100.明け方の夢
明け方の夢
──いつもの朝の光景だった。
お目覚めになった正清さまにお手水をさしあげて、お召替えのお手伝いをして朝餉の御膳をさしあげる。
朝餉をとりながら、給仕をしている私の方をちょっとご覧になって、「今宵は宿直になる」だとか「夕刻に一度もどる」だとか、みじかくその日のご予定をつたえてくださるのが正清さまのいつもの習慣だった。
お出かけになる正清さまに、太刀置きから太刀をとってきてお渡しするのは私の役目だった。
「お気をつけていっていらっしゃいませ」
そういって、両手で捧げるようにお渡しすると、小さくうなずかれて太刀を受けとり、
「では行ってくる」
と、仰せられてお出かけになるのがいつものことなのに。
正清さまは私の捧げもつ太刀に手を伸ばさずに、こちらに背を向けてしまわれた。
「殿?」
お声をかけても振りむかずに歩きだしてしまわれる。
「殿、あの、太刀をお忘れにございます」
呼びかけても、返事もなくどんどん遠ざかっていってしまうお背中をみて、私は慌てて追いかけた。
「殿、お待ちくださいませ。殿!」
けれど、どんなに懸命に走っても、ゆっくりと歩いている正清さまのお背中がいっこうに近づいてこない。
「殿、お待ちください。待って……!」
声をかぎりに叫んでも、振り向いてくださらない。
腕の中の太刀が重い。追いつきたいのにうまく走れない。
はらはらと雪が舞い始めた。
秋のはじめの今ごろに雪なんて……。
いぶかしく思ううちに、舞い散る雪にまぎれて正清さまの背中が見えなくなってしまう。
途方に暮れながらとぼとぼ歩いていた私は、なにかに躓きそうになっておどろいて立ち止まった。
足元に目をやった私は息をのんだ。
割れた食器や折れた高坏、壊れた御膳が転がっている。
その下に、赤黒い染みが広がっている。
生臭い匂いが鼻をつき、それが血だまりだと気がついた私は小さく悲鳴をあげた。
腕のなかの太刀を抱きしめて後ずさる。
けれど、血だまりはどんどん広がっていき、あっという間に私の足元にまでたどりついた。
裸足の指先を赤く染めたそれは、なおも流れ続けて、私の足首まで呑み込もうとしている。
「いや……」
逃げ出したいのに、足をとられて動けない。
雪はどんどん激しくなってくる。
目の前が真っ白になり、どこへ行けばいいのか、どこから来たのかももう分からない。
真っ白な世界のなかで、じわじわと広がっていく血だまりで、私は正清さまの太刀を抱きしめたまま呆然と立ち尽くしていた。
気がつくとあたりは真っ暗で、私は褥のうえに寝かされていた。
一瞬、今がいつで、ここがどこなのか分からなくなったがすぐにいまの状況を思い出した。
「正清さま……っ」
そうだ。
戦場で正清さまが行方知れずになったという知らせを七平太からきいて、そのままきっと気を失ってしまったんだわ。
起き上がろうとして、薄い板戸をへだてた隣りの部屋でぼそぼそと人の話し声がするのに気がついた。
低くひそめてはいるけれど、ひとつは紛れもなく槇野の声だった。
どうして四条の家にいるはずの槇野が三条坊門に? やっぱりまだ夢の中なのかしら。
もうひとつは男の人の声だった。
(致高さま……?)
そういえば今回の戦のために上洛なさっていたんだっけ。
槇野らしき声がぼそぼそと何か話している。
「もし……さまが……この先……」
話のなかに正清さまのお名前が聴こえた気がして、私は半身を起こした。
くらりと眩暈がして、もう一度倒れ込みそうになったけれど何とか手をついて支える。
板戸のむこうのふたりは、しきりに何か話し合っている。
膝でいざるようにして戸に近づいてみると、ふたりの話し声が聞こえてきた。
「私はねえ、これも宿世というものではないかと思うのですよ」
女の声はやはり槇野のものだった。幼い頃からずっとそばで聞いて育ったのだもの。間違えるはずがない。
「姫さまにはねえ、それはもうおいたわしいこととは存じますが、それもねえ……。武家の妻となられた以上は仕方のないことではありますし」
──え……。
全身からすうっと血の気がひいていく。
それって……。
「姫さまは殿のことをそれはもう、どこが良くてそこまで、と不思議なほどお慕い申し上げておりましたからねえ……。しばらくはお気落ちなさいますでしょうねえ……」
──正清さま……!
ふたたび気が遠くなりかけたその時。
「いや、まだ死んだって決まったわけじゃないだろ。遺骸が見つかったわけじゃないんだし」
致高さまの声が私の意識を引き戻した。
「たしかに戦場のどこを探しても今のところ見つからないみたいだけどさ。逆にあれだけの人数が参加した戦の最中で死んでたら見つからないわけがないと思うんだよな。敵に討ちとられたんだとしたら、一応は名のある武将なわけだし。討った相手も名乗りのひとつも挙げるだろう。それを聞いた者もいないってことは……」
「でも、鴨川に転がり落ちて流されておしまいになったという話も聞きましたけれど……」
致高さまのお声が槇野をさえぎる。
「ああ。だからあっちの郎党だとか、こっちも一応、姻戚なわけだからさ。川べりとかずっと探したんだよ。でも見つからなかったし」
「鎧の重みで沈んでしまわれたのかも……」
「まあ、それもあり得るけど……っていうか、槇野。おまえ、そんなに佳穂の旦那を殺したいのか」
「まあ、滅相もございません。姫さまの御ためにもどうにかして無事にお戻りいただければと思うております。……けれど、そうでない場合、いつまでも生きておいでか、それとも亡くなっておいでか分からない夫君を待ちつづけて空しく歳月を過ごされるというのも、乳母としては姫さまがおいたわしくて。致高さまはそうは思われませぬか?」
「それはまあ……そうかもな」
「そもそも私はこの縁談には反対だったのです。姫さまはあのようにおっとりと呑気なお育ちです。本来ならば、生まれ育った野間の里で、姫さまおひとりを生涯の妻としてたいせつにして下さる方のもとへ嫁いで、心のどかにお過ごしになるのがふさわしい方なのですわ。なのに、こちらに来てからは北の方さまのご命令だとかで馴れないお邸づとめには駆り出されるわ、あちらのお家のゴタゴタやら、殿の浮気沙汰に悩まされてばかりで上洛以来、お心の休まる暇もない日々……。この槇野はひそかに心を痛めておりました」
「そうだったのか……」
致高さまの沈痛な声。
「ええ。そうした矢先に今回のこの次第でございましょう。槇野には何やら神仏のお導きのようにも思えてならないのです。ですから、この際、亡き御方の菩提は菩提としてきちんとお弔いをして、折よく……と申しては憚りがありますけれど、ちょうど長田の大殿さま、若殿さまが京にいらっしゃる時だったというのも、思えば奇しきご縁にございます。かくなるうえは、この機会に父君さまがたとご一緒に野間の里にお戻りになって、お心の痛手を癒されて、そうしてまた新たなお暮しを始められるというのも……」
「……まあな。それも一理あるかもな。俺も最初からあの旦那じゃ佳穂は幸せになれないような気がしてたよ」
私は力まかせに板戸を開けた。
バアンッという思ったより大きな音がして、「ひっ」「うわっ」槇野と致高さまが目を剥いてこちらを見た。




