幸せの時。
「気持ちよかったぁ・・・」
通り過ぎていく景色を堪能した後、私は自宅までの少しの道のりを歩きながら呼吸を整えていた。
なぜゆっくりと歩いているのかというと、突然足を止めてしまうと心臓に負荷がかかり、死にいたる可能性があるからだ。私は今もその約束をきちんと守っている。これも拓也君が教えてくれたんだ。
「ただいまーー」
私は誰も返事が返っていないことを知りつつも、ただいまという挨拶をした。
「ただいま」という言葉を口にするだけでも、両親がいなくても、なんだか清々しい気持ちになるのがまた不思議だ。
きっと、習慣で身についたから、自然に言葉をかけちゃうのかな。
本当は、玄関を開けると、お母さんとお父さんが、おかえりなさいって、いつも元気よく返してくれるんだけども、今はもうこの家では、お母さんの透き通るような声も、お父さんの気迫のこもった声も聞けなくなってしまった。
陰鬱な話になりそうだけど、そんな大した話じゃない。
両親が他界してしまったとか、大切な家族が亡くなってしまったとか、そういう心が折れるほどの話ではなくて、一言で言うのなら、一人暮らしを始めたから、両親の声が一切聞けなくなってしまったんだ。
「この家で聞きたいけど、しょうがないよね」
また今日も会えるから、そんなに寂しくはないんだけどね。
矛盾していると思うけど、ただ、なんとなく寂しいだけなんだ。
「よし、はやくお風呂に入らなくちゃ」
寂しさを残しつつ、私は、このままでは風邪をひいてしまうので、はや歩きで、お風呂場へと移動することに。
はや歩きをすると、堅い床からドスドスという野太い音が私の耳元に届くから、なんだか応援されている気分になる。
そして、弾けるように、この家の中で踊っているように感じる。
その音を聞くと舞踏会で踊っているような姿が目に浮かぶのがまた不思議だ。
リズミカルに踊っている音も私は大好きなんだ。
「この音も聞けたわけだし、今日も張り切ってがんばるぞ~」
洗濯機に汗がしみこんだ服を入れながら、そう自分に活を入れる。
今日もまた、新しいことが始まる。
今日もまた、新しい何かが始まる。
そんな妄想をしていると、今にでもお仕事に行きたいという気持ちが高まっていった。
それから私は、服を洗濯機の中に入れ終わったあと、温かいお湯に浸かりながら、疲労感に浸ることになった。
「はぁ・・・やっぱり、気持ちいなぁ・・・」
湯気が出ているお湯に浸かりながら、私は、至福の時を味わっていた。
お風呂に入ると疲れを吹き飛ばしてくれる。
嫌なことも悩み事も全て、汗と共にどこかにいってしまう。
きっと、汗とともに、蒸発して、どこか遠いところへ旅に出かけるのだろう。
それがどこなのか分からないけども・・・
でも、やっぱり、日本人といえば、お風呂、温泉だと思う。
お風呂がなければ、今の日本人は存在しない。
温泉という体を温める場所がなければ、それは日本とはいえない。
日本は他国と比べて温かな空気で包まれているけど、南極にいくと、想像を絶するほど寒い。
住める場所ではないから、南極には行ったことがないけど、きっと、体が凍るほど寒いと思う。
でも、南極だったら、シロクマが生息しているらしいから、一度でも旅行とかで行ってみたいなぁ・・・
無理だと思うけども・・・
「よし、温かいお湯に浸ったわけだし、シャワーでも浴びよう」
そう夢を見つつ、私は湯の中から出て、汗を洗い流そうとピカピカと光っている銀色のシャワーハンドルをいじる。
そして温度の確認をせずに、私は、シャワーから噴出す水を右肩からかけた。
そのとき、私は、また至福の時が味わえると思っていたんだけども
「つめた!」
その期待は途端に裏切られ、ただ冷たい水が私の肌を襲った。
私は冷たさのあまり、反射的にシャワーを前へ突き出し、水を止めることに。
そして、心臓が止まりそうになるほどの冷たさだったので、両腕を交差させ、少しでも温かさを感じようと努めた。
まだお風呂に入ったときの温かさが体の中に残っていたので、私はもう一度、温度の調整を試したけど、やっぱり、変わらなかった。
何度も温度調整をしても、温かいお湯は出ることはなく、冷たい水だけが、勢い良くシャワーから出るだけだった。
「温度調整をしたはずなのに、なんで、冷たい水が出てくるの・・・?せっかく、気持ちよくシャワーを浴びようと思ったのに・・・最悪だよ・・・」
そう悪態をつく。
これはまさに大惨事だ。
シャワーを浴びることが出来ないということは、大げさな言い方になってしまうけど、死を意味していると思う。
だって、幸せなときを一つ削られてしまったのだから・・・
せっかく、今日も、この至福を味わおうとしていたのに・・・
それが出来なくなってしまうと、今日の生活に支障をきたすことになってしまうから、それだけは避けたかったよ・・・
シャワーが故障しているという現実から目を背けたいです・・・
「はぁ・・・」
大きなため息をつき、私は、その現実に絶望し、その場で呆然としてしまった。
「・・・」
「・・・」
「・・・はぁ・・・」
また大きなため息をつく。
すると、ため息が反響をして、さらに大きな音が耳の元へ返ってきた。
ため息まで反響しなくてもいいのに・・・
なんだか、みんなから罵倒されているような気分・・・
きっと、排水管が故障しているから冷たい水が出てきたと思うけども、なんでこういう日に限って、故障なんてするのかな・・・
これからお仕事があるというのに・・・
休日日だったらまだマシだったのに・・・
みんなに変な目で見られるかもしれないけど、私にとっては、シャワーという存在は、とても大きな存在。
だから、シャワーを浴びることが出来なくなってしまうと、がっくりと肩を落としてしまうんだ・・・
今回が初めてだけども・・・
「・・・」
でも・・・ここは切り替えないと。
それぐらいで落ち込んでいたら、生きられなくなってしまう。
これから先、辛いことがもっとたくさん待ち受けているというのに、些細なことで、気持ちが沈んでいては、この先思いやられるに違いない。
私なら大丈夫。
これぐらいのことでへこたれる私じゃない。
ちょっとだけ、へこんでるけども・・・
「よし!切り替えよう!私!これぐらいでへこたれるな!大丈夫だから!」
私は、奮い立たせるため、自分でそう言い聞かせた。
確かに私にとっては、死に至るほどの事件だったけど、よく考えてみれば、そんなに落ち込むほど私は弱くはない。
精神的にもダメージを受けてしまったけど、こんなものは、なんてことない。
だって私は、大きく成長したんだから・・・
だから、私なら、立ち直れるはず。
拓也君のおかげで、楽観的に考えることが出来るようになったんだから。
「よし・・・!今日はこのやる気をお仕事に繋げていこう!拓也君のためにもね!」
そうやる気を入れ、心を切り替えることに。
そして、また体を温め、着替えたあと、私は、実家であるケーキ屋さんへと車で向かった。