その者、薔薇と情熱の使者につき
余りにストレスが溜まったのでムシャクシャしてやった。後悔はしていない。
ただ設定が甘いのでツッコミがありましたらお手柔らかに。
落書きなので流し読み推奨です。
紅薔薇の国の辺境伯には悪食の気がある。と実しやかに流れる噂は、暇を持て余す貴族たちの中で好まれる話題の一つだ。
なんでも子供らの通う学園内から、はたまた領地、国までをも巻き込むような問題を引き起こし、醜聞に塗れ咎を持つ乙女らを引き取って回っているという。悪女と呼ばれ周囲から孤立し迫害を受ける少女から、国に関わる問題を引き起こしたとして国外追放の重罰を言い渡された少女まで、とにかく嫌われ唾棄される少女たちをその辺境伯は自らの屋敷へと連れ帰っているらしい。
その連れ帰られたほとんどが王族や有力貴族と婚約をしていたというご令嬢方で、大変に見目麗しいときた。その為、噂はどんどんと膨れ上がり、憶測が偽りの真実となり、尾鰭が付きに付いた結果、『悪の花を好む色狂いの辺境伯』と何とも不名誉な通り名を付けられるに至った。そして辺境伯の噂はこう締めくくられる。
『辺境伯は領地内に黒薔薇の後宮を作るつもりらしい』と。
裏寂れた国の外れの街道を黙々と進む少女がいた。
街道といっても、随分と昔に旧街道と相成った、忘れ去られたような荒れ道である。通る者が減った代わりに無法地帯と化し、罪人や国を追われた者が住み着く荒れ地を通る頼りない一本道。その道の先々で目に付く元は町だったものが、この街道の持つもの悲しさを増長させていた。そんな道程に少女はいたのだった。
石でも投げられたのか質素なドレスはところどころ破れ、土で汚れている。よく見れば破れた箇所から覗く肌には血が滲んでいた。薄汚れてはいるが、それなりに上質の生活に浸っていたのだろうと推察できるほどに肌は白く美しい。だからこそ、僅かな傷から滲む血が一層映えて目にうつる。
血の気の失せた顔は、ともすればすぐにでも倒れてしまいそうな程生気がない。しかし、強く意思を秘めた双眸は曇ることなく前を見据えている。彼女には行くあても、目的もないというのに、その目はただ爛々とした光を宿していた。
本来艶を持ちふんわりと広がる緩くウェーブのかかったミルクティー色の髪には埃が付着し、しばらく手入れをされていないのだろう、ところどころ絡んで色がくすんでいる。時折吹く乾いた砂の混じる風が悲し気に髪をなびかせる。
眼前を覆う長い髪を、鬱陶しそうに払いのけた彼女にいつの間に現れたのか、妙に身なりのいい男性が声をかけた。
「ねえ君、私のところに来る気はないかい?」
にこにこと、胡散臭い笑みを浮かべて軟派に話しかける男は、少女の前に立ちはだかる。しかし、少女は臆することなく、まるで道端に落ちている石を避けるかのように、平然と男の横を通り過ぎて行った。
細く白い脚は、本来このような整備も完全でない道を歩くには適していないだろうに、少女はふらつくこともせず、歩き続ける。耳に届いたはずの男の声など気付かなかったとでも言いたげに、男を振り返ろうともしない。
そんな冷めた対応をされた男は、怒り出すでもなく、呆れかえるでもなく、楽しそうに目を細めた。そして、踵を返し少女を追いかけるべく歩きはじめる。男と少女の健康状態と体格さも相まって男はすぐに彼女のもとにたどり着いた。
並んで歩いているのに気が付いていないはずがないのに、少女は相変わらず前を向いたまま、男をちらりとも視認しようとしない。これは手強そうだ、と思いつつ男は口を開いた。
「こんにちは、お嬢さん。私の話を聞いてほしいのだけど」
先程よりもにこやかに、かつ爽やかに語り掛けた男の声へ反応はない。かわりになのか、空の高いところで一羽の鳶がぴーひょろひょろと間抜けな声を上げた。
「ねえってば。聞こえてるでしょ?」
それでも挫けずに男はしゃべり続ける。形のいい唇は優しく弧を描き、榛色の瞳を眩し気に細める表情は場所が場所なら淑女の視線を一身に集めただろう。しかし、今目の前にいるただ一人の少女は一瞥をくれることはなく、熱い視線は埃っぽい空気の中で黄色く輝く太陽からしか向けられない。
「ちょっとちょっと無視しないでよ」
さすがにむっとしたのか、拗ねたような口ぶりで男は言葉を重ねる。少女の眼前に手のひらを翳し、ひらひらと揺らめかせても、彼女の歩みが緩まることはなかった。はて、どうしたものかと芝居がかった仕草で腕を組み眉を寄せる。
男の力でなら無理やりにでも少女を捕え、強制的に歩みを止めさせることもできる。にもかかわらず、彼はそうしようとはしなかった。
「麗しいお嬢さん」
この場にそぐわぬ情熱的な響きでかけられた言葉に、一瞬少女の目が見開かれる。男の変化球は見事、少女のストライクゾーンを、僅かではあるが掠ったらしい。
しめた、と顔をにやつかせ男は歯の浮くような言葉を連ねる。一言ひとことに動揺を見せ、落ち着かない様子を見せる少女は、緩やかに歩みが遅くなっていることに気が付いていない。
だが、腐っても矜持の高い血筋の娘。惜しみなく向けられる賛辞の言葉が十を数えた頃には、目は毅然と前を向いており、歩く速さこそ遅くはなったものの、よどみなく足は動き続けている。
「美しい女神」
だいぶ、語彙も尽きてきたのか男も男で苦心して言葉を紡ぐ。ここがもう少し雰囲気のある場所で、それなりに空気を作れていたのなら、彼の口からは止まることを知らない泉のように甘い言葉が溢れていただろう。現状は、荒れて石が点在し、至る所に草が生え、誰のとも知れぬ靴や荷物の残骸が落ちているような、色めいた危険が潜むというより、命に関わる危険が潜む場所に二人はいる。
「僕のシンデレラ」
なんとか絞り出した言葉は、淑女を口説くにはどこか的外れに響く。動揺を見せることのなくなった澄ました横顔に、溜息が漏れる。今回はだめかもなぁ、と初黒星が点灯してかけている状況についぼそりと、悪態が口から零れ落ちた。
「お前のお母様でーべそ」
「……なぜお母様の秘密を?」
柔らかで耳に心地いい声が鼓膜を揺らす。市井のいじめっ子ですら使わないようなからかい文句に、今まで沈黙を守っていた少女が声を上げたのだ。そして、初めてそのあたたかなオレンジ色に薔薇色を溶け合わせたかのような美しいローズピンクの瞳に男を映したのである。
「あれ?当てちゃった?」
予想外の言葉に驚いたのはなにも少女だけではない。下らない言葉に予期せぬ反応を得られた男も驚いていた。半笑いになりながら、足を止めた少女の前に回り込みそう尋ねる。
その言葉に、男が何気なく言っただけの言葉だということに気が付き、少女はあからさまに顔を顰めた。不機嫌を隠そうともしない表情に、男はつい吹き出してしまった。
「失敬失敬。いやしかし爵位持ち生まれの淑女は、そう簡単に顔色を変えてはいけないものだよ」
「もう私を淑女として見てくれる方はいませんわ。あの家にはもう私の籍はありませんもの」
笑う間に絶対零度の眼差しへと変化した少女の双眸を認めて、男はこほんと咳払いをして取り繕う。少女は無視をすることを諦めたらしく、大人しく立ち止まったまま頭一つ半ほど高い男の顔を見つめながら、呆れたように言葉を返す。
淡々と事実を話す少女からは明らかな諦念が見て取れる。年若い少女が浮かべる表情にしては、堂に入った憂い顔で、彼女が若い身空で苦労してきたことが容易に窺い知れた。
「まぁな。でお嬢さん、先程の提案にイエスを返してくれないかい?」
苦笑を滲ませつつ男は否定することなく、話を続ける。こうして面と向かって話している今がチャンスなのだ。彼女の身の上話は提案を受け入れてもらってからなら、いくらでも聞くことができる。
そういう打算があって、男は少女に最初に話しかけたときに伝えた提案への返答を急いた。
「おかしな人。本気で仰っているの?ウェーリア皇国を裏切り、ただ一人逆賊の誹りを受け、皇太子のお優しいご婚約者様の温情により処刑だけは免れた元婚約者であり、非情の薔薇と呼ばれているエリザ・ローズがこの私だとわかって仰っているのなら正気を疑いますわ。こんな不良債権古今東西探しても滅多に見られないでしょうけど、奇を衒うより素直で愛らしいお嬢様を探す方が賢明ですわ。若い乙女を求めていらっしゃるのなら他をあたってくださらない?」
それに驚きと不信感も露わに、少女――エリザは答える。自嘲をふんだんに含んだ自己紹介のあと、ふんと鼻を鳴らして、居丈高に胸を反らし、威嚇するように男を睨み上げる。
唐突に現れて、知ったような口を利く怪しい男。そんな男に差し出された、家も家族も故郷すらも奪われたばかりの少女に対する温情。これを神が与えたもうた最後の希望なのかもしれない。
けれどもし、この希望に縋った結果、再び絶望を見ることになったら己はどうなるのか。今はまだいい。一度目の絶望からならまだ立ち上がれる。行く先はないが、泥をすすってでも生きようとエリザは思っている。しかし二度も絶望の底に落とされるのはごめんだ。きっとどれだけ気丈に振舞おうとも、おそらく精神が壊れてしまう。
その恐怖心からエリザの腰に当てた手が小刻みに震えていた。その震えに気付いた男の目には、これ以上何か奪われてはかなわない、と彼女が虚勢を張っているようにしか見えなかった。
「非情の薔薇か〜。いいねぇ。私の国は別名紅薔薇の国と呼ばれているから君みたいな子はぴったりだよ。エリザ嬢」
沈鬱な空気にもなりかねない状況の中、男は敢えて明るい声を出した。まるで、エリザの憂いを一蹴するかのように。
彼女につけられた不名誉な名を否定するのではなく、好意的に受けとめているような言葉にエリザは目を数度瞬く。そして続けられた紅薔薇の国、という単語に反応を示した。
「もしかして、あなた……」
「おっ、さすが社交界の華としてここ数年ウェーリアに名を響かせていただけあるね。そう私は紅薔薇の国、もといヴェスヴィウスローザの辺境伯さ」
半ば確証をもって、エリザが口を開けば、すんなりと男は肯定を示す。
ヴェスヴィウスローザの辺境伯。彼の表向きの話題は若いご令嬢方の中ででもちらほら出る。理知的で頭の回転が早く、若くして辺境伯の爵位を与えられた美しく聡明な紳士。女性との浮名は多いものの、誠実な性格をしており、むしろ一夜の相手としてでもいいから彼と近付きたいと思う妙齢の淑女たちが後を絶たないという。これらが一般的に伝えられる彼の表向きの噂である。
そしてその噂話に興じる人々の年齢層が上がるとともに、不穏な言葉が飛び交いはじめ、どこから話が漏れたのか、彼が捨てられたご令嬢を拾い集める変人だと噂が変わっていく。
エリザが不快そうに眉を顰めたのを見て取り、男は後者の噂をこの年若いご令嬢が耳にしているのだと確信する。揶揄も含めてそう返せば、一度目をぱちくりとさせてからエリザは何かを考え込むように腕を組んだ。
「そう、あなたが」
「何か言いたげだね。言ってごらん」
じっくりと男を見てからぽつりとエリザは呟いた。意味ありげなそれに男は先を促す。
数瞬、悩んだような素振りを見せた後、エリザは真っすぐに男を見返した。
「いえ大したことではないのですが、かの辺境伯とはもっと粗野で変態じみていてその上、胸焼けを起こしそうな気色の悪い男性のイメージをしていましたから。想像との違いに驚きましたの」
健康状態さえよければ、ふっくらとして愛らしい唇から転がり出たのはとんでもない言葉だった。男は唖然として開いた口が塞がらない。
なんとなく裏の噂の内容から、自分と面識のない人物からしたらそう言った愛欲に溺れた下品で変態じみた男を想起するのも無理はないと男は思っている。そう思ってはいるのだが、当人を前にしてこうも明け透けに言うような女性がいるとは思わず、面食らってしまう。
「……君、ヴェスヴィウス辺境伯をなんだと思ってるの…」
「若い元ご令嬢たちを囲う色魔」
「ひどい!」
「ふふっごめんあそばせ」
がっくりとうなだれ、ぼそぼそと言葉を吐き出せば、エリザの口から鋭い凶器のような言葉がすかさず飛んでくる。あまりの言われ様に声を荒げれば、エリザはどこ吹く風でころころと笑って軽く受け流す。
自身よりも若い女性にこうも軽くあしらわれるのは、男にとって初めての経験で、このやり取りだけで、エリザがどれだけの修羅場を潜り抜けてきたか知れるような心地だった。とはいっても、こうしてエリザが男の前にいる以上、彼女は最後の修羅場を無事潜り抜けることができなかったことに他ならないのだが。
「まあいいよ。とりあえず君の想像とは逆の、洗練された真っ当な人物な上、胸がときめくほど麗しい紳士だということが証明できたからね」
感傷に浸りかけている己を律するように、男は一度咳払いをしてから姿勢を正す。一方的にやられているのは性に合わないため、せめてもの仕返しにウインク付きでやり返す。それにエリザは器用に片眉を跳ね上げて、目を眇める。
「あら、いつの間に証明されたのかしら」
「君が言ったイメージと逆だったんだろう?それが証明さ」
勝利を確信した笑みで男はエリザを見つめ返す。屁理屈だと言われても、言い負かすための言葉を男は用意していた。大人げないと彼を嗜める者はここにはいない。
だから余計に彼は墓穴を掘っていた。
「まあ、あなた。都合のいい解釈をしないでくださる?逆だなんて言ってないわ。私はただ想像と違っていたとしか言っておりませんもの」
「広義に解釈したんだけどお気に召さなかったかな?じゃあ率直に辺境伯を目の当たりにした感想は?」
大袈裟に驚くふりをしたエリザが反撃に出る。全ては言わず、相手に答えを問いかけるよう促す喋り口は見事としか言いようがない。
その罠にまんまと引っかかった男は爆弾を引き当てるとも思わず、強気に問いかけた。
「軟派で紳士たる心得を持たぬ不届き者」
「なにそれひどい!」
「あと怪しげな人攫い、も追加しておいてあげますわ」
一度ためを作られたせいで、油断していた男にエリザの言葉は深々と突き刺さる。子供のように喚けば、エリザは冷淡な口調で言い募る。
「やめてよ!人を犯罪者みたいに!というか私程の紳士はなかなかいないと思うんだけど」
大人げなく声を大きくし嘆く男は、悔しそうに言い返す。その言葉を受けてエリザは無言で半目になり、男をじっと見つめた。
その眼差しは憐みの色が濃く、さらには嫌悪感も混じりこみ、見ているだけで精神的な傷を生み出す大層威力の強いものだった。その言葉のない責めに、男は早々に音を上げた。
「調子に乗って悪かったよ。でも、その自信過剰なところに虫唾が走りますわ、っていう目で私を見るのをやめてくれないか」
「辺境伯様は読心術も嗜まれていますのね。さすがですわ!」
渋々と白旗を上げた男に、エリザは年相応の可憐な笑みを浮かべて容赦なくとどめを刺す。
これは勝てそうにない、と男は肩を竦め片手で顔を覆う。蝶よ花よと育てられた王太子の婚約者であった少女だと、少々甘く見ていたようだ。彼女は名前が表す通り、鋭い棘のついた怜悧な薔薇であることは間違いなかった。
「本当にそう思っていたのか…。とりあえず紳士でないと言われたのは心外だ。指摘してくれれば直すから素直に言ってくれ」
「…まずお誘い中のレディをこんな荒野に立たせたまま、長話するなど言語道断ではなくて?」
紳士ではないと突き付けられたことだけは納得がいかず、男は真面目な顔でそう尋ねる。
尋ねられたエリザは意外そうに眼を見開いてから、やれやれと溜め息をつく。どこか様になっているその姿に、男は何を言われるのかと身構えた。
しかし、予想に反し彼女の言葉は普通の指摘であった。それに加えて、かなり遠回しではあるが、なにかを示すかのように意味深に聞こえる。
「え、それって…」
まさか、とは思いつつも男は中途半端に言葉を紡ぐ。どう聞き出せばいいか咄嗟に思い浮かばなかったからだ。その逡巡を察したのか、エリザが徐に口を開き、ゆっくりと言い聞かせるように話しだした。
「あなたみたいなおかしな人、私初めて見ました。しかし仮にも辺境伯という地位にある者。そのような国の要たるお方が一人、いつ荒くれ者が現れると知れない場所に一人でいるとは思いません。どうせ、どこかしらに馬車でも待たせてあるのでしょう?」
まあ、あなたが本物のヴェスヴィウス辺境伯であるのならば、ですけど。と付け加えられて、彼女は一旦口を閉じた。
都合よく受け取っていいのであれば、これは言外に提案への了承の意を示しているように男には感じられた。しかしここまでの会話を遡ってみて、どうしても彼女が自分について来るようには思えなかった。
男はこくりと唾を飲み込み、慎重に問いかけた。
「君、わかっているのかい?その馬車に乗ったら」
「まあ、全てを言わせるつもりですの?言葉にせずとも、意をくみ取り先導するのが紳士の行いだと思っておりましたわ」
その問いに、エリザは呆れたように笑って、棘のある言葉を交えつつも朗らかに答えた。最後まで明確な言葉こそなかったが、明らかに男についていく意思を示したのだった。
エリザから言質が取れてからの行動は迅速であった。これまた芝居がかった調子で辺境伯と自称する男が腕を上げ、指を打ち鳴らせば廃墟の陰から一見装飾の少ない小ぶりな馬車が姿を現す。しかし、それが近づけば細部に意匠をこらされた上等品であることが見て取れる。さり気なくヴェスヴィウスローザの紋章が扉や御者台に設えられ、わかる者にはすぐ、かの紅薔薇の国の権力者が乗車していることを示す作りとなっていた。
それなりに豊かな国であるウェーリア皇国においても馬車は重要な移動手段であり、エルザにとっても見慣れたものである。しかし、ウェーリアでは華美な装飾をよしとするきらいがあり、艶めいた黒に塗り上げられ、金を薄く伸ばした箔で豪奢に模様を描かれたものや、基調は黒でありながら情熱的な赤を扉から装飾までふんだんに取り入れたものまで、とにかく派手なものが多かった。それらぎらぎらした馬車は、正直エリザの好むものではなかった。自分自身派手な顔をしている自覚はあって、小さなお茶会であろうとも目にも鮮やかなドレスを選ばれ続けたエリザからすると、その馬車がまるでいつ何時でも無駄に飾り立てられる己を見ているようで苦手だったのだ。
馬車に対する複雑な感情を抱いているエリザの前に現れた馬車は、黒が基調であることはスタンダードなのだが、艶を出す処理は行われておらず、シックで落ち着いた色合いをしている。過度な装飾を用いず、見る者が見れば、一級品とわかる。そんな印象の馬車だった。
馬車に目を奪われている間に男とエリザの前に従者が現れ、恭しく扉を開ける。男は自然な動きでエリザに手を差し出しエスコートを申し出る。その場慣れした仕種にエリザも小さくカーテシーを取り、手を重ねた。
爵位の加護を剥奪されたエリザは比べるべくもなく辺境伯よりも立場は下だ。本来であれば、後に乗るべきであるのだが、紳士を名乗るだけあって男は先に乗車を許した。
馬車の奥に腰かけると、男もすぐに馬車へと乗り込んだ。小ぶりながらも、馬車内の空間は思ったよりも広く、横に並んで座ってもエリザと男の体が触れ合うことはなかった。そのことに、ほっとしつつエリザは動き出した馬車から外を見つめた。
国境付近の荒れ地に置いて行かれてから歩き続けたエリザが、数時間かけて進んだ距離を馬車はあっという間に駆けて行くだろう。車窓を流れる景色を眺めて離れ行く故郷をエリザは静かに想う。
決して嫌な思い出だけではなかった。最後が最悪だっただけだ。親しくしていた友人たちは私の罪に巻き込まれてはいやしないだろうかとか、自慢の家族たちはしばらくは不遇な目にあうだろうけれど優秀な彼らならすぐに家を建て直せるだろうとか、取り留めのないことを考えてしまう。
ふと視線を感じて、エリザは男を振り返る。果たしてそこには真摯な顔をした男がエリザを見つめていた。
「紳士は淑女の顔をまじまじと眺めることはしないと思うのだけど」
あまりに真っすぐに見つめられるものだから、ついエリザの口からは高飛車でかわいくない言葉が飛び出てしまう。普段からつんけんするようなことはないのに、今日に限ってはどこか箍がおかしくなってしまっているらしい。命の恩人と感謝すべき相手、さらには辺境伯という圧倒的な力を持つ男相手に対してとっていい態度ではないというのに。そうとわかっていながら、どうにもペースを戻せないエリザは小さな焦燥を覚えた。
「故郷のことでも考えていたのだろう?あまりに君の憂い顔が美しくてね。つい見惚れてしまった」
「…だから心を読まないでと言ったでしょう。それにそう簡単に、出会ったばかりの女性を口説くのは、紳士と言えないのではなくて?」
一瞬きょとりとした男は、次の瞬間声を上げて笑っていた。そんなに面白いことを言った気のないエリザは、ぽかんとしてしまう。
「いやいや参った、参った。私の口説き文句にそう返してくる女性などいなかったから、ふっ、ふふ、すまない」
殺しきれない笑いを口元に手を当て堪えようとする男に、エリザは驚く。ここまですげなく返す女性に怒ったり呆れたりはすれど、笑って受け入れる男性などいようとは思わなかったのだ。
歳はどう見積もっても十七であるエリザより十以上は離れているように見えるのに、衒いなく笑う男の顔は社交界や学院で親交のあった子息たちとそう変わらないように目にうつる。さっきはおかしな人、と評したけれど子供のように笑う男には不思議な魅力があり、掴みどころのない人だとエリザは思った。
「あの皇太子たちと渡り合ってきたんだもんな。認識を改めよう」
ようやく笑いがおさまったのか、男が落ち着いたトーンで話しかけてくる。
そうしていると、間違いなく落ち着きが身についた大人の男性であるのにつくづく不思議な人物だ。不思議と言えば、こんな利用価値どころか負債にしかならないような小娘を拾い上げ、領地に、言葉を信じるのなら屋敷に連れて行くと男は言っていた。彼は果たして何を考えているのだろう。貴族の中で噂として回っている男の裏の顔が、どうにも目の前の彼に結びつかない。
男はエリザが噂を知っているのに気付いている。けれど彼からはその噂の否定はされていない。それにいままさに元令嬢であるエリザはこうして辺境伯の馬車に乗り込み、領地へと向かっている。噂に準ずる部分と一致しないイメージ、そして不可解な問題のある令嬢ばかりを連れ帰る彼の思惑。どれもはっきりとはしない。
しかし、ただ一つはっきりしていることがあった。それはエリザが罪人であると国に判決を下されているという点である。噂の中では罪を持つ乙女をも引き取っているとされていたが、所詮噂は噂だ。国に捨てられたとはいっても、他国の要職につく人物について行ったとなれば話は別になる。下手すれば男の本国によってエリザではなく、彼自身が他国の大罪人を国に引き入れたとして、罪に問われかねない。そこから発展して国同士の問題になる可能性だってあるだろう。
そう思い至ったエリザの口は無意識に動いていた。
「……ところで辺境伯様、本当に罪人の咎を持つ私を連れて帰って大丈夫ですの?」
「心配?」
「ええ、だって私は………私は皇太子の愛を求めるがままに、平民の出ながら優秀な才を持つ少女をいたぶり亡き者にしようとした罪を背負っているのです。それだけならまだしも、その少女に懸想した皇太子を我が物にしようと王宮内で刀傷沙汰を起こした上、逆賊と繋がり手引きをしたという罪状もありますわ」
唇に傷がつくことも厭わずぎりりと噛みしめ、悲痛な面持ちを隠そうともしないエリザの瞳には強い翳が落ちている。先程まで一国の辺境伯を前にしても、堂々としていた少女とは思えない弱々しい姿であった。
事情を知らぬ者からすれば、エリザによる自身の罪の懺悔に聞こえるだろう。しかし、男にはそうは聞こえなかった。屈辱と恥辱をのみこんだ上で、血を吐く思いで己を貶める言葉を、何らかの力に強制され、口にしているように見えた。
「そうだね。それだけの罪を背負った少女を国に連れて帰るだなんて、常軌を逸した行動だと思うよ。しかも要職である辺境伯がそんなことをしただなんて醜聞どころか、自国で罪に問われかねない」
エリザと荒れた旧街道の上で話していた時には見せなかった、冷たく空恐ろしい剣呑さを湛えた光が男の目に灯る。すっと細められた双眸には、確かな怒りが燃えていた。視線を男から逸らしていたエリザの目に映らなかったのは不幸中の幸いだった。それ程にまで彼の目は恐ろしく、威圧的であった。
もちろんその怒りはエリザに向いているわけではない。少女の言葉を肯定しつつ、ついさっき彼女が考えていたことを男は言葉で言い聞かせる。その声にはひとかけらも憤りは感じられなかった。
「でもそれが本当に君がしたことでないとしたら?」
「…っ!あなたはどこまで知って……」
男の言葉にびくりと肩を震わせたエリザの姿があまりに痛ましくて、男の目からは怒りの色が薄れる。憐憫と慈愛とが入り混じるような色に変わった双眸で、男はエリザを見る。そして何でもない風に衝撃の一言を彼女へと送った。
弾かれるように男に再び視線を合わせたエリザの目には、涙が溜まっていた。苦し気に寄せられた眉が一層悲壮さを際立たせている。震える声でそう言う彼女に、男は安心させるように薄く微笑み話を続けた。
「うーんそれは難しい質問だ。私は全てを見ていたわけではないし、当事者でもないからね。けれど一つだけはっきりと言えることがある」
「それは、なんですの?」
「エリザ嬢、私は君を信じている」
エリザは信じられない心地だった。
そう言えと国に言われた罪の告白をした私に彼はなんと言ったのだろう。事の真相はおそらく自分自身とあの事件を企てた本人しか知らないはず。国ですら騙したというのに、この男はどこまであのことを知っているのだろうか。
もしかしたら、犯罪者が欲しがるような言葉を適当に言っただけかもしれない。けれども、彼が嘘を言っているようには思えなかった。そうと信じたかっただけかもしれない。それでもエリザは信じようと思った。
それほどまでに男がエリザを見つめる目には打算も、偽りも浮かんでいなかった。
全てを見透かすような真摯な瞳で信じていると言われて、エリザは動揺した。今日男と出会ってから一度だって自分は誠実な態度をとっていない自覚がある。まるで善良な相手を騙しているような気になってしまい、いらない言葉が口をつく。
「なっ…なにを根拠にそんなことを」
「今は言えない。けれどもし君が私のことを信じてこの手を取ってくれるなら、ことのあらましくらいならすぐに教えてあげるよ」
その言葉に気を悪くしたような風もなく、男は真面目な顔で手を差し出す。
この手を取ることが彼への信頼を表すのだとわかっているのに、エリザは躊躇した。彼女はらしくなく逃げの一手を選んだ。
「それは、先程…」
「ああ、馬車に乗ったことが返事だって?それでもいいんだけどね、これは契約みたいなものさ」
エリザの濁した言葉の先を読んだ男が、すぐさま言葉をを継ぐ。そして気になる単語を口にした。
契約。一体何の契約となるのだろうか。素直に首を傾げて、エリザは子供のような幼い顔でその単語を繰り返す。
「契約?」
「そう。君が自ら私の手を取ってくれたなら、私は絶対に君を裏切らないと約束する。そして君を守ることも誓うよ。ただ少し仕事を覚えてもらうことにはなるけどね。これが契約。後出しでごめんね」
あっでも変な仕事ではないから安心して、と続ける男にエリザは視線を足元へ落とす。
「なぜあなたは今日初めて会った私にそのような破格の待遇を提示されるのです?」
「君はなかなか疑り深いな。あっ、決して悪いとは言っていないよ。警戒心は女性を守る大切な盾だ。なぜ、と問われると難しいが、敢えて言うなら私がそうしたくてこうしている。これに尽きるかな」
「あなたがしたくてしている…」
「そう、だからこれは私のわがままなんだ。だから君は君の思うままに答えていい。今更手を取らなくても衣食住に困らないよう取り計らいはするから安心して」
そう男に優しく語かけられたエリザは、泣きそうに歪ませていた双眸から涙をこぼした。ついに決壊した彼女の我慢は、美しい水滴となり頬を伝い落ちる。
無防備に涙を流すエリザの目元を男は左手で優しく拭う。その仕種に誘われるようにしてエリザは顔を上げる。水を湛えてきらきらときらめく瞳は麗しい薔薇の花のようで男の目を惹いた。
しばらく見つめ合っている内に、美しい感情の波は緩やかに引いていった。
完全に涙が止まってからエリザはきゅっと目を閉じた。ほんの数秒そうした後、開かれた瞳にはもう翳りは見えなかった。
ずっと差し出されたままだった男の手に、ほっそりとした白い手が重ねられる。
こうして少女と男の契約は成立した。
国へと向かう道中、エリザは男の話を聞いた。聡明な彼女であっても、辺境伯の語る話は一度で整理できるようなものではなく、実際に彼の領地へと入り、現実を目にしてようやく理解ができた。
彼は罪のある乙女を集めているだけの酔狂な男ではなかった。謂れなき罪で不遇な目にあっている令嬢を救い、元より令嬢として持っていた高いスキルを有効活用しさらに磨き上げ、様々な場へと彼女たちを送り出していたのである。
ヴェスヴィウスは紅薔薇の国。その謂れは国の花が赤い薔薇であることに起因するが、代々女性が玉座に座り統治していることも由来する。その為か、他国に比べて女性の上級職への進出が著しく高い。彼は一度人生を失った少女たちに新しい人生与え、そうした基盤のある社会へと、彼女らを送り出すべく活動しているのだと言った。
俄かに信じがたいものであったが、ヴェスヴィウスについたエリザは、辺境伯に引き合わされた女性たちや、彼の屋敷内に建てられた保護した少女たちが集まる寄宿舎のような建物を案内され、信じるに至ったのである。
家も家族も故郷すらも失った少女、エリザ。短いながらに波乱万丈であった人生に悲嘆し、泥をすする覚悟で生きようとしていた彼女の新しい人生は今まさにはじまろうとしていた。
そんな彼女のに訪れた平穏な日常に辺境伯とくだらない応酬をすることが、日課として加わるのはもう少し先の話である。
「その悪役令嬢、引き取ります。」っていう題と迷ったけれどあんまりなので没に。端的に言うと没にしたタイトルまんまのお話です。
悪役にされてしまったご令嬢を引き取って派遣会社よろしく彼女らのスキルを伸ばして色んな職場に派遣させるお話面白くない?っていう妄想から生まれました。冷静に考えるとそこまで話が進んでいないですがちらっと後半に出せたので満足です。
少しでも楽しんでいただけたらば幸いです。
次は連載をすすめたいですね。