36.嫉妬(三)
「泣くな。紗枝とは別にそういうのではないのだ」
「では……夜を徹しての、双六仲間だとでも仰るのですか?」
私はしゃくりあげながら顔を上げた。
「いや、そうではなく………」
正清さまは困ったように宙に視線をさ迷わせていらしたけれど。
やがて、ふと思いついたように口を開かれた。
「そなたが他所の家に客に行ったとする」
「は?」
突然、飛躍した話に私は目を丸くした。
「例えばの話だ。そなたがどこか親戚の家でも何でも良い。招かれて泊まりに行ったと考えてみよ」
「はい」
何を仰ろうとしているのか分からないまま、私はクスンと鼻を鳴らしながら頷いた。
「その家で夕餉の膳が出たとする。しかし、その家の飯の炊き加減やら菜の味つけやらがそなたには微妙に口に合わん。どうする?」
「どうするって……せっかくご用意いただいたものなのですから、そのまま頂戴致します」
「家に帰ればもっと自分の口に合う、好物ばかり揃えた膳が用意されていると知っていてもか」
「はい。だってせっかくのお気持ちを無にしては申し訳ないではありませぬか」
「で、あろう」
正清さまは大きく頷かれた。
「此度のこともつまりはそういうことだ」
「は?」
「だから、此度の紗枝とのことはそれと同じこと……うわっ」
最後まで仰れずに正清さまが身を引かれたのは、私が髪に乗ったままだったお手を乱暴に払いのけたからだった。
「何だ、乱暴な」
「乱暴なのは殿でございます!何でございますか、その例え話は! 私は家の御膳で紗枝どのは他所で出された御膳。だから、他所にお泊りになられた夜はそちらの御膳を美味しく召し上がるのが礼儀と、そういう理屈でございますかっ!」
「いや、だからそれと似たようなものというか。一番口に合うと思うておるのは家の飯だということで、つまり……」
「馬鹿になさらないで下さいませっ!」
私は手近にあった手布を掴んで投げた。
薄手の布だったので正清さまにぶつかるようなことはなく、ふわりと広がって床に落ちただけだったのだけれど、正清さまは憮然とされた。
「物を投げるやつがあるか。慎みのない。まったく、やはり邸勤めになど上げるのではなかったわ」
「それとこれとは関係ございませんでしょう!」
いきり立った私を見てさすがにまずいと思われたのか、正清さまはまた話題を変えられた。
「よし、今のは俺の例えが悪かった。佳穂、こっちへ来い。あれを見よ」
手招かれて私は渋々お側に寄った。正清さまが指し示された方を見る。
夜闇のなかにしんと沈んだ庭のなかに、梯子が一本、立ち木に立てかけられて置き忘れられていた。
いつかの木登りの件でも蒸し返されるおつもりかしらと訝しんでいると。
「あれは何だ?」
正清さまがお尋ねになられた。
「……梯子でございます」
「何故あのようなところにある?」
「昼間、庭木の剪定をお願いした庭師さんが置いてゆかれたのでございます。今日だけではやり残したところがございましたゆえ。お目触りなようなら片付けさせますけれど」
「いや。そうではない。何故、そなたは庭師に庭木の剪定を頼んだ?」
「何故って……枝が伸びてきたからでございます」
「それを何故、俺には頼まず庭師に頼んだ?」
私は眉を寄せた。
「何故も何も……殿にそのような事をお願いするわけには参りませぬ。庭木の枝を切ることなどは庭師にでも出来まするが、殿には殿にしかお出来にならない大切なお役目がございますもの」
「そうであろう」
正清さまは再び大きく頷かれた。
「つまり、此度のことはそういうこと………いかがした?」
お言葉の途中で私はすくっと立ち上がった。
「佳穂?」
私は大きく深呼吸をした。
そうしなければ感情にまかせて喚き散らしてしまいそうだったからだ。
「……つまり」
間をおいてから口を開いた私の声は我ながら、ぞっとするほど低くて平坦なものだった。
「技と、経験の問題だと、私が至らないから他所にゆかれたのだと、そう仰りたいのでございますか?」
「馬鹿!何を言っている!そういうことではなくてだな……その、人にはそれぞれ向き不向きというか適した持ち場があると申すか……」
正清さまが口早に仰ったが、私はもう聞いていなかった。
そのまま黙って踵を返し、二つ並べて敷いてあった褥に近寄ると、そのうちの一つに手をかけて、ずるずると部屋の隅にまで移動させた。
「何をしておる?」
「私はこちらで休ませていただきます。殿はそちらのお褥でお休み下さいませ。くれぐれも、そちらの線からお出になられませんように」
それだけ言うと、私はくるりと正清さまに背を向けた。
「何を言っておる。子供の陣地争いではあるまいし」
正清さまは構わず、ずかずかと歩み寄って来られると私の手をとられた。
「いらぬ意地を張っておらずにこっちに来い」
「嫌です」
私は引き寄せられまいと、あらがった。
「いいから来い」
「嫌だと申し上げておりますのに…!」
所詮、力では適わない。
ずるするっと一気にお膝の側に引き寄せられながら、私は全体重を思いっきり後ろにかけて抵抗した。
さすがに苛立たれた正清さまが怒鳴られる。
「いい加減にせよ! 何がそんなに気に入らぬのだ!」
「気に入らぬのではございませぬ。ただ、私では殿のお望みになるようにお応え出来かねるかと存じますので、ご遠慮申し上げているのです」
「賢しらなことを」
正清さまが舌打ちをされる。
「北の方さまのもとへ勤めに上がってからそなたは本当に変わった。上洛したばかりの頃のそなたは、俺がほんの少しでも不機嫌なそぶりを見せようものなら、すぐにオロオロと涙ぐんで、袖にすがって詫びてくるような、しおらしげで頼りなげな女子であったのに今はどうだ。夫のことを馬鹿呼ばわりした挙げ句に物は投げるわ、口答えはするわ、まるで別人ではないか。殿の仰られた通り、邸勤めなど許した俺が馬鹿であったわ」
「義朝さまが何を仰せになられましたの?」
私は眉をひそめた。
「そなたがあちらに上がったばかりの頃にこう仰せになられたのだ。鬼と女は人前に出さぬ方が良いというのを知らぬのか、と。田舎育ちで世慣れぬ今でこそ、『殿、殿』と可愛げに後を慕ってきておるが、あんな由良のような高慢ちきな女子のもとへ上げてみよ。ものの三月も経たぬうちに、夫のことなど見下げ果てて、木で鼻を括るような生意気な物言いをするようになるぞ。その時になって後悔しても遅い。悪いことは言わぬから、今のうちに長櫃にでも押し込めて鍵でもかけておけ、とそう仰せになられたのだ。仰せの通りであったわ」
「まあ……!」
私は目尻を吊り上げた。
「私は着物や道具ではございませんわ。そもそも、そんな事をしたら息が詰まって死んでしまうではありませんかっ!」
「馬鹿。物のたとえだ。それくらい女というものは表に出て来ぬ方が良いと言っておるのだ」
「表に出たっきりお戻りになられないのは殿たちの方ではございませぬか。私も御方さまも邸でおとなしくお渡りをお待ちしておるだけですのに、何故、そんな事を言われねばならないのですか」
「ほら、それだ。北の方さまが殿にお叱言を申し上げている時のお口ぶりにそっくりではないか」
正清さまは忌々しげに仰られた。
私はむっとして言い返した。
「御方さまの事を悪く仰らないで下さいませ!」
「別に悪くなど言うておらぬ。本当の事を言うただけだ」
「殿の方こそ」
そこで言葉を切って私はひとつ息をついた。
「ご都合がお悪くなると、大声を出してこちらを黙らせようとするなさり様、義朝さまにそっくりでございます。さすがお生まれになられてよりこちら、片時もお側を離れたことのない乳兄弟の御仲でございますこと」
「なんだと!?」
正清さまがお声を荒げられた。
「ほら、その仰りよう。大きなお声」
私がわざと耳を押えてみせると、正清さまはちらりと簀子の方に視線を走らせてから私を睨みつけられた。
「生意気を申すな。まったくなんという可愛げの失せはてた……。出逢ったばかりの頃は、これほど素直で可愛らしいことを言う女子は他におらぬと思うておったが」
「まあ」
私は目を丸くした。
「それはまことにございまするか?」
「何がだ」
「素直で可愛らしいと、そう思うておって下さったのですか?」
正清さまが「しまった」というお顔になられる。
苛立ったときのお癖で首の後ろを掻きながら、ふいっと顔を背けられる。
「今はそれとは似ても似つかぬという話をしておる!」
私は構わず、今度は自分からお膝の側に寄った。
「いつ頃のお話でございまするか?出逢ったばかりというと、まさかあの厩での騒ぎの折で……」
「そんなわけがあるか! その後の……そんな事はどうでも良い!!」
「だってお聞きしとうございます」
私はお袖に手をかけて揺すぶった。
「うるさい」
正清さまはお体ごと向きをかえて私の視線を避けられる。
「だって、殿は今まで一度だってそんなお話をして下さったことがないではありませぬか。少しくらい……きゃっ!!」
「うるさいと申しておる」
こちらを振り向きざまに突き飛ばすような勢いで押し倒されて私は小さく悲鳴をあげた。
「機嫌が直ったなら、しのごの言うておらずにこちらへ来い。まったく手間ばかりかけさせおって」
「手間って……それにそもそもお話がまだ途中……」
言い返す声を遮るように首筋に顔が埋められて私は身をよじって、それを避けようとした。
正直もう怒りの感情はほとんどどこかへいっていまっていたけれど。
昨夜一晩、紗枝どのとともに過ごされたと聞かされたあとで。
それも、当のお相手から(とても楽しゅうございました)なんて直接、顔を合わせて言われたあとで。
こんな風に抱きすくめられるのはやっぱり抵抗があるというか、どんな顔をして、どう反応して良いものか分からなくて。
私は頑なに胸元を掻き合わせて、くるりと背中を向けた。
「まったくそなたという女子は……」
頭上から溜息のような正清さまのお声が降ってくる。
その次の瞬間。
正清さまが云われたお言葉が私の胸を鋭く刺し貫いた。
「そもそもそなたさえ、妻としてのつとめを果たしておれば俺がよそを出歩く必要など何もないのだぞ。
それを棚に上げて、よくもそう頑なな態度がとれたものだ……」
すっと全身から血が引いた。
指先が冷たくなる。
耳のなかにキーーンという音が響いて、何も聞こえなくなる。
そのなかで一つのお言葉だけがくり返し、響いてくる。
『そなたさえ妻としてのつとめを果たしておれば』
『妻としてのつとめ』
『妻としてのつとめ』
私は思わず耳を塞いだ。
「佳穂?」
正清さまがお尋ねになる。
その声も私には聞こえていなかった。
「佳穂?いかがした?」
正清さまが私の肩を引かれる。
強くないお力だったけれど、私はころりと転がって、引き寄せられるままにお腕のなかに転がり込んだ。
「どうした?怖かったのか?」
小刻みに震えている私を見た正清さまが驚いたように云われる。
そのお声も、水の中の音を聞くようで。
くぐもって私の耳にはうまく届かない。
私は耳を押えたまま、いやいやと首を振った。
「大声を出したのが怖ろしかったのか?そなたらしくもない」
正清さまがそっと私の両手をとらえ、耳を塞ぐ手を外させた。
気遣わしげなお目がこちらを覗きこんでいる。
知らず知らず、目に浮んでいた涙が零れて頬を伝った。
「もう怒ってはおらぬ。おらぬから泣くな」
私はまた首を振った。
違う。そうではありませぬ。
申し上げたいのに声が出ない。
黙ったまま涙をほろほろと零し続ける私を見て、正清さまは困ったようなお顔をされて濡れた頬を手で拭って下さる。
「泣くな。俺が悪かった」
私は首を振る。
それ以外の動作が出来なくなってしまったみたいだ。
急におとなしくなった私をどう思われたのか。
正清さまは困ったようなお顔のまま、黙って私を強く抱きしめた。
私はもう抗わなかった。




