エヴァ
「ほらっ、さっさと起きなさい」
ペシペシと頭を叩かれて目を覚ます。顔を上げると、俺の顔を覗き込むナターシャの姿がそこにあった。
名残惜しさを感じつつも身を起こし、ぐっと身体を伸ばす。よし、快調快調、これも枕が良かったおかげってね。辺りは夕日によってすっかり茜色に薄塗されている。あれから数時間くらいってところだろう。とりあえずアンナに感謝しなくては。
「ありがとな。すっかり疲れも取れたよ」
「はい、また言ってくれれば私の膝くらいいつでも貸しますから」
屈託のない笑顔が眩しい。あの至福の感触はもう忘れられそうにないし、また後でお願いさせてもらおうっと。これから普通の枕じゃ満足できないとか、そういう困ったことになりかねないかもなぁ。
「何ニヤケてるのよ?」
ナターシャの視線が俺に突き刺さる。しまった、気分の高揚が顔に出ていたらしい。まあ、全ては膝枕の魔力のなせる業。自然とニヤケてしまうのも無理なからぬことだ。
「アンナの膝枕は最高だって話だ」
「恥ずかしいですって、もう」
照れくさそうにアンナが言う。ああもうホント可愛いなこの娘は……抱きしめたくなっちまうだろうがよ。
「よくもまあ……胸やけがするわね」
「何だ? 悪いものでも食ったか?」
「もう面倒だし、それでいいわ」
何が不満なのか、呆れ返った様子のナターシャ。
こいつ、いつも俺に呆れてんな。気になりはしないけど、俺ってそんなに呆れてしまうほどの変人だったりするのか? いや、俺は常識人だ。誰が何と言おうと善良な常識人の括りに含められるべき人間……でいいんだよね?
「とりあえずどっかで飯済ませようぜ」
「そうしましょうか」
アンナが相槌を打つ。
酒場でも食事はできるだろうけど、腹ごしらえをしていくのも悪くはないだろう。どうしてか、酒場の料理は割高という印象もあるし。
「何かしら、あの娘? こちらの様子を窺っているようね……」
何事かと思い、ナターシャの見ている方へ視線を向ける。確かに、少し離れたところからこちらを見ている女性がいた。俺たちに気づかれたのを契機としたのか、その女性は足早にこちらへと近づいてくる。
それとなく彼女の風貌を観察しておく。あどけなさを少し残した綺麗な顔立ち。背丈は160cm弱くらいで、細身ながら出るべきところはしっかり出ているようだ。歳は俺とそう変わらなさそうに見える。長いポニーテール状に纏められた藍色の髪、吸い込まれそうな紫紺の瞳は神秘的な美しさ。動きやすそうな服装をしており、背には長得物を携えているようだ。
「やっぱりそうだ! あんた、サエキ=ユーマっスね!」
俺の顔をジッと見つめていたかと思えば、その女性は突然俺の名を言い当ててみせた。それにしても声のでかい女だ。
なぜ見も知らぬ人間が俺の名を知っているか、なんて考えるまでもない。経緯までは見当もつかないが、例の手配書を見たのだろう。煩わしいし、ここは空惚けさせてもらうとしますか。
「佐伯悠真? 知的で素敵な名前だけど、人違いっすね」
「問答無用! お尋ね者は皆そう言うんス! 大人しくお縄に着くがいいっス!」
取り付く島もなく、背負っていた槍を手に取りこちらに向ける。
どうしよう、話を聞かないタイプの人だ。無茶苦茶言ってくれてるし。
そうだ、こういうときは良い手がある。
「ナターシャ、出番だ。何とかして追い払ってくれ」
「どうして私が?」
唐突な俺の呼びかけに不審がるナターシャ。
そうだな、説明くらいはちゃんとしなきゃいけないか。
「似た者同士、きっと分かり合えると思ってさ」
「お断りさせていただくわ」
残念ながら、俺の『目には目を、歯には歯を』作戦は失敗に終わった。
割とうまくいくと思ったんだけどなぁ。やっぱ他人任せは駄目か。
「何をごちゃごちゃとやってるか! 痛い目を見たくなかったら大人しく捕まった方が身のためっスよ?」
女性はキッとこちらを睨みつけて凄んでみせる。あまり凄みはないが、このまま絡まれ続けるのも少々不快だな。
「俺が佐伯悠真だとしてそれがなんだってんだ? 捕まえたら何か褒美でも出るの?」
それが俺を捕まえようとする理由としては一番有力だろう。それはいいとして、真正面から一人で突っかかってくるなんてあまり賢い選択とは思えない。こっそり跡を追うなり仲間を集めるなりすればいいのに。
「ふんっ、俗物の考えっスね……あたしは自警団のエヴァ! クレメアに蔓延る不届き者は例え神が見逃そうと、このあたしが成敗する!」
自己紹介するだけだというに身振り手振りを交えて、やけに芝居がかった女だな。
しかしなるほど、自警団に所属しているのか。お尋ね者である俺を捕まえようとするのも当然だったのな。
「厄介事には縁がありますね、ユーマ」
「言うなっての。悲しくなるわ」
なまじ自覚があるだけに、アンナの指摘は心にクるものがある。
思えば、この世界に来てから碌な目に遭ってない。アンナやナターシャとの出会いといった、良いこともあるにはあった。だが、それ以上に不運に見舞われることの方がはるかに多い。別に不幸だとか言う気はないが、愚痴の一つや二つ零したくもなるというものだろう。
さて、少々思考が脱線したが、うまくこのエヴァとかいう女をあしらう手はないものか。
「そこまでにしておけ、エヴァ」
彼女への対応に困っていると、助け舟が出される。エヴァの背後に来たシモンによって
。何だ、知り合いなのかこの二人?
「シモンさん、この男は――」
「わかっている。だが、それ以上にこの街を救ってくれた恩人だぞ」
「えっ……そ、それってどういう……?」
シモンの言い分に戸惑いを隠せないようで、エヴァは説明を求める。
気持ちはわからないでもない。お尋ね者だと思っている相手が一転、街の恩人だ。これで困惑しない方が変だろうな。
「件の魔族を討伐したのは奴だ。この街を守るつもりで赴いたのかは知らんが」
違いますね。違いますけど、あえてそれを言うこともない。波風立つのも嫌だし、黙っておこうっと。
ややあって、シモンの話が続く。
「そういうわけで、奴に手を出すことは俺が許さん。わかったか?」
「……了解っス」
渋々ながらも納得してくれたらしく、エヴァは素直に槍を収めた。これがまさしく『矛を収める』ってね……そのまんま過ぎるな。
「これから俺たちは酒場に行くのだが、お前も付き合わんか?」
「いえ、あたしは用事があるんで……すいません」
エヴァは申し訳なさそうにシモンの誘いを断った。
「そうか。お前に限って心配はないと思うが、気をつけて帰れよ」
「はい、お気遣いありがとうございます。それじゃあまた」
ペコリとお辞儀をして、エヴァは踵を返し去って行った。途中、一度だけこちらを振り返った彼女が何を思っていたのかは知りようもない。




