10.若菜
久安六年(1150年)1月
年明けて、久安六年。
その年は、主家である河内源氏にとっても、それから私自身にとっても、運命が大きく変遷した年だった。
一月のある日。楓と数人の侍女たちと一緒に、邸の南側の斜面に広がる野原で若菜を摘んでいると、街道の方から土埃をたてて一騎の若者が駆けてくるのが見えた。
「御方さまー!御方さまー!」
その声で、正清さま付きの従者の、七平太という少年だということが分かる。
少年、といっても私と同い年ということだったから年明けて十五にはなるのだけれど。
私は若菜を入れた籠を抱えたまま、立ち上がって手を振った。
「ここよ」
七平太は、まっしぐらにこちらへ向かって駆けてきた。
そのまま勢いあまって、私のいる場所を通過して、そこで馬を下りてから小走りに駆け寄ってくる。
「すごい勢い。蹴り飛ばされるかと思ったわ」
笑いながら言うと、
「そんな事をすれば私が殿に殺されてしまいます」
快活に言って、思い出したように膝をついた。
「本日は殿の先触れで参りました。御方さま、おひさしゅうございます!」
「いつも、ご苦労さま。……って先触れ?お使いではなくて?」
「はい!今日は御文のお使いではなく、先触れのお役を賜って参りました!もう半刻もすればおっつけ殿も参られましょう。いや、此度は御方さまのがっかりするお顔を拝せずにすみました!」
「馬鹿ね」
私は頬を染めて言った。
「いつも、がっかりなどしていません」
つんとしていようと思ったのに、自然と顔が綻んでしまう。
「おや。左様でございますか。それがしはいつも、御文をお預かりして参りましたと申し上げる度に、今にも泣き出されそうな御方さまのお顔を見るのが辛さに、最近は御文使いを引き受けるのが憂鬱になってきておったのです。今日は久方ぶりに良い使者になれて気が晴れました」
「まあ!嫌な人ね」
私は七平太を軽くにらんだ。
「もしかして、使いから帰る度に殿に余計なことを申し上げてはいないでしょうね」
「それがしはただ、この目で見たままをいつも申し上げているだけでございます」
「もう!」
七平太を睨みつけて、私はふと彼が着ている直垂に気がついた。
二藍のその色の生地には見覚えがあった。
「それ。着てくれたのね」
そう言うと、慌てたように七平太は平伏した。
「こ、これは……!御礼を申し上げるのが遅れ、申し訳ございませぬ !このような結構なお品を賜り、なんと御礼を申し上げて良いものか……っ」
「いいのよ。思った通りよく似合うわ」
それは、私が正清さまのご衣装を縫うついでに七平太用に仕立てた新年の衣装だった。
自分の作品の出来を確認したくて、ついまじまじと見つめると、今度は七平太が首まで赤くなった。
「そ、その このような立派な衣装、それがしのような者には不似合いではございませぬか?朋輩にも、さんざん冷やかされまして…」
「不似合いなんかであるものですか。あなたには二藍の色がよく似合うと思ったのよ。良かったわ。袖の長さもぴったりで。軍記物語に出てくる凛々しい若武者みたいよ」
本当は軍記物語なんてまともに読んだことはなかったけれど、私はにっこりして請合った。
「恐れ多いことでございます……!」
「いつも暑いなか、寒いなか、こんな遠いところまでお遣いをしてくれる御礼よ。気にいって貰えたのなら良かったわ」
「気に入るなどと、もったいない!身に余るお心遣いを賜り、何と申し上げてよいのか……」
「もういいったら」
私は笑って、七平太に立つように言った。
「それより殿がもうすぐおみえになるのでしょう?館まで乗せてかえってちょうだい。
長旅でお疲れでしょうから、お着きになる前にお湯殿の支度や、お着替えも用意しておきたいし」
一緒に若菜摘みをしていた楓たちに籠を預けると、私は七平太の馬の鞍の前に乗せて貰って館へと戻った。
館に戻って、ご来訪を告げると槇野が、万事心得たように侍女たちを指図してお湯殿の支度をさせ、夕餉の御膳と、供の方たちをお迎えする部屋の用意までてきぱきと始めてくれた。
「ここはこちらでいたします。姫さまはどうぞお召替えを」
そう言われて私は、部屋に戻ると手早く着替えをして、髪を梳きなおした。
鏡を見てみると、我ながら気恥ずかしくなるくらい嬉しそうな顔をした自分が鏡の中から笑いかけていた。
淡い紅梅色の袿は、新年の為に仕立て下ろしたものである。
(殿にお見せ出来ないんじゃ張り合いがないと思っていたんだけど…良かった)
薄く白粉をはたいて紅を引き終わると、ちょうど楓が部屋にやって来た。
「そろそろお着きでございますよ。お出迎えを」
言われて私は邸の表門へと向かった。
やがて、緩やかな上り坂を、葦毛の馬に跨った正清さまが上がってくるのが見えた。
いらっしゃらない暮らしがもう当り前になっていたとはいえ、お姿を見るとやっぱり嬉しさがこみ上げる。
お顔の見える距離まで近づいてみえると、正清さまはこちらに向かって軽く手を上げられた。
「お帰りなさいませ。道中、お疲れさまでございました」
深々とお辞儀をして頭を上げると、正清さまが軽やかに身を翻して馬から降りられるところだった。
「久しいな。息災であったか?」
よく日に灼けた笑顔と、低く響くお声が懐かしくて、危うく涙ぐみそうになる。
慌てて瞬きを繰り返して涙を押し戻すと、私はにっこりと殿に微笑みかけた。
「はい。殿もお変わりなきようで何よりにございます」
まずは、旅の疲れを落としていただくようにお湯殿をお勧めする。
「お疲れさまにございました」
湯殿から上がられて、約半年ぶりに夫婦の居間に座られた正清さまに、私は指をついて頭を下げた。
差し上げた御膳に膳に並べた小鉢は、いずれも自分で台盤所にたって整えた品である。
お湯殿を使っていただいている間に急いでしたものだから、大した手間のかかったものは出来なかったけれど。
「こちらの若菜のお浸しは先ほど、摘んできたばかりですのよ」
「うむ」
無造作にお箸で口に放り込んで、正清さまは頷かれた。
湯上りの衣には、こちらも真新しい薄青色の小袖を着ていただいている。
「新年の衣装もわざわざ鎌倉まで送って貰いすまなかったな」
「いえ。拙い針のあとでお恥ずかしゅうございます」
私は、頬を染めてうつむいた。
離れている間は、さほど寂しいとも思わなかったのに、正清さまがそこにそうして座っているのを見ると、自分でもどうかしたのではないかと思うほど、嬉しさがこみ上げてきて、ついつい顔が緩んでしまう。




