快活に笑われた。


「なに。気にすることはない。そういうおおらかでおっとりしておるところが佳穂の良いところじゃ。偶然とはいえ、久しぶりに元気そうな顔を見てほっとしたわ」


「義父上……」


「それに正清の様子も聞けたしな。あれのことだ。若君のお側近くで色々と気を揉んで、さぞかし気苦労が耐えぬ毎日を送っておるのであろうと案じておったが……。どうしてどうして、なかなか元気そうではないか」


「そうですわね…」

私は、はあっと溜息をついた。


「なんじゃ、憂わしげな顔をして。さっきの続きを話さぬのか。遠慮することはない。この義父になんでも申してみよ」


「結構でございます」


「なんじゃ。つまらぬ。せっかく面白くなってきたところであったのに……」

私は真っ赤になって義父上を睨んだ。


「いったい、どこから聞いていらっしゃいましたの!?」

「『犬も食わない何とやら』」


そう言って義父上はご自分の首筋をすっと撫でてみせられた。

私はまた真っ赤になって袖で顔を隠した。

かなり最初の方から聞かれていたんじゃないの……!


「よいよい。息子夫婦の仲の良い様子が聞けて安堵いたしたわ。そなたを正清の妻にと探してきたのはわしじゃからのう。仲良くやってくれればこんなに嬉しいことはない」


私は俯いた。

先ほどの、恥ずかしさとはまた別の居たたまれなさと申し訳なさで顔が上げられなかった。


(嫌だな……。跡取りのことだとか……義父上も聞いておられたのよね)


結婚してから、もう四年が経とうとしているのにいまだ子に恵まれていないことは、ずっと頭の片隅にあった。


それでもまだ野間にいた頃は、正清さまの訪れも間遠なのだから仕方がないと自分を慰めていたけれど。


上洛して、お側にいられるようになってからでも、もう一年半の月日が経っている。

やはり私が懐妊する気配はなかった。


正清さまは何も仰らない。


実家にいた頃は、それについて懸念するようなことを口に上せていた槇野も、もう最近ではふっつりとそれに触れるのをやめていた。


ただ、

「せっかく京の都にいるのですもの」

という物見遊山にかこつけて、ひそかに子宝に霊験あらたかだという寺社に度々、祈願に詣でてくれていることを私は知っていた。


槇野の気質ならば、本来なら「姫様もご一緒にご参詣なさいませ」と云いたいところだろうに。


それを口に出さない槇野の優しい気遣いがかえって辛かった。


なんでも遠慮なく口に出して、良くも悪くも裏表のない開け放しの気質の槇野にさえそれをさせてしまうほど。

武家の正室に子が出来ないというのは、致命的なことなのだ、ということを嫌というほど思い知らされるから。



 

 




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