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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第三章 確執
31/122

31.菖蒲

仁平二年(1152年)元日。

宮中でちょっとした異変があった。


元日の朝賀の後、大臣以下公卿・殿上人が天皇に拝謁する「小朝拝」という儀式が執り行われるのだが帝がお出ましになられなかったのだ。


鳥羽院の寵臣、藤原家成卿の邸宅を子飼いの武士たちに命じて襲わせたりという峻烈な振舞いの目立つ左大臣頼長公とお顔を合わせられるのを嫌がられたのだ、という噂がまことしやかに囁かれた。


帝の後宮には左大臣のご養女の皇后多子さま、摂政忠通さまのご養女の中宮呈子さまのお二人が並び立たれていたけれど、現在の内裏は摂政さまの邸宅である近衛院であったので、皇后さまはほとんどお側に上がれず、実質的には中宮呈子さまが後宮を独占していらした。


頼長さまは口惜しく思われながらも、呈子さまは摂政さまのご養女であると同時に、帝のご生母、美福門院さまのご養女でもあられたのでどうすることも出来ないようであった。




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その年も五月になった。


五月といえば端午の節句である。


実家にいた頃も、この頃になると軒先に菖蒲の葉を吊るしたり、根の長い菖蒲を掘り探してきては、お互いの無病息災を願った寿ぎ歌などをつけて贈り合ったりしたものだったけれど。


坊門の由良御前さまのお邸でも、それぞれ菖蒲にちなんだ衣装を調えたり、薬玉を作ったりと、女房たちが忙しく準備に追われていた。


邸内にはひさしぶりに花やいだ楽しげな空気が流れていた。


お方さまはこのところ、内親王さまの御所にも上がられるのもやめてお邸でばかり過ごしておられた。


春先からお体の様子がすぐれず、お食事もお召し上がりになれないような日が続き、お側の私たちも随分と心配したものだったけれど。


その心配はすぐに喜びへと変わった。

ご懐妊であられたのだ。


ご嫡男、鬼武者さまがお生まれになられたのが久安三年のことだったというから、数えて五年ぶりの慶事である。


御産は秋の終り頃になるだろうとのことであった。


最近ではお体の方も随分と落ち着かれて、ご気分の良い日は起き上がって、以前のように女房たちを相手に物語をなされたり、鬼武者さまの手習いを見て差し上げたりなさることも多くなってきていた。


今日も、女房たちが御前の広間に賑やかに生地を広げて、あれこれ裁ち縫いなどしているのを、脇息にもたれて、楽しげにご覧になっていらっしゃる。


お側に控えている浅茅さまもお嬉しそうだった。


私は四月の末頃からとりかかり、薬玉を作った。


もともと針仕事は好きで、正清さまのお留守が続く日などは夜ごと縫い物に時間を費やすことが多かったのだけれど。


今年は特に時間をかけて、丁寧に、意匠を凝らして作りあげた。


錦の袋によく乾かした蓬や菖蒲の葉を入れる。

口を絹糸で結んで、その上から色とりどりの布で作った花や鳥、蝶などをかたどった飾りを結びつける。

最後に五色の組紐を垂らせば出来上がりだ。


出来上がったものは、我ながら満足のいく仕上がりになった。


そういったものには、まるで感心のない正清さまが

「見事なものだな」

と、仰って下さったくらいだ。


私は出来上がったそれを箱に入れて、由良の方さまに献上した。


箱を開けた御方さまは、ぱっと微笑まれた。


「まあ、綺麗」

ご懐妊以来、ますます面痩せしてほっそりなさったお顔が、日が差したように輝く。


ああ、お綺麗な方だなあ、と私は改めて見惚れる。


匂やかな濃い紅梅色の袿の上に青を重ねた菖蒲襲(あやめがさね)のお衣装をゆったりとお召しになり、脇息から身を起された拍子にその衣の上を艶やかな黒髪がさらさらと流れてゆくさまなど、物語に出てくる姫君そのままのようで、毎日お見上げしていても感嘆せずにはいられない。


「見事なものねえ。これは佳穂が作ったの?」


「はい。拙い出来でお恥ずかしゅうございますが、御方さまと鬼武者さま。お腹の御子さまのご息災を願って作りました。お納めいただけたら幸いにございます」


「ありがとう」

御方さまは微笑んで、薬玉を箱から取り出してご覧になる。


「よい香りがして、美しいこと。これを枕辺に飾っておけばそれだけで命が延びるような心地がするわね。早速飾らせて貰うわ」


気品高く、それでいて愛嬌がこぼれるような御方さまのお顔を拝しながら、内心こっそり、この笑顔が滅多なことで夫君の義朝さまに向けられることがないことを惜しいと思う。


こんなお顔を向けられたら、どんな殿方だって御方さま以外の女人なんて目にも入らないと思うのに。



御前でも女房たちが賑やかに薬玉作りに興じていた。


漢籍のお勉強を終えてこちらに来られた鬼武者さまも珍しげにそれをご覧になっておられる。


私はその辺りにあった端切れを使ってトンボを作りあげ、絹紐を結わえて鬼武者さまに差し上げた。


年齢よりは大人びて、しっかりされている若君だけれど、それを嬉しげに受け取って母君にお見せしているお顔は、年相応に無邪気な男の子のお顔になっていて、とてもお可愛いらしい。


切れ長で涼やかな目元に細く通った鼻筋。


鬼武者さまは、父君の義朝さまよりも、母君の由良御前さまの貴族的なご容貌の方を、より色濃く受け継いでおられるようであった。


しばらくして。


「あら。鬼武者。そろそろ弓のお稽古の時間ではないの」


御方さまが仰せになった。


「まあ、本当。お支度をして寝殿の方に参られなくては」

乳母どのが慌てたようにお答えになる。


鬼武者さまは少し寂しそうに、甘えて寄りかかっておられた母君のお膝から身を起された。


「では佳穂どの。また、お願い出来ましょうか?」

お乳母どのが遠慮がちにこちらをご覧になる。


「ええ。もちろん。私でよろしければ」

私は微笑んで立ち上がった。


「では、若君。参りましょう」

鬼武者さまは頷いて、こちらに駆けてこられた。


武芸のお稽古は南の庭の一角にある弓場で行われる。


鬼武者さまのお乳母どのは、都育ちでお気立ても優しく、穏やかな女人なので、義朝さまのお側まわりの荒々しい東国武士の皆さんなどはお姿を見たり、お声を聞くだけでも怖ろしいのだそうだ。


ましてや、その方々が集まっておられるところに出向くなど、どうしても足がすくんでしまわれるらしい。


私がこちらに参上させていただくようになり、浅茅さまやお乳母どののご信頼もどうにかいただけるようになってからは、先日の菊花の宴の折などもそうだったけれど、寝殿まわりでのご用事は、大抵、私とその近くにいる千夏か小妙にまわってくることになっていた。


この時も、若君をお連れして部屋を出ようかという時になって、


「ちょっと待ってちょうだい。佳穂」


御方さまが私を呼び止められた。


「何でございましょう?」


「寝殿に行くついでに、こちらで作った菖蒲飾りと薬玉を持っていってちょうだい。季節の縁起物ですもの。殿のお身回りにも差し上げなくては。御帳台とお居間の柱や軒先などに幾つか飾ってきてくれる?」


最近では義朝さまは、ほとんどこちらにお泊りになることはなくなられているのに……。


私は一瞬、言葉に詰まり。


それから急いで頭を下げた。


「かしこまりました。御方さまの雅やかな御心遣い、さぞかしお喜びになられることと存じます」


御方さまは微笑まれた。

どこかお寂しそうな、儚げな微笑だった。



一人では大変だろうということで、千夏と小妙が一緒に来てくれた。


鬼武者さまを弓のお師匠さまのところへ送り届け、お節句飾りを詰めた箱を抱えて、お居間になっている東の面の方にまわる。


「まったく。佳穂と親しくなってからやたらとこちらの用事を押し付けられてほんと貧乏くじだわ」

千夏がブツブツと言う。


「いいでしょ。千夏の大好きな殿方がいっぱいいらっしゃるところに大手を振って来られるんだから」


私が云うと千夏は頬を膨らませて反論した。


「人聞きの悪い! いい?私が好きなのは、物語に出てくるような見目麗しく、物腰も柔らかで雅やかな貴公子さまなの。殿方ならなんでもいいんじゃないのっ!」


「うーん……。そういう殿方はこちらのお邸にはいらっしゃらないわねえ、たぶん……」


「たぶんじゃなくて絶対いないわよ。御あるじの義朝さまは、そのご素行はともかく、お顔はなかなかの美男でいらっしゃるのにその周りに転がってるのときたら、山から転がり出てきた岩か熊か猪みたいなのばっかりなんだから」


「悪かったわね!」

私は、御帳台の柱に薬玉を結びつけながら云った。


「あら。鎌田さまはそのなかではまだマシな方よ。佳穂の旦那さまでなければ一度くらい考えてみてあげてもいいくらい」


「なんなのよ、その上から発言は」

私たちのやりとりを見ながら小妙がクスクスと笑っている。


「千夏が良くても鎌田さまの方がお断りになるわよ。佳穂しか目に入ってないんだから」


私は赤くなった。

「やあねえ。そんな事ないわよ」


なにげないふりで、飾りつけを続ける私の肩を千夏がどんと小突く。


「謙遜しながら顔が笑ってるんですけど。腹立つ!」


「御あるじの君と違って、鎌田さまにはそういう浮いたお話がまるでないものねえ。乳兄弟でもああも違うか、そこだけは逆だったら良かったのに、って浅茅さまもよく仰ってるわ」


小妙がしみじみと言う。


「そこだけは、ってなんか引っかかるんだけど……」


小妙はそれには答えずに


「いいわねえ。佳穂は頼もしい旦那さまから一途に愛されてて。私もそろそろ、そんな風に想ってくれる方と出会いたいわ」


夢見るような目で云う小妙の言葉に千夏が肩をすくめた。


「私たちにも、目の前にほいっと差し出された相手と好きだの嫌いだの深く考えずにさっさとくっつける佳穂みたいな大雑把な神経があればねえ」


「失礼ねっ!!」

「あら。実際そうでしょ」

「もう、千夏ってば……」


そんな風にいつものようにじゃれ合いながら仕事を済ませて、さて、南面の方に戻って鬼武者さまのお稽古のご様子でも拝見してこようかと簀子縁に出た時。


そこにその人は立っていた。


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