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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第三章 確執
32/122

32.紗枝 

年の頃は二十歳をいくつか過ぎたくらいだろうか。


夏らしい撫子襲(なでしこがさね)小袿(こうちぎ)を着た女房どのが簀子縁に立って、こちらをじっとみつめている。

馴染みのない顔なので、こちらの寝殿付きの人だろうか。


御方さまのいらっしゃる北の対、鬼武者さまのお居間にあてられている東の対屋つきの女房どのとは普段、顔をあわせる機会も多いのだけれど、こちらの寝殿の方の女房どのとはほとんど交流がない。


また、こちらの御殿付きの女房だけは御方さまが義朝さまとご結婚なさってから、あらたに武家勤めの経験のある人を募って雇い入れられた人が多いこともあって。

女あるじである由良の方さまご自身でも、あまりご存知でない顔ぶれも多いようであった。


撫子襲の女房どのは、まだこちらを見ている。


誰の姿も見えなかったので、黙って母屋の方にまで入り込んでしまったのだけれどいけなかっただろうか。

それとも、ただ単にうるさかったとか。


自分たちのさっきの騒ぎぶりを思い返して、私はそちらへ向き直り深々と頭を下げた。


「北の方さまのお使いで、端午の節句のお飾りを持って参りました。お騒がせして申し訳ございません」


顔を上げても、まだその人は黙ってこちらを見ていた。


少々、訝しく思いながら私はにっこりと笑いかける。


「殿がお帰りになられましたら、よしなにお伝え下さりませ」


「ご苦労様に存じます」


女房どのはそれだけ言うと、顎の先をわずかに引くような会釈を返された。


あまり感じが良くない。

気の強い千夏が、横でむっとしているのが分かる。


でも、他所の御殿に入り込んで大騒ぎした私たちも悪いのだからと、私はもう一度お辞儀をして、(きびす)を返そうとした。


その時。


「もし」


後ろから声をかけられた。

「鎌田正清さまのご内室さまはどちらの御方でございますか?」

  

振り返って、私は答えた。


「はい。私でございますけれど」

千夏と小妙が顔を見合わせる。


「まあ、貴女が……」

女房どのは、意味ありげに微笑んで、まじまじと私を見つめた。


頭の先から爪先まで、値踏みするかのような遠慮のない視線だった。


近くでよくよく見ると、多少気が強そうではあるものの、なかなかに綺麗な人だった。


背もすらりと高く、私も標準と比べて特に小柄な方ではないけれど、真正面から向かい合うと、少し見上げるような形になる。


じろじろとみつめられて私は、小首を傾げた。


「あの、何か御用でしょうか?」


尋ねると、彼女は

「ええ、まあ」

と、頷いて、藍色の紐のようなものを差し出した。


「これは…?」

「鎌田さまのお忘れ物です。お返ししておいていただけます?」

受け取ってみると、それは何かの紐飾りのようであった。


「……ああ」

しばらく考えてから、私は思い当たって微笑んだ。


数日前、宿直からお戻りになった正清さまの、お召しになっておられた直垂の紐が取れていたことがあったのだ。


「こちら、どうされましたの?」

「さあな。どこかで引っ掛けでもしたのであろう。いちいち覚えておらぬ」

「まあ。小さなお子みたいに」


お召し替えをお手伝いしながら、そんな会話を交わしたことを思い出した。


「それはわざわざありがとうございます」

私はにっこり笑って頭を下げた。


寝殿付きの女房の彼女が、廊下かどこかに落ちていたこれを拾って、わざわざ届けに来てくれたと思ったのだ。


彼女は何故だか微妙な表情で私をじっと見ていたけれど。

やがて。


「いいえ。このくらいのこと。鎌田さまにはいつも本当に、何くれとなく、お世話になっておりますもの」


そこで言葉を切って、まっすぐに私を見ると


「申し遅れました。私、こちらの義朝さまのお側付きとしてお仕えさせていただいております、紗枝(さえ)と申します」

妙にきっぱりとした口調で言われた。


「まあ。こちらこそご挨拶が遅れまして。鎌田の妻で佳穂と申します。今はあちらの北の方さまのお側に時々こうして上がらせていただいておりま……」

「昨晩も」


私の言葉尻に被せるようにして紗枝さんが言った。


「久方ぶりにゆっくりお会い出来てとても楽しゅうございました。どうぞ、あなたさまからもよしなにお礼を申し上げて下さいませね」


ここ数日来、正清さまは宿直だと申されて外泊まりをお続けになっておられる。

 

私はにっこりと紗枝さんに笑いかけた。


「承りました。きっとそのように申し伝えます。我が殿がいつもお世話になっております。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます」


そう言って、深々と頭を下げて顔を上げると紗枝さんは変な顔をして私をじっと見ると、そのまま無言でくるりと踵を返してしまわれた。





「それにしてもさっきの佳穂はすごかったわ。迫力あったもの」

「ほんと。正妻の余裕よね。見た?あの人の顔。私すっきりしちゃった」


弓のお稽古を終えた鬼武者さまをお迎えにあがって、お居間までお送りして。


北の対の御方さまのもとへ戻って来るなり、千夏と小妙がぽんぽんと私の肩を叩いて口々に言い出した。


「何のこと?」

 私は首を傾げた。


「何ってほら、さっきの……」

紗枝(さえ)って言ったっけ? わざわざあんな厭味を言いに来るなんて、きっと佳穂が上洛してから内心で、ずうっとキリキリしてたのよ。いい気味よね」


「何のお話?」

脇息にもたれたまま、由良の方さまがお尋ねになる。


そう問われても、いまいち話の見えない私は首をひねるしかない。

それを見て、千夏と小妙がすっと真顔になる。


「え……?」

「もしかして、……気づいてない?」

「だから何が?」


二人は顔を見合わせると、大袈裟に仰け反ってみせた。


「信じられない。鈍い鈍いとは思っていたけど、まさかこれほどまでとは……」

「それであんなに平然と落ち着いてたのね。道理で」


「だから何がなんなの?」

 私は少し苛々して尋ねた。


「だーかーらー! あの紗枝っていう女はあなたの旦那さまとそういう仲なのよ。嫉妬にかられて評判の愛妻の顔をわざわざ見に来たの。ご丁寧に昨夜の逢瀬の証拠まで持ってね」


「千夏。待ちなさい」

由良の方さまが珍しく慌てた口調で割って入られる。


「そういう仲……?」

私は口のなかで呟くように言って、懐に入れておいた先ほどの飾り紐を取り出した。


「逢瀬の証拠……」

手のひらに乗せてみる。


そのまま無言で固まっている私を見て、千夏が口早に言った。


「まさか、『そういう仲』の意味まで分からないとか言わないわよね? あの女は、あなたの夫君が自分のところに来て、衣服の紐を緩めるような事をしていったんだっていうのを、わざわざ知らせる為にそんなもの持ってきたのよ。嫉妬する気持ちは分かるけど、普通そこまでしないわよ。嫌らしいったら!」


私はまじまじと藍色のその紐をみつめた。

頭の中に先ほどの紗枝さんの言葉が蘇ってくる。


(鎌田さまにはいつも本当に、なにくれとなくお世話になっていて)


(昨夜もとても楽しゅうございました)


(どうぞ、あなたさまからもよしなにお伝え下さりませね)


昨夜……。

昨夜もって。


「……殿は昨晩は宿直だって仰って……その最近、洛中も物騒だから戸締りを厳重にするようにって……」


返事をするというより、自分のなかで整理するようにブツブツと言う私の言葉を千夏がばっさりと切り捨てた。

「だから、あちらの局で宿直だったんでしょうよ。宿直には違いないものね。便利な言葉よね」


「………」

「佳穂……大丈夫?」


小妙が心配そうに私の顔を覗きこむ。

千夏も気の毒そうに眉を顰めた。


「信じたくない気持ちも分かるけど。でも、佳穂。あなた、あの女の厭味にも気づかないほど、今まで夫君の浮気を疑ったこととかないわけ? 結婚したら、夫は生涯妻ひとりに変わらぬ愛情を誓うとかそういう夢物語を信じてたわけ?」


「そんなんじゃないけど……」


私は手のひらの紐に目を落としたまま口を開いた。


「うちの父さまにも母さまの他に何人か女君がいらっしゃったし……そんなんじゃないけど……でも、うちの殿はそうじゃないんじゃないかな、って……」


「佳穂……」

「そんな暇も余裕も甲斐性もおありじゃないんじゃないかなって……そう思っていて……」


「佳穂……そこは嘘でも、そんな事をする御方ではないと信じていたって、そうおっしゃい」

由良の方さまが頭痛がする時のように、こめかみに手を当てて言われる。




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