はじまり。
「ハァ・・・ハァ・・・」
一歩一歩、力強く地面を踏み締める音が、私の耳元へと届く。
海風が、私の背中を支えている。
体全体にまんべんなく海風が通り抜ける。
周りを見渡すと、陽光を一面に反射してキラキラと輝きだす海が見える。
それは淡い青色をしていて、その上にはカモメや様々な鳥が、密集していた。
海面から魚たちが飛び出していくのを待ち望んでいると言わんばかりに、お腹をすかして、獲物を捕らえようとじっと待っている鳥達。
上を見てみると、そこには青色に帯びた空があり、ウサギの白い毛の色をした雲が、たくさんあった。
空の上に浮かんでいる雲をよく見てみると、様々な形があった。
太っている人を彷彿させる、丸っこい大きな雲や、横に大きく広がっている雲、そして「わた雲」と呼ばれる綿雨みたいな形をした雲などなど・・・
上を見渡すと、新しい発見を見つけ出すことが出来るから、とても楽しい。
毎日、違う形をしているから、「あ、今日はこういう形をした雲なんだぁ」と胸を弾ませる自分がいる。
「・・・きれいだなぁ・・・」
雲だけを見るだけで、蓄積していたストレスがだんだんと消えていくような気がするんだよね。
私は毎回、この雲たちに助けられているんだぁ・・・
ストレスなんか、ほとんどないけれども・・・
「ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・やっぱり・・・走るのって楽しいなぁ・・・」
清々しい気持ちになりながら、また前を向くと、町並みが私を歓迎しているような気がした。
この離島は、とても小さい。
離島といっても、今走っている道は舗装されていて、横には電気を送ってくれる電柱がある。
そして、そばにある低い塀の奥には歴史ある家が一列に並べられている。
歴史がある家といっても、ただ、その中には、様々が記憶が詰まっているだけ。
その様々な形をした思い出が、この町を支えていると私は思っている。
思い出というかけらがなければ、この町はきっと生きていないだろう。
感受性が強いと言われるかもしれないけど、私はこう思っているんだ。
【この離島に限ったことではなくて、町というものは、離島というものは、一つ一つの記憶や思い出をどこかに蓄積することによって、息を吐きながら、呼吸をしながら、生き続けていて、それが、生命力にもなって、この町を維持している】と。
離島なんて、町なんて息を吐きながら生きているはずがないけど、私はそう考えている。
だけど、時間の流れとともに、町は変わっていく。
時代の流れととにも、この町も様変わりしてしまう。
変わっていくということは、自然のことであって、誰も抵抗することも出来ない。
ただ寂しさだけが残るだろう。
それはとても悲しいことだけど、この島は、何一つ変わっていない。
低い塀が道を囲んでいて、その奥には家があって、そのもっと先には、太陽の光を反射している海がある。
その反対側には、木漏れ日が揺れている森林があって、それは開拓することなく、今も、昔のままの姿を維持しながら生き続けている。
そして、新しい建物も建てられることなく、今もこの町も、生き続けている。
何も変わっていないということは、みんなから愛されている証拠だと思う。
走りながらそんなことを思い浮かばせていると、その景色が映画館のように目の前に映し出されているようで、なんだか、幸せな気持ちでいっぱいだった。
「はぁ・・・はぁ・・・やっぱり、何度見ても飽きないなぁ・・・」
幸せな時をかみ締めているとき、自然にその言葉が口からこぼれていた。
そう、毎日どこにでもありそうな景色を見ていたら飽きると思うけど、不思議なことに飽きないのだ。
この島が大好きなのかな・・・私って・・・
いや、好きなんだ。この島が。この光景が。
ずっと過ごしてきた、この島が、私はとても好きなんだ・・・
「ハァ・・・ハァ・・・」
一つ一つずつ、住宅を見ると、今、家の方は何をしているのかなぁ・・・とか、まだ寝ているのかなぁ・・・とか、自然に妄想が膨らんでしまう。
一人ひとりの行動が、一人ひとりの呼吸が、何かに繋がれたみたいに、私のもとへと伝わってくる。
グツグツと食べ物を煮込んでいる音や、タッタッタと食べ物を包丁でリズムよく切っている音。
カタッ、カタッ、とお皿を用意している音や、フゥ~~~♪と気持ちよさそうに鼻歌を歌っている人。
沢山の音が、私の耳元に届いてくる。私のもとへ伝わってくる。
些細な音でも、毎回走るたびに、私の心はカラフルな色に染まっているのが分かる。
楽しくて、ワクワクして・・・みんなが耳を傾けることが無い音でも、私にとってそれは、大きな存在。
私にとってそれは、生きる源になっている。
その音とともに景色を眺めるのは、これ以上にないくらい幸せなんだ。
「あら、菜々美ちゃん、おはよう~~」
「あ、おはようございます」
この道を通ると、毎回行き会う佐藤さんに挨拶をし、足をピタリと止めることなく、佐藤さんの前で足踏みをした。
大きな瞳に、柔らかそうなほっぺ。そして高齢者とは思えないほどの綺麗な肌。何度も佐藤さんの顔を見ているけど、シミなんて一つも見当たらない。それぐらい綺麗な肌をしている。
きっと、毎日、化粧水などで顔のキメを細かくしているのかな。
私も化粧水やら保湿クリームやらを買ってみようかな・・・
忙しすぎて買える予定なんてないと思うけども・・・
「今日も走っているわねぇ~~菜々美ちゃん、本当に走ることが好きなんだねぇ~~」
笑みを浮かべる佐藤さん。
「はい!私、毎日走らないと生きた心地がしないので・・・」
「生きた心地ねぇ~~私なんか、毎日が暇で暇で、生きた心地がしないんだよね~~・・・もう若くはないし~~・・・老いぼれた私は時間と共に過ごすしか道はないんだよ~~・・・」
「いやいや、そんなことないと思いますよ!人生はここからだと思います!年を取るのはしかたがないことですし、60歳まで働けたこと自体が、すごいことなんですから、そう悲観的に考えてはダメだと思いますよ・・・!」
そう。佐藤さんは60歳を迎えるまで、ずっと「ある仕事」で働いていた。
そのお仕事は骨が折れる作業ばかりなので、佐藤さんには本当に尊敬しているんだ。
「そうかしらねぇ~~・・・」
首を傾げる佐藤さん。
そんな曖昧な表情をしなくてもいいと思うのになぁ・・・
どうしたら、納得してくれるかな。
ここは、佐藤さんのために、そして自分のために、誘ってみよう。
「それなら、一緒に走りますか?清々しい気持ちになると思いますよ」
「いやいや、私は今年で62歳を迎える年寄りだから、もう走れないかなぁ~~・・・足が持たないよ~~・・・絶対に~~」
佐藤さんは柔和な笑みを浮かべていたけど、その笑みには残念がっているようには見えなかった。
確かに・・・まだ私は若いから、体が生き生きしているけど、佐藤さんはもう60代なんだから、走るのは難しいよね・・・なんて無理なことを言っちゃったんだろう・・・
「すいません・・・無理なことを言ってしまって・・・」
「気にしないで~~一緒に走るときを楽しみにしているわ~~」
やっぱり、佐藤さんは佐藤さんだ。失言をしたって、佐藤さんは気にせずに、笑ってくれる。
私は、笑顔で笑っている佐藤さんが大好きなんだ。
「はい、ありがとうございます!」
感謝を込めて、お礼を言った。
私の気持ち、伝わったかな?
「うんうん~~」
大好きという気持ちが伝わったのか分からなかったけど、佐藤さんは上機嫌だった。
「それでは、楽しみにしていますね」
「はいよ~~」
背を向け、また私は走り出した。
私は、この景色が、この空が、大好き。
島の人たちも大好きなんだ。
みんな優しくて・・・
この島に生まれてきて、本当によかったと心の底から思う。
もし、この島に生まれていなかったら、きっと今の私はいなかったと思う。
「ハァ・・・ハァ・・・」
口から流れ出る息が、空気と混ざり合い、空へと羽ばたいていく。
鳥のように、翼を広げながら、空へと飛んでいく。
「楽しいなぁ・・・」
走ること自体が、体を動かす自体が・・・
私は、昔のとき、走るのが大嫌いだった。
なぜ、陸上部の人や、スポーツが好きな人は、疲れるのに体を動かすんだろう・・・?と疑問に思ったことがあった。
私は昔からとても運動神経が悪くて、みんなから笑われたときが何回もあった。
足を滑らせて思いっきり転んだことなんて、数え切れないほどあった。
その度にみんなから嘲笑われ、このみっともない姿をさらすことになった。
だから、私は否定的になっていたんだ・・・スポーツというものに・・・
そんな私を救ってくれたのが、拓也君という存在だった。
拓也君は、運動神経抜群で、走ることが大好きな少年だった。
そして、拓也君は私の幼馴染でもあり、私の恋人でもあった。
拓也君は私に、たくさんのことを教えてくれた。
走ることの大切さ、面白さや、そして、この町の美しさなど・・・
そう熱く語っている拓也君を見たときは何も心が動かなかった。
走ることが面白い?この町が美しい?
そう不思議に思っていた。
昔の私は引っ込み思案な性格で拓也君しか友達がいなかった。
人と話すのはとても恥ずかしくて、知らない人に話しかけられると顔が真っ赤になるほど恥ずかしがり屋さんだった。
でも、今はこうやって楽しく、恥ずかしがらずに、この町の人たちと話をすることが出来るようになった。
笑顔を振りまくことが出来るようになった。
これも、全部、拓也君のおかげなんだ。
拓也君が初めての彼氏で本当によかった。
拓也君のおかげで、いまの自分がいるのだから・・・
「拓也君・・・私・・・いまこうやって楽しく走っているよ。拓也君、私、いま、こうやって空気を存分に吸っているよ・・・」
・・・・・・・・・・
もう、この世には存在しない拓也君に、今の私の気持ちを伝えた。
私の気持ち、届いているかな・・・?
「・・・」
もちろん、拓也君の声は聞こえないけど、きっと、私の気持ちが届いているはずだよね。
だって拓也君は、ずっと私の中で生き続けているのだから・・・
「あら、菜々美ちゃん、おはよう。今日も頑張っているわね」
拓也君との思い出を思い出しているとき、聞き慣れた声が聞こえた。
「あ、おはようございます。はい、頑張ってます!」
しっかりと目の前を見ると、目が細くて、鼻が高く、大きな口元が特徴的な大原さんが、掃除をしている最中なのか、ほうきを持っていた。
「頑張ってねーー」
「はい、ありがとうございます!」
大原さんは大きく手を振ってきたので、私も体を捻りながら、その声援に応えられるように、大きく手を振った。
優しいなぁ・・・大原さんも・・・
「おう・・・菜々美ちゃんじゃ。菜々美ちゃんじゃ」
また前に走りだすと、大島さんにばったりと会い、顔を合わせるなり独特の語尾をつけながらそう挨拶をしてくれた。
大島さんは顔の右下に大きなほくろあり、日に焼けた肌をしていて、髪の毛が生えていないのが特徴的だ。きっと大島さんはたくさんの苦悩をしたため、髪の毛がはえていないのだと私は勝手に思っている。
失礼だとは思うけども・・・
杖を持って歩いているから、きっと散歩をしているのかな。
「おはようございます!大島さん」
「おはようじゃ・・・頑張ってるのぉ・・・怪我だけはしないように気をつけるのじゃぞー」
「はい、ありがとうございます!」
私はそう元気よく返事をしたあと、通り過ぎていく景色を堪能するため、スピードを緩めることなく走り続けた。
私は、この島の人たちが大好き。
本当に大好きなんだぁ・・・
みんな優しくて、みんな挨拶をしてくれる。
それは、なんて幸せなことなんだろう。
なんで、昔の私は、この島の人たちから避け続けていたんだろう・・・
なんだか、昔の自分が馬鹿らしく見えてくる。
「本当に、今幸せだよ・・・拓也君・・・」
私は、消え入りそうな声で言いながら、さらにスピードをあげた。