34.嫉妬 (一)
正清さまが四条の家にお戻りになられたのは、その日の戌の刻頃のことだった。
「佳穂。今帰ったぞ 」
「おかえりなさいませ。お疲れさまにございました」
私はいつも通り、正清さまをお迎えした。
つもりだったけれど。
「なんだ。随分と機嫌が良いではないか」
殊更になんでもないふりをしていようと意識していたせいか、妙に明るく弾んだ声が出てしまっていたらしい。
「何ぞ良いことでもあったのか?」
ぽんっとあやすように私の頭を撫でて、室内に入ってゆかれるお背中を見ながら、どうしても胸のうちに黒い感情がむくむくと広がっていってしまう。
(なにが良いことなものですか! 人の気もしらないで)
いつものようにお召しかえをお手伝いする。
脱いだものを受け取って、背中にまわって新しい着物を肩からおかけする。
もう何度となくそうしてきた仕草を繰り返しながらも
(『宿直』の夜はやっぱり、あの人がこうしてお手伝いをしたりするのかしら……)
よけいな思案が頭に浮んできてしまう。
「なんだ? どうかしたのか?」
「いいえ! 別に!」
切り口上にお返事をして、私は夕餉の支度に立った。
御膳を差し上げて、お側でお給仕をしていると。
正清さまが、ふとこちらをご覧になって
「なんだ? もう眠たいのか。目が据わっておる」
「違います!」
私はむっとしながら、空いたお椀を受け取ってお替りをお注ぎした。
正清さまはそれを受け取ってお口に運ばれながら、訝しげに眉を寄せられた。
「帰ったときは上機嫌だったのに、今はもう膨れておる。女子というものは分からぬものだな」
「別に膨れてなどおりませぬ」
私は慌てて目を逸らした。
いけない。何でもないふりをすると、お方さまの前でお約束したのに。
仕方のないことなのに、何もしらずに呑気にお食事をされている正清さまを見ていると、どうしても昼間の紗枝どのの顔が浮んできてしまう。
何か違うことを考えないと。何か違うこと……。私が懸命に頭をめぐらせていると。
「腹が減っておるのなら、楓か誰かにここを代わらせて、先に飯にしてきても良いのだぞ」
「は?」
「いや。いつもなら俺が帰るなり、よくもそうも口が回るものだというくらい喋り通しに喋っておるそなたが、やけに静かではないか。眠いわけではないのなら、腹が減っておるのであろう。遠慮することはない。さがってもよいぞ」
胸のうちで一度は押さえ込んだ感情がまたグラグラと頭をもたげてくるのを感じながら。
私はひきつった笑みを返した。
「い、いえ。お腹も別に空いてはおりませぬ」
「そうか?無理をせずともよいのだぞ」
気遣ってくださるような表情に余計に苛立ちが募る。
「殿は私の不機嫌の原因といえば、眠たいのとお腹が空いたのくらいしかないとお思いなのですか?」
「違うのか?」
「私は赤子ではございません!!」
正清さまは笑われたが、私は笑うどころではない。
数刻ののち。
「今日はもう休む」
という、お言葉を合図に私は晩酌の酒器を下げさせた。
寝間の支度をしながら、私は何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
昼間の御方さまのお言葉を思い出してみる。
(どうして良いか分からないときは、自分にとって一番大切なものは何か、絶対に他に譲りたくないものは何かっていうことを思い出すの。それさえ、はっきりしていれば、物事はいつもそんなに難しくないものよ)
私にとって一番大切なもの。
他に譲りたくないくらい、守りたいもの。
それは……。
こんな思いをしている今でも、やっぱり正清さまだと思う。
これから先もずっとお側にいたい。
だったら、今、ここで一度か二度(……か、三度か四度か十度かもっとかは知らないけれど!)他所の女の人のところに泊まられたくらいであさましく騒ぎ立てて、正清さまの御心を煩わせるなんて意味のないことだ。
「なんだ。さっきから。いかがした?」
無言で黙々と夜具を整える私を見て怪訝に思われたのか、正清さまがお声をかけられる。
「どうも致しませぬ」
顔をあわせると心の内が見透かされてしまいそうで、背を向けたままお返事をした次の瞬間。
「佳穂」
名を呼ばれたと思うと、そのまま後ろから覆い被さるようなかたちで抱きすくめられてしまった。
「きゃっ!」
「何をいつまでも膨れておる。しばらく放っておいたから拗ねておるのか」
「ち、違います!」
「いつまでも子供みたいなことを。仕方のないやつだ」
有無を言わせずに腕の中に引き込まれて、私は慌てて抗った。
「違うと申しますに……」
正清さまは難なく私の抵抗を封じて、そのまま褥の上に押し倒した。
宿直からお戻りになられた時の常で、強引で性急な仕草であられた。
あっという間に、着物のあわせから滑り込んだお手が素肌に触れてくる。
「ちょっ……やっ……」
その手から逃れようと身をよじって手をばたつかせる私を引き寄せて、易々と両腕のなかにおさめながら。
「なんだ。久方ぶりに帰ってきてやったのに相変わらず色気のない。たまには色っぽく甘えてみせたり出来ぬのか、そなたは」
溜息まじりに仰ったお言葉を聞いた途端、私のなかで何かが弾けた。
頭に昼間の紗枝どのの声が甦ってくる。
(昨晩も…久方ぶりにゆっくりお会いできてとても楽しゅうございました)
(鎌田さまにはいつも本当にお世話になっておりますもの)
(ご内室さまからもよしなにお礼を申し上げて下さいませね)
私は跳ね起きた。
どこからそんな力が出たのか分からないけれど。
私の上になっていた正清さまはふいをつかれたせいか、突き飛ばされるような形で脇に転がり落ちた。
「何を……」
「色気がなくて悪うございましたわねっ!」
呆気にとられている正清さまを尻目に私は、立っていって文机の引き出しから例の藍色の紐を出してきた。
ばんっと叩きつけるような勢いで正清さまのお膝の前に突きつける。
「何だ、これは?」
「先日、殿が失くしてこられたお召し物の紐です」
「なんだ。家に落ちておったのか。それがいかがしたのだ?」
正清さまは不機嫌そうに眉根を寄せられる。
「そんなもの今はどうでも良いではないか。本当にそなたという女子はわけが分からぬ」
「どうでもよくはございません!」
言いながら腕をつかんで引き寄せようとされるのを押し止めて私は言った。
頭の片隅でもう一人の自分が「だめ!やめなさい!!」と、警告を送ってくる。
困ったようなお顔をされた由良の方さまが「佳穂」と、お首を横に振られるのが見える。
けれど、もう止まらなかった。
(色気がないって、たまには色っぽく甘えてみろって……それは誰と比べてのことなのよっ!!)
「こちらは、坊門のお邸の義朝さま付きの紗枝どのと仰るお方がお持ち下さったものにございます」
私は一気に言った。
瞬間、呆れたように私を見やっていた正清さまの表情がびしっと固まる。
「紗枝が?……参ったのか?ここに?」
正清さまのお口から、「紗枝」といかにも親しげにその名が出たことが、思った以上に衝撃で。
私は動揺を押し殺しながら口を開いた。
「いいえ。今日の昼間。私が鬼武者さまのお供で寝殿に参りました折にお会いいたしました。殿のお忘れ物なのでお返ししておいて下さいって」
「……そなたが俺の妻だと知っておったのか」
「鎌田正清さまのご内室はどちらの方ですかとお尋ねになられました。千夏たちが一緒だったものですから」
「成る程……」
「鎌田さまにはいつもお世話になっておりますって。昨晩も楽しゅうございましたって。ご内室さまからもよしなに申し上げて下さいませって。そう仰せでした!」
正清さまが難しい顔をして眉間を押えられる。
「……それで。そなたは何と言ったのだ?」
「そのように申し伝えます。こちらこそ我が殿がいつもお世話になっております…と、そう申し上げました」
「そうか……。そうか。成る程」
意味のないお言葉をくり返しながら、あさっての方を向いて頷いておられる。
私の手をつかんでいたお手はいつのまにか離れて、胸の前で考え事をするときのように組まれている。




