30.京の水
話し込んでいたせいで、家に戻る頃にはもう酉の刻をかなり過ぎていた。
「姫さま、何をしておいでだったのですか!」
土間のあがり口のところで、焦れ焦れとした顔で待っていた槇野が私の顔を見るなり叫んだ。
「殿がもうお戻りでございますよ」
と、こちらは声を潜めて言う。
私は急いで居間へと向かった。
「ただいま戻りました。遅くなりまして申し訳もございませぬ」
簀子縁に手をついて頭を下げると、
「随分と早かったではないか」
不機嫌そうなお声が返ってくる。
私はおずおずと室内に入ると、ひとり盃を傾けておられた正清さまの前に座り、もう一度平伏した。
「申し訳ござりませぬ。すぐに夕餉に致しますゆえ」
「もうよい。北の方さまのところでのお勤めで忙しいのであろう。俺のことなど放って、下がって休んだらどうだ」
「いえ、そんな。とんでもない。少々お待ちくださりませ」
私は慌しく台盤所にたっていって、出来るだけ急いで御膳を整え、居間へと運んで戻った。
もともと、正清さまは侍女たちが身の回りのお世話を務めるのをあまり好まれない。
そういうお暮らしに慣れておられないので落ち着かないのだそうだ。
それで普段は、お召し替えも御膳のお給仕も、ご寝所のお支度も、出来る限り私がつとめてきたのだけれど。
今日は私が戻った時には、正清さまはもうお召し替えも済まされたあとだった。
ご機嫌が悪くなるのも無理はない。
お食事中、ほとんど余計な口をきかれないのはいつものこととはいえ、今日は、やはりその沈黙が重い。
御方さまのご用事ならばともかく、要らざるお喋りに時を費やして帰りが遅くなってしまったことを悔やみながら、小さく吐息をつくと。
「どうした?」
お声がかけられた。
驚いて顔を上げると、正清さまがこちらをご覧になっておられる。
「元気がないではないか。珍しい」
私は身を縮めてみせた。
「帰るのが遅くなって殿がお怒りになっておられるから怖がっているのです」
「嘘をつけ」
正清さまは椀を口に運んでから云われた。
「俺がちょっと叱ったくらいで殊勝げに怖がるようなたちか、そなたが。いつも何を言ってもけろけろとしておるではないか」
けろけろって。蛙じゃあるまいし。
「……勤めが辛いのならば、いつ辞めても良いのだぞ」
「え?」
私は首を傾げた。
「例の件などで、浅茅どのあたりからしつこくせっつかれておるのではないか」
「ああ」
私は頷いた。
「確かに今日も色々と聞かれましたけれど」
「やはりな。女どもの詮索好きにも困ったものだ」
正清さまは溜息をつかれた。
「北の方さまには俺からお許しをいただくゆえ、無理をしてあちらに上がることはないのだぞ。もともと、そなたは北の方さま付きの女房ではない。俺の妻に過ぎないのだから、以前のように、ここで家の事だけしておる方が気楽なら、そうしておればよい」
御膳の方に視線を落としたまま、ぶっきらぼうに仰るその横顔を私はまじまじと見つめた。
正清さまがそれに気づいてお顔を上げられる。
「なんだ?」
「いえ、殿があんまりお優しいことを仰るから驚いてしまって……」
「普段がよほど酷い夫のようではないか」
正清さまが眉をしかめて、膳の上のものをお口に運ばれる。
「まあ、そうでないとも言えぬが。普段はそなたのことなど放りっぱなしだからな」
「いいえ」
私はかぶりを振った。
「滅相もありませぬ。殿は佳穂などには勿体ない、お優しい背の君さまにござります」
そこで言葉を切って、私は改めて正清さまをじっとみつめた。
「佳穂は、殿のそんなお優しいところがとても好きでござります」
正清さまが飲みかけていた白湯をぶっと噴出された。
「な、なんだ。藪から棒に!」
「いえ、今、改めてそう思って」
「馬鹿なことを。夫婦で改まってそんな事を口にするやつがおるか」
正清さまは私が差し出した手布でお顔をごしごしと拭いながら言われた。
「そうやって、照れていらっしゃる時にわざとお怒りになったようにお振る舞いになられるところも好きでございます」
「やめよと言っておるに!」
手布を私の膝の上に投げ返して、正清さまは乱暴にお箸をおかれた。
「もう飯は良い!膳を下げよ」
「はい」
私はおとなしく頷いて、次の間に控えた侍女を呼んで御膳を下げさせた。
「お休み前に御酒はあがられますか?」
ぶっきらぼうに頷かれるのを確認して、酒肴の用意をした新しい御膳を運ばせる。
徳利を手にして、お膝の側に寄ると正清さまがじろりと私を睨まれた。
「また、大方、あちらのお邸の女房どもから余計なことを吹き込まれてきたのであろう。そなたがふいに妙なことを言い出すときは大抵それだ」
私は小さく首を竦めた。
「別に妙なことでもありませんけれど……夫君のどこが好きか、なんて聞かれたものですから、ちょっと……」
「馬鹿馬鹿しい。女どもというのは、寄ると触るとそんな話ばかりしておるのだな。呑気なものだ」
「それも殿方たちが日々、私たちの暮らしをお守り下さっているゆえでございますわね。ありがたいことと存じます」
殊勝げに言って、徳利を傾けると正清さまは不機嫌そうに鼻を鳴らして、お酒を注いだ盃を傾けられた。
「あちらに上がった当初はどうなることかと案じておったが、随分と周りとも馴染んでおるようではないか」
「はい。義朝さまの御乳母子殿の妻だと言うことで皆様、とても良くして下さって。全部、殿のおかげでございますわ」
にっこり微笑んでそういうと、私は空になった盃にまたお酒を注いだ。
「馴染むのは良いのだが、あまり親しくなって京の水に染まり過ぎるのも考えものだな。おまえと特に親しい、あの、千夏どのだとか小妙どのだとか、あの辺りの女房衆はまだ独り身でおるせいか、どうもふわふわしておるというか、浮ついておるというか……俺はああいう手合いは苦手だ」
正清さまが千夏たちみたいな、都育ちで垢抜けた、若い女房たちを苦手としているのは分かっていた。
顔を合わせれば恋の話と殿方の品定めに余念のないような女房たちの話題のなかに私が混ざっているのを快く思っておられないことも。
私はことさら影のない声で明るく云った。
「まあ。得意になられては困りますわ。千夏たちは仲の良い朋輩ですけれど、私の大切な背の君をとられたら困りますもの」
「ほら、またそういうことを云う」
正清さまは顔をしかめて私の髪をちょっと引っ張った。
「以前のそなたは、そんな軽口を叩かなかった。勤めに出だしてからだ。そんなことを言うようになったのは」
「軽口ではありませんわ。本当のことですのに」
「うるさい」
肩を引き寄せられて私は慌てて徳利を床において、お膝にもたれかかった。
「こちらに上がったばかりの頃のそなたは、客が来ても恥ずかしがって俺の背に隠れてばかりいるような女子だったのに、変われば変わるものだな。口ばかり達者になりおって」
私は困って、小首を傾げて正清さまを見上げた。
正清さまは、私の顔をじっと見ると、ふうっと一つ吐息を漏らされ。
「まったく……殿の仰る通り。鬼と女房は人前になど出すものではないな……」
「え?」
呟くようなお声に聞き返すのに構わず、正清さまはぐっと私を抱き寄せられた。
「……それで、そなたはなんと答えたのだ?」
半刻ばかりのち。
褥のなかでうとうとしかけていた私は、正清さまの声にはっと我にかえった。
いけない。
夫君より先に眠ってはいけませんよ、と結婚前から母さまにも槇野にも嫌というほど言い聞かされているのに。
温かいお腕のなかにいると、すぐにすぐに眠たくなってしまう。
私は小袖の胸元をかきあわせてから、ごしごしと目をこすった。
「なにが、でございますか?」
「だから昼間、浅茅どのたちに問われて、そなたは何と答えたのだと聞いておる」
「常盤の君のことですか? 何と答えるも何も、知らないものは知らないとしか……」
正清さまの不機嫌そうなお顔を見て私は口を噤んだ。
違ったみたい。……と、いうことは。
「殿のどこが好きかというお話にございますか?」
お返事はない。
あさっての方を向いて黙っておられる。
でもまあ、そういうことなんだろう。
私は頬に手を当てて考えた。
まさか、ばか正直に「いいえ。特に思い当たりませんでした」なんて云うわけにはいかないし。
「そんなの、ご本人を前にして恥ずかしゅうございます」
はにかむそぶりをして誤魔化そうとしてみたが、
「今さら何を。さっきはさんざん言っておったではないか」
……仕方がない。
私は、懸命に頭を巡らせながら口を開いた。
「だって、殿ほどお強くて、凛々しくて、お優しくて、頼もしい殿御は他にいらっしゃいませんもの、と、お答え致しました」
これじゃ千夏の想像のなかの「ちょっと馬鹿っぽい私」が言いそうなことそのままじゃないの。
「この馬鹿。よそでそんな手放しで惚気て見せるやつがあるか」
正清さまは私の額を小突いた。
言葉では「馬鹿」と言いながらも、満更でもなさそうだった。
ありがとう、千夏。
「だって、本当のことなんですもの」
「そなたはいつまでも子供だな。まあ、そこが可愛くもあるのだが…」
正清さまが私の髪を撫でながら呟くように言われた。
「え?」
聞こえていたけれど、もう一度仰って欲しくて聞き返してみる。
「なんでもない。そなたは周りの都女どもに変に毒されず、今のまま、多少馬鹿で、子供っぽくて少々抜けておるくらいでおれ。俺にはそれくらいがちょうど良い」
特に聞きたくもなかったお言葉が返ってきた。
まったく。
みんなして、馬鹿だの抜けてるだの。
子供っぽいだの。情が薄いだのと言いたい放題なんだから。
内心むくれる私をよそに、正清さまは仰るだけ仰ると、お気が済まれたのか、健やかな寝息を立てられ始めた。
その寝息をきいているうちに、一度は去りかけた眠気がまたどっと襲ってきて。
私もそのまま、お胸に頬を寄せると、規則正しい鼓動を子守唄のように聞きながら、心地のよい眠りのなかへと落ちていった。




