29.薄情
「そもそも浅茅さまは、どうしてそこまで常盤の君のことをお気になさるのです。別に良いではございませぬか。常盤の君がどんな方だって、義朝さまがどれほど通い詰めておられたからって。それを知ったからと言って、何か良いことがあるとは思えませぬけれど」
「良いことのあるなしの問題ではありませぬ! 御あるじの身の回りのどんな変化にも気を配り、必要とあらばすぐさま手を打ち、対処出来るよう努めておくのが女房の心得というものなのです。その常盤とかいう娘のこと、まったく知らぬではこちらとしても思案のしようがないと申しておるのです」
私は首を傾げた。
「手を打つって……浅茅さまは常盤の君の居所を突き止めて討ち入りでもなさるおつもりなのですか?」
背後で千夏と小妙が噴き出す気配がする。
「そんな筈がありますかっ! そういうことではなくて……そなたも武家の娘なら分かるでしょう! 戦に勝つにはまず敵を知ることが肝要なのです!」
「戦……」
私はやっぱり首を傾げたまま呟いた。
「敵とか味方とかそんな物騒な。要は殿方の好き心から出たお話ではございませぬか。お相手の女人に罪があるわけでなし。そもそも、そのお方がいらしたところで、こちらの御方さまの座が揺らがれるわけもないのですから、そんなにお気を揉まなくても良いのではございませぬか?」
「佳穂。あなた全然分かってないのね」
それまで浅茅さまに遠慮して黙って話を聞いていた千夏が溜まりかねたように口を開いた。
「相手の女に罪がないのなんて、こっちは百も承知なの。相手の女の様子だとか、自分の恋人がどんな風に相手の女と近づきになったのかだとか、いつどこで会っているのかだとか、そんなこと知ったところで何にもならないのなんて、重々、嫌というほど分かってるのよ! それでも知らぬふりをしていられないのが女心というものじゃないの!」
「そ、そうなの?」
私はその勢いに気圧されて目を丸くした。
浅茅さまも、小妙も、その通りとでも言わんばかりに、「うんうん」と頷いている。
「そうなの? って、あんたはそういう経験ないわけ? 鎌田さまは結婚以来、そういう事一度もないの?」
「さあ……?」
「さあっ、てあなた…」
「あるのかもしれないし、ないのかもしれないし。よく分からないわ」
「あるのかもしれない…って、よくそんな呑気な事が言えるわね」
千夏が浅茅さまの前だということも忘れたようにむきになって言った。
「佳穂はそういう事があったかもしれないと思っていて、それで平気なの? なんともないの?相手がどこの誰かだとか、全然気にならないの?」
「全然気にならないのかって言われたらそうでもないような気もするんだけど。その相手が誰かだとか、それがいつ頃のことだとかわざわざ調べて突き止めろって言われたら、そこまでは別にいいかなっていうか……」
「なんなのよ、煮えきらないわねっ」
千夏が声を張り上げた。
「他に女君がいても別に平気、だなんて、佳穂、あなた本当に鎌田さまのことが好きなの?」
「好きよ。それは」
「じゃあ、どこが好き?」
「どこ……?」
勢いで言い放ったらしい千夏は私が首を傾げたまま考え込んだのを見て、逆に不意をつかれたように口を噤んだ。
「ええ……どこが好き……どこ…?」
私は考えた。
正清さまのことはもちろんとても好きである。
帰ってきて下されば嬉しいし、お留守の夜が続けば寂しい。
けれど、どこが好きなのか、なんて今まで考えてみたこともなかった。
「か、佳穂?」
「ええっと…ちょっと待ってよ…」
頬に手を当てて考え込んでいる私を見て、千夏たちが顔を見合わせる。
「そ、そんなに考えること?私はてっきり即答で惚気られるのかと思ってたわ」
千夏が何故か困ったような顔で言う。
「ええ?なんて?」
「ほら、例えば、だって殿みたいにお優しくて頼もしくて佳穂を大事にしてくれる方他にいないもーん、みたいな」
……千夏のなかの私の印象はそんな馬鹿みたいなのか。そうか。
それはさておき。
「ああ、そうね。お優しくて頼もしくて……そうよね。うん。そんな感じかな。じゃあ、まあ、そういうことで」
「そういう事でって、あなた……」
浅茅さまと、千夏と小妙。
三人が三人とも、信じられないと言ったような、どこか非難がましくさえある目で私を見ている。
「え、何?私、そんなにおかしな事言った?」
戸惑いながら尋ねる私に、しばらくの沈黙のあとで小妙が口を開いた。
「ううん。別におかしくはないんだけれど、ちょっと意外だったというか。普段、佳穂を見ていて夫君のことを好きで好きで仕方がないんだなぁって思っていたものだから」
「そう?」
「ええ。だって、ちょっとでもお姿を見かけると、すごーく嬉しそうな顔をして手を振ったりするじゃない? だから、ものすごく好きなんだろうなぁ、って……」
「あれは半分癖みたいなものというか」
私が言うと、三人はまた顔を見合わせた。
「信じられない……」
「鎌田さまがお可哀想……」
「でも、殿方って意外とこういう情の薄い感じの女子が好きだったりするのよ」
浅茅さままで一緒になって、妙にしみじみと言う。
「情が薄いって……失礼な。そんな風に言ったら、私が正清さまに愛情がないみたいじゃないですか」
「でも、鎌田さまに他の女性がいるって考えただけで悲しくて悔しくてたまらなくなったり、少し会えない日が続くと寂しくて不安で眠れなかったりって言うのはないんでしょう?」
千夏がしつこく絡んでくる。
「そんなの本当に好きじゃないのよ」
そう言えば、以前に槇野にも似たようなことを言われたことがあったっけ。
確か『好いても惚れぬ』だとか、可愛げがないとかなんとか。
そもそも「好いている」と「惚れている」はどう違うっていうのかしら?
本当に好きってどういうこと?
黙りこんでしまった私を見て、浅茅さまが笑いながら
「まあまあ。佳穂どのはまだ子供なのよ。夫君のことも兄上を慕うようなお気持ちでいるのでしょう。そう責め立てるものでもないわ」
と、とりなして下さったけれど、あまり嬉しくはなかった。
「そうね。佳穂も十三の年に鎌田さまと結婚したんだったものね。 恋だの愛だのと考えるより先に定められた人と一緒になって、どこが好きかなんて考えてる暇なかったわよね、きっと」
千夏が変に納得顔で言う。
確かにそうかもしれない。
千夏たちが暇さえあれば、しょっちゅう話しているように、「どんな殿方が好きだ」だの「こんな風な恋をしてみたい」だの。
そんな事を考えたこともないうちに、私は正清さまと出会って、その妻となって……。
今日まで、自分がどういう殿方が好きだとか、ましてや正清さまのどこが好きかなんて考えてみたこともなかった。
でも、それは世間で言ったら情が薄いっていうことになるのかしら。




