不慮の事故
目を覚ます。
まだ意識は微睡みの中にあったが、ふと右手に伝わる柔らかい感触が妙に気になった。
その感触の元を確かめるように弄る。
「……んっ」
やけに艶めかしい声が聞こえてきた。
意識が徐々に覚醒していくのに伴い、薄くぼやけた視界が鮮明さを増していく。
そして、気づくことになる。俺のすぐ側に、まだ寝ているナターシャの姿があることに。
彼女がどうして俺の目の前にいるのだろうか?
いや、それは今現在において大した問題ではない。問題はそう、俺の右手が彼女の胸の上に置かれていることだ。
ナターシャの目がゆっくりと開かれる。慌てて右手を彼女の胸から離すも、明らかに手遅れだった。
彼女の視線が俺の視線と交わる。見つめ合うこと、ほんの数秒。
「な、なななっ……!?」
みるみる顔を紅潮させていくナターシャ。狼狽しているのが目に見えてわかった。
こういうときは何て言えば良いのだろう?
落ち着け、と言ったところで落ち着いてくれるわけもないしな。
ならばもう、思ったままのことを素直に言うしかないか。
「まあ、その、何だ」
いったん身を起こしてから、俺は続ける。
「平坦でも柔らかいもんなんだな」
「この馬鹿っ!」
言い切ると同時に、がばっと身を起こしたナターシャの平手が俺の顔めがけて飛んでくる。
不意の平手打ちを躱すことができず……。
「ぐおっ!?」
クリーンヒット。思わず、情けない声を出してしまった。
「人の胸を触っておいて……言うことに欠いて、平坦ですって!?」
事実だろう、とはさすがに言えなかった。
冷静に考えて、言葉の選択を誤ったのは認めざるを得ない。とりあえず謝っておく、という選択が出てこなかったあたり、俺もかなり慌てていたようだ。
「失言については謝るけどよ……こっちは俺の寝床だぞ? お前にも非はあるだろうが」
「えっ?」
俺の言葉を受け、周囲を確認するナターシャ。
その視線が元々彼女の寝床であった場所に留まり、彼女は顔を引きつらせた。
「……悪かったわ」
こちらに向き直り、ポツリと彼女は呟いた。
「寝相が、か?」
「そうじゃなくて! いいえ、それもそうだけど、殴って悪かったって言ってるの!」
ナターシャが、俺の冗談にあたふたしながら謝罪する。
その姿は妙に微笑ましかった。
二百歳を超えてるとかいう話だけど、こいつからは威厳とかそういった類のものは感じないんだよな。
「朝からどうしたんですか?」
部屋の入口の方から、聞き慣れた声。
そちらには、不思議そうに俺たちの様子を窺っているアンナの姿があった。
「何でもないわ。そう何でもないのよ」
「ああ、何もなかった」
ナターシャの言葉に同調しておく。
ついでに胸もなかった、という冗談もさすがに言えなかった。
朝食等の出発前の準備を済ませ、さっさと宿を出る。
アンナに聞いたところ、今滞在しているドマからクレメアまでは割とすぐらしい。
そして、クレメアまで行けば当初の目的地であるカーティフまでもすぐだ。
感慨無量なものが胸に込み上がってくる。
「何だかんだで、アンナと出会ってから二週間近くか」
歩きながら、アンナに向けて話しかける。
「ふふっ、本当に早いものですね」
柔和な笑みを浮かべ、アンナは答えた。
「そう言えば、あなたたちってどういう関係なの?」
ナターシャが興味深そうに尋ねてくる。
以前にも聞かれた覚えのある質問だが……はて、何て答えておくかね?
「そうだな……持ちつ持たれつって感じの関係?」
「私は持たれてばかりですけどね」
そう言って、アンナは苦笑してみせた。
「そんなことないって。アンナが思っている以上に俺はアンナに助けられている」
少なくとも、俺自身は強くそう思っている。
だから、アンナが謙遜する必要は全くないんだ。
「私でもユーマの助けになれているんですね。嬉しいです」
本当に嬉しそうに言うものだから、つい俺の頬も緩んでしまう。
「出会って二週間って話だけど……良い関係を築けてるのね」
ナターシャが優しい声で呟く。
「羨ましいか?」
「馬鹿言わないでよ。私が羨ましがる理由がないわ」
「そりゃそうだ」
四方山話を交わしながら歩みを進め、村を出る直前。
俺は後ろを振り返り、口を開く。
「……結局、この村で何があったんだろうな?」
俺の問いに対して、二人からの答えは返ってこない。
俺としても、答えが返ってくるとは思ってなかったけどな。
「ちょっと、あれ見て! 誰か倒れてる!」
ナターシャが、クレメアへと続く街道の先を指差す。
確かに、遠方で誰かが倒れているようだ。
「この村の人かもしれませんね」
「ああ」
アンナの言葉に頷く。
俺たちは急いで、道先で倒れている人物の元へと駆け寄った。
「大丈夫……って、おい」
無事を確認しようとして、俺は言葉に詰まってしまう。
仰向けに倒れているのは、黒いフードを纏った男。歳は俺と同じくらいだろう。
俺たちは一様に、その男の様子を見て唖然としていた。
「ね、寝ていますね」
アンナの言う通り、街道のど真ん中で、男は安らかな寝息を立てているのだ。
「どんな神経してるのかしら……? 大した図太さね」
信じられない、と言いたげな口調でナターシャが言う。
「こういうのは無神経と言うんだろうよ」
もしくは、ただの馬鹿といったところか。
「お~い、こんなところで寝るのは良くないぞ?」
男の頬をペシペシと叩く。それでも、なかなか起きてくれない。
仕方がないので、頬を叩く威力と速度を上げる。
駄目だ。一向に起きる気配がない。
「すごいわね。ここまでされて起きないなんて」
呆れ顔になり、ナターシャはまじまじと男を見据えていた。
これじゃあちっとやそっとでは起きそうにない。
仕方ないか。少しばかり荒療治でいかせてもらおう。
「大丈夫ですか~!?」
男の胸倉を掴み、思いっきり上下に揺さぶる。
そこまでしてやっと男は目を覚ました。
「……朝か」
朝か、じゃねえよ。
開口一番、暢気なことを男は言っていた。
男の胸倉から手を離す。男はゆっくりと立ち上がり、大きく欠伸をした。




