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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第六章 慟哭
116/122

116.七条朱雀

義朝に、

「父上と弟たちはこの義朝が此度の恩賞と引き換えてでも必ずお許し願います。しかし、何かと人の口も煩いですからほとぼりが冷めるまでしばらく都を離れてお過ごし願えませんか。その為に東山にちょうどよい庵を用意いたしました」

と言われた為義は、

「そうか。色々と世話をかけてすまぬな」

と穏やかに微笑み、正清が用意した輿車に乗った。


義朝はそれを見送ると、たまらない気持ちで昼間から常盤御前の局を訪れた。

こんな時に心を安らがせてくれるのは、常に気高く凛とした由良御前ではなく、たおやかでひたすらに優しい常盤御前の方だった。


しかし、西北の対に行き、

「父上だ!」

「父上がいらっしゃった!!」

 はしゃぎながら飛び出してきた今若と乙若を見た瞬間、堪えきれずに涙が溢れ、義朝はその場に膝をついて嗚咽をもらした。


 秋の日はすぐに暮れた。

 正清は朱雀大路を下り、東山ではなくいったん南に抜けてそこから一路近江を目指すつもりでいた。

 

 正清は為義を斬る気は毛頭なかった。

 最初に進言した通り、為義を連れ、東国へと下るつもりだった。

 義朝にも告げていない。


 義朝は今でも正清が今夜、東山に連れ出した為義を斬ると思っている。

 だが、それは出来ない。

 自身の感情は置いておいても、普段は強がっていても本当は情け深く気の優しい義朝に、実の父親を殺したという生涯の重荷を背負わせるわけにはいかないかった。


 為義を斬ると名乗り出た時から覚悟を決めていた。


 為義を東国へ逃す。そのうえでかねてから探させて用意しておいた死んだ老人の首を為義のものとして朝廷に差し出す。この時代、寂れた西の京の外れや鴨川の河原を探せば行き倒れの遺体などいくらでもあった。

 もちろん、そのまま差し出してはすぐに偽物だとばれる恐れがある。


 だから為義を討ったあと、首を持ち帰る途中で為義の兵の残党たちに襲われ首を奪われてしまった。数日かけて相手の隠れ家を突き止め、なんとか取り戻したがその間に首が腐敗して見分けがつかなくなってしまったということにする。


 そして、正清自身は主君を討った償いとして自害する。


 義朝の一の側近であり乳兄弟である自分がそうまですれば、まさか為義の首を偽物と疑う者はいないだろう。

 為義は無事に生き延び、今後、追捕の手に脅かされることもない。


 義朝は見事、勅命を果たし、今後ますます栄達を重ねていくことだろう。

 かねてからの悲願である、武門の長として平氏の威勢を凌ぐ日もいつかきっとやってくる。それでいい。

 

 為義の供をして東国へ行く郎党たちは、信頼の出来る精鋭を選び、後の事もよくよく言い含めてある。


 心残りなのは妻の佳穂のことだった。

 家を出てくる時の不安そうな、泣き出しそうな顔を思い出すと胸が痛んだ。


 幸い、義朝の正室の由良御前は佳穂のことを気に入っている。

 自分亡きあとも何かと気にかけて下さり、あれが実家へ無事に帰れるようにとりはからって下さるだろう。心配はいらないはずだ。


 正清はそっと腰の佩刀を確かめた。

 いつもは出かける前に佳穂が太刀置きからとってきて両手で捧げるようにして手渡してくれるのを、今朝は自分でとってきた。


 今日、これから自分はこの太刀で自らの命を絶つつもりだった。その太刀に佳穂の手を触れさせたくなかった。

 知ればあれはきっと、自分が手渡した太刀で俺が死んだことで悔やむだろう。


 その時、がたりと音がして輿車が止まった。


 場所は七条あたり。夜で人通りは少ないとはいえ朱雀大路の真ん中で止まっていては人目に立つ。


「いかがした?」

 正清が尋ねると、輿を引いていた男たちが

「入道どのが……」

 と困惑した様子で言った。


 車を止めさせたのは為義のようだった。

 正清は輿に近づいて、物見の窓を小さく叩いた。引き戸が開き、中から為義が顔を見せた。

「大殿。いかがなさいました」


「もうここで良い」

 為義は静かに言った。

「正清。そなたはわしを謀っておったな」

 

 正清は、はっとして為義の顔を見た。

「子どもの頃からそなたは嘘のつけない子だった。顔を見ればすぐに分かる」


「何を仰せられます」

「朝廷からの命は、わしの首を斬れと──そういう沙汰だったのであろう」

 正清はその場にひれ伏した。


「ご明察の通りです。しかし、ご安心下さい。この正清が命に替えても大殿を無事、東国まで送り届けまする。亡き父にかわってこの身に替えても大殿をお守り致します」


 為義はゆっくりと首を横に振った。

「そなたの死に場所はわしの側ではないであろう」


 そう言って為義は、輿車の榻を置かせると、御簾をかきわけて降りてきた。

 「そなたが居るべきは義朝の側だ」

 正清の前に立つと為義は言った。


「あれは何の為に此度の戦を戦った。親兄弟を敵にまわし、お気の毒な新院に弓引いてまで得たかったものがあるのであろう」

「それは……」


「今、それが手の届くところにある。だったら何を躊躇うことがある。迷わずそれを獲れ。上を見て駆けよ。この父の死に躊躇うな。それくらいならば、何故一人道を違えることを選んだ」


 正清は膝をついたまま為義を見上げた。

「自分の選んだ道を信じよ。悔いて振り向いてはならぬ。野望は魔物だ。弱気を見せれば食い殺されるぞ……そう義朝に伝えよ」


 為義の声は静かだったが、それだけにまるで神の託宣のような厳かな響きがあった。


正清はその威厳に圧倒されながら、懸命に口を開いた。


「は。必ずや我が殿にお伝えいたします。しかし、何はともあれ大殿は東国へとお向かい下さい。我が配下の者たちがお供いたします。その後のことはこの正清がしかと沙汰いたしますゆえご案じ召されませぬよう。我が殿が朝廷からお咎めを蒙ることは断じてありませぬ」


「……身代わりを立てると申すか」

「恐れながら」


「それでそなたはその身代わりの首に殉じて死のうというのか。ついた嘘を真実にするために」


 正清の全身からどっと冷や汗が噴き出した。

「それは……」


「図星か」

「いえ、左様な事は」


「誤魔化さずともよい。そなたは本当に嘘がつけぬ」

為義は笑って正清の背を叩いた。


「大殿、某は……」

「よい。もう良い。そんな顔をするな」

 為義は優しく微笑んだ。


「なぜ、そなたの考えが分かったと思う?」

 答えれば為義の言っていることを肯定することになってしまう。

 しかし認めてしまえば為義は決して一人、東国へ逃れることを承知しないだろう。

 黙ってうなだれる正清の頭上から為義の声が降って来た。


「簡単なことだ。通清だったらどうするであろうと。そう考えたらすぐに分かった。あれが生きておって、そなたの立場だったらやはり同じことをするだろう、とな」


 正清は唇を噛んだ。

 顔をあげて為義の顔を見たら、子どものように泣いてしまいそうで足元の地面をじっとみつめていた。


「色々とすまなかったな。礼を言うぞ、正清」


 次の瞬間。シャリッっと太刀を抜く音がした。

「大殿……!」

 まわりの男たちが声をあげる。

 正清がはっと顔を上げた時には、すでに為義はその太刀を深々と自らの首筋に食い込ませていた。


「大殿!」

 飛びついた正清の腕のなかに、為義はがくりと倒れ込んだ。赤い血が刀身を伝って溢れ、正清の直垂の胸を濡らす。


「大殿! しっかりなさって下さい。何故このような……!」

 為義のからだは驚くほどに軽かった。正清が血の噴き出す傷口に袖を押し当てると為義は目を見開き、低く呻いた。


「こんなところで、そなたを死なせては……あの世で通清に申し訳が立たぬ」

 掠れた声で為義が言った。


「義朝を頼む。あれにはもはや、そなたしかおらぬ。わしには最後まで、通清がおってくれた。……そなたも、最後まで……義朝のそばに……頼んだぞ」


声が途切れると同時に、腕のなかの体がふいに重たくなった。


「大殿! 大殿!!!」

 正清は為義の体にすがりついて揺すぶった。

 為義の手から力が抜け、だらりと下に垂れる。刻一刻と冷たくなってくる体を抱きしめて、正清は為義の名を呼び続けた。


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