黒騎士
曙光の眩しさに目を覚ます。
昨日、悪寒を覚えてからなかなか寝付けずにいたため、充分な睡眠が取れたとは言わないが、不調の類は一切ない。欠伸を噛み殺し、隣で眠るアンナの顔を見つめる。その穏やかな寝顔に、つい俺の頬も緩む。何気なしに彼女の頭に手を伸ばす。亜麻色の髪に指が触れる。
「……ユーマ」
「おっと、起こしちまったか。ごめんな」
目覚めたアンナが目を擦り、こちらを見つめ返してくる。
起こさないように注意はしたつもりだったんだけどな。
「まだ寝ていろ。どうせ出発はまだ先だ」
「遠慮しておきます。二度寝は良くありませんしね」
「それもそうか」
俺の提案は、やんわりと断られる。確かに二度寝は良くない。
「今日でランドンとやらに着くらしいが、その後はどうする?」
俺はアンナに問いかける。
「到着はおそらく夕方頃になります。諸々の準備を整えてから、宿を見つけましょう。ランドンにはお風呂付の宿も多くあるんですよ」
「マジか!」
お風呂。その単語はひどく魅力的な響きを以って俺の耳に届く。
もう四日間も風呂に入っていない。いい加減に身も心もリフレッシュさせたいものだ。
「ふふっ」
「……どうした?」
「ユーマのそんな無邪気な笑顔、はじめて見るなって」
アンナが微笑ましいものを見るような目を俺に向ける。何というか、妙にむずかゆい。
俺は恥ずかしさを隠すように頬を掻き、視線をどこともなく彷徨わせる。
その事態の異常性に気づくまでに時間は要らなかった。
「……馬鹿な」
視界に入って来る護衛の面々と商人たちが、例外なく地に伏している。見張りを行っている者は誰もいなかった。誰も彼も、明らかにただ眠っているだけという様子ではない。
「アンナ、気をつけ――」
アンナに注意を促そうとしたそのとき。
昨晩と同様、言いようのない悪寒に襲われる。感じるそれは昨日のものよりもずっと強い。
「ゆ、ユーマ……あそこ……」
震える声でアンナが呼びかけてくる。俺はアンナが見ている先に視線を移す。
目に映って来た光景に思わず息を呑む。柔らかな曙光が包む世界に、一点の黒。全身を物々しい漆黒の鎧で覆った黒騎士がそこにいた。微動だにせず、こちらの様子を窺っている。携えている大剣までもが不気味なほどに黒い。大柄な騎士の威容は圧倒的な威圧感を俺に与えてくる。
直感的に理解した。あれは尋常ならざる存在だと。だがそれと同時に、あの寒感はこいつが原因でないことも理解していた。
悪寒の原因についてはいったん置いといて、黒騎士に対して俺は警戒心を最大まで引き上げる。
黒騎士がゆっくりと、風格すら感じる足取りでこちらに近づいてくる。
しかし、まさかと思うが、やつはわざわざ俺たちの目覚めを待っていたのだろうか? 状況から判断するに、そうとも考えられるが、何のために? いや、今はそんなことを気にしていても仕方がない。
「前には出てくるなよ」
アンナがコクリと頷いたのを確認し、いくらかの距離を置いて、黒騎士と相対する。
「みんな倒れているのはあんたの仕業か?」
問いかけるも、返事は返ってこない。話をする気はないのか?
それでも俺は問いかけを続ける。
「あんた、何者なんだ?」
「……我はシュヴァルツ……《皇魔七天》序列第三位、ヴィンフリーデ様の忠実な僕にして、一なる刃」
今度は返事が返って来た。静かに、それでいて厳かに、黒騎士が名乗りを上げる。この上なく低い声には、確かな矜持が込められているのを感じる。やつがヴィンフリーデという輩の部下であることはわかるが、その人物に心当たりのない俺では特段の感想も湧いてこない。序列云々から判断するに、只者でないことは確かだろう。
「……名乗られよ、少年」
有無は言わさぬと、厳めしさを纏った声で俺の名を問うシュヴァルツ。
やつは俺に応えて名乗ったのだ。俺だけ名乗らないわけにもいかないだろう。
「佐伯悠真。肩書は……まあ、何でもいいか」
相手に合わせて適当な肩書でもつけようかと考えたが、碌なものが浮かばなかったので取り下げることにした。
シュヴァルツが漆黒の大剣を構える。闘いは避けられないようだ。
「どうして俺たちを襲うのかは教えてもらえるのかね?」
俺の問いに、やつは何も答えない。これ以上の問答は無用ということだろう。明らかに危険な相手だが、逃げるわけにもいかない。後顧の憂いは今のうちに断っておくに限る。幸い、この場には俺とやつ以外にはアンナしかいない。人目を気にせず闘えるのは都合が良かった。
闇を練り上げる。全身が闇によって純黒に染めあげられていく。込み上げてくる不快感には、どうにも慣れそうにない。
「……参る」
シュヴァルツの声が耳に届いた刹那、頭の中で警鐘が鳴り響く。
反射的に頭から身を屈めると、猛烈な勢いで振るわれた何かが俺の後ろ髪を掠めていった。考えるまでもない、やつの大剣だ。やつがその重装備に似つかぬ俊敏さで俺との距離を詰め、とてつもない速さで横薙ぎの一撃を放ったのだ。俺の反応がほんの一瞬でも遅れていたら、首と胴体が切り離されていたに違いない。俺は戦慄を禁じ得なかった。
すぐさま顔を上げると、次の一撃を放つべく、シュヴァルツが大剣を振り上げていた。咄嗟に俺は左へ身を躱す。次の瞬間、振り下ろされた大剣が地に叩きつけられ、耳を聾する炸裂音が発せられる。回避には成功したが、その剣撃の威力を目の当たりにして、背中に冷たいものが走った。
やつが追撃に移る前に、後ろに大きく跳んで距離を取る。ある程度の距離を置いたところで、大きく息を吐いた。
「……ふむ」
シュヴァルツが声を漏らす。兜のせいで顔が見えないこともあり、その心情を読み取ることはできなかった。
それにしても、冗談じゃないぞ……こいつ、とてつもなく強い。
シュヴァルツが再び大剣を構え、突っ込んでくる。その速度は、やはり鎧を着こんだ者のそれではなかった。このまま大人しくやられてしまうわけにはいかない。
俺はやつに対抗すべく、練り上げていた闇を一つの形に纏めていく。形成するのは、剣。
「魔業の崩刃」
漆黒の剣を手に構える。敵はもう目前まで来ていた。振り下ろされる大剣を、形成した剣で以って受け止める。ガキン、と激しい音が一帯に響き渡った。
「ぐっ……!」
強烈な剣撃に、思わず苦悶の声を漏らす。
こいつ、何て膂力してやがる!
斬り下ろし、斬り上げ、横薙ぎ、袈裟切りとあらゆる軌道を描き、シュヴァルツの大剣が絶え間なく振るわれる。一撃一撃が重い上に、鋭さも並大抵のものではない。こちらから攻め込む隙を見つけることができず、俺は防戦一方になっていた。それも、やつの猛攻の前ではそう長くはもたないだろう。危険ではあるが、無理やりにでも打開策を見つけるしかない。
シュヴァルツが剣を振り上げる。斬り下ろしの体勢だ。ここを狙う!
振り下ろされた大剣を受け止めるのではなく、最小限の動きで右へ回避する。そうして生まれたチャンスを逃しはしない。俺はやつの左脇腹に思いっきり横薙ぎを叩きこむ。
「……悪くない一撃だ」
闘いの最中にも関わらず、暢気に呟くシュヴァルツ。
俺の剣はやつを多少揺るがしたのみで、大した成果は得られなかった。鎧の上からでも、吹っ飛ばしてやるつもりで放った一撃だったというのに。
シュヴァルツが剣を右に構えた。すぐに、俺を胴から真っ二つにせんと大剣が振るわれる。慌てて防御に移り、それを剣で受け止めるものの、勢いを殺しきれない。俺は派手に吹き飛ばされ、数回地面の上を転げ回ることになる。吹き飛ばされる途中に剣を手放してしまった。
急いで立ち上がり、シュヴァルツのいるであろう方に目を向けると、すでにやつは俺の目前に……。
瞬間、腹部にものすごい熱を感じた。
「が、はっ……」
腹を貫かれるのはこれで二度目だが、得物が大剣であることも関係しているのだろう。その痛みは前回のそれを軽く上回っている。やつは無造作に俺の腹から大剣を引き抜く。夥しい量の血が急速に俺の身体から失われていき、意識が朦朧としていく感覚に襲われた。背後にふらふらと下がった後、地に膝をついてしまう。これは本気でまずいかもしれない……。
「い、いやああああああっ!!」
アンナの悲鳴が聞こえてくる。ああ、駄目じゃないか。アンナを心配させるわけにはいかない。音を上げている場合じゃないんだよ!
俺は意識を奮い立たせて、シュヴァルツを睨みつける。
「……よく死なんものだ」
隙を作ることなく、シュヴァルツがこちらに話しかけてくる。その声色には少しの驚愕が宿っているようにも感じた。
「ふざけろ、こんなところで死んでやるものかよ……!」
俺はアンナの運命も背負っているんだ。彼女との誓いを果たすまでは、何があっても死ぬわけにはいかない。
「……フッ」
シュヴァルツは小さく笑い声を漏らす。そこに込められた意味はわからない。
俺は足に力を込めて立ち上がろうとするも、上手くいかない。腹の傷、そして闇の力を行使することの代償に苛まれているがゆえに。
「……さらばだ、強き少年よ」
大剣がゆっくりと振り上げられ……。
「駄目!」
俺とシュヴァルツの間に誰かが割って入る。その後ろ姿を見間違えるはずもない、アンナだ。
「馬鹿! 出てくるなって言っただろ!?」
「馬鹿はユーマの方です!」
ピシャリと俺を叱咤するアンナ。つい呆気に取られてしまう。
「ユーマが殺されそうになってるのに、大人しくしていられるわけないじゃないですか!」
シュヴァルツのことが怖くてしかたないのだろう。小さな身体が小刻みに震えている。そんな状態で、俺を守るためにやつの前に立ち塞がったというのか。そんな華奢な体で、勝ち目のない敵に立ち向かおうというのか。
「……退け……邪魔をするなら」
「嫌です!」
律儀に勧告するシュヴァルツの言葉を遮り、アンナが叫ぶ。
このままじゃ……。
「……ならば……先に逝け」
このままじゃ、アンナが殺される。
それを意識した瞬間。
俺の中で何かが振り切れた。




