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 ぼんやりと目を開けると、自分の部屋の天井が目に入った。ずいぶんと長く眠っていたようで、時間の感覚がまるでない。ベッドから体を起こそうとしたが、思うように力が入らなかった。

「伸之様、気がつきましたにゃ?今お助けしますにゃ!」

 細いくせに力強い腕に背中を支えられ、ゆっくりと上半身を起こす。

「すぐに夕飯の支度をしますにゃ。何か食べたいものはありますかにゃ?」

「そうだな…ひつまぶしが食べたい」

「にゃにゃっ、またそうやって意地悪なことを言う!いちばんうなぎを食べてみたいのは私のほうですにゃ!」

 彼女は耳をピンと立て、怒ったように腕を組み行ったり来たりする。

「伸之様はいいですにゃ、子どもの頃召し上がったことがあるから!でも私は伸之様の話や本で想像するしかにゃい!これはもう嫌味にしか聞こえませんにゃん!」

「味わったことがあるからこそ食べたくなるんだ。ネコだって、高級フードあげたらお徳用の缶詰には見向きもしなくなったりするだろう」

「私は一生お徳用缶詰で過ごせということですにゃ?もういいですにゃ!伸之様のはサバ缶で決定ですにゃ!」

 プイッと向きを変えるのを慌てて引き止める。

「うなぎ、そんなに食べてみたいか?」

 彼女はピョンと小さく飛び上がり、ググッと顔を近づけてきた。

「何か方法があるんですにゃ!?」

「近い近い、そう興奮するなって。言っておくけど、あまり現実的な方法じゃないぞ。うなぎのために人生をかけてもいいくらいの覚悟じゃないと…」

「うなぎには十分人生をかける価値がありますにゃ!!」

 堂々と言い切る姿勢に少し気おされた。うなずき、紙とペンを持ってくるよう伝える。

「今どきアナログだにゃんて、何するつもりにゃんです?ハッ、もしや電子データには残せないようにゃ、秘密の闇市へのルートを…」

「手紙を書くんだよ。ちょっとした当てがあるんだ。プライバシーがあるから読まないように。それより、夕飯作りにとりかかってくれ。腹が減って死にそうだ。」

「縁起でもにゃい!でも珍しいですにゃ、伸之様に食欲があるにゃんて。わかりましたにゃ、今夜はとびきり腕をふるってフルコースの魚料理を食べていただきますにゃ!」

「うん、期待してるぞタマ子」

「その名で呼ばにゃいでください!」

 タマ子はビシッと指さすと、スキップしながら部屋を出て行った。入れ違いに着替えを持った別の家政婦が入ってくる。

「なあオクニ、若いっていいな。俺も青春時代に戻りたいよ」

「あら、今日はやけに年寄りくさいことを言いますねえ」

「実際年寄りじゃないか、お互いに」

「私はまだこの通り、元気ですよ。」

 白髪交じりの家政婦はベッドのわきの電動車いすをひょいと持ち上げ、「散歩でもいかがです?」と言った。

「それもいいな。でもちょっとやっておきたいことがあるんだ」

「手紙ですか。もしかして、例の?」

「ああ、そうだ」

 俺はゆっくりとペンを走らせた。字を書くのは久しぶりだが、紙面の上をペンが滑っていくのは心地のいいものだった。こんなことを思うのも年老いたせいだろうか。

「やっぱり書くんですか、キメラの寿命は3年だなんて嘘を」

「そのほうが頑張る気になるだろう」

「そうですけどね、会って3年目に私が一人で旅行したいと言ったとき、伸之様ったら必死に止めようとしたじゃないですか。事情を聞いたらすごく申し訳ない気持ちになったんですからね」

「死に場所を探しに行くつもりかと思ったんだよ。ネコって死ぬ直前に姿を消すって言うじゃないか」

「ええ、ええ、何度も聞きましたよ。お友だちも巻き込んで大騒ぎになりましたよね。とはいえ、嬉しい事件ではありましたけれど」

 老家政婦は誇らしげに胸を張る。今でも背筋はピンとしたままだ。

「それよか、俺はお前がふつうの言葉でもしゃべれると知ったときは相当ショックを受けたよ。にゃんにゃん言うのがお約束なんだと思ってた。」

「若い頃はその方が仕事につきやすいって言われてたもので。さすがにこんなお婆さんがにゃんにゃん言ってたら気味悪いでしょう?」

「うーん、確かに…」

 そのとき、軽やかな足取りでタマ子が入ってきた。

「伸之様、食品の在庫がなくにゃったので買ってきますにゃ!」

「なくなったって、いったいどれだけ作ったんだよ」

「サーモンのマリネ、タラとじゃがいものブイヤベース、刺身の盛り合わせ、しらすのサラダなどですにゃ」

「いつもながら超人的な手際だ…ていうか、それぐらいあれば十分だろ。もう食べよう」

「だめにゃ!やるからには徹底的にやらにゃいと!オクニさん、しばし伸之様のお世話をお願いしますにゃ!」

「はいはい、行ってらっしゃい」

 タマ子はそう言って嵐のように部屋を出ていく。ついつい横に立っている人物と見比べてしまう。

「やっぱり、年取ったな」

「別に悪いことじゃありませんよ」

 彼女が微笑むと目尻にしわが寄り、どこかほっとした気分にしてくれる。確かにこの表情はタマ子にはできない。

「杖を取ってくれイズモ。久しぶりに自分の足で歩いてみたくなった」

「あら、懐かしい呼び方ですね。でも無理はしないでくださいよ?」

 腕を支えてもらい、ゆっくりと立ちあがる。大丈夫、行けそうだ。

「間違って杖を呑みこんだりするなよ」

「えー、修行の成果を見せるチャンスだと思ったのににゃ~」

「あれほどやるなって言ったのに練習してたのか!?」

 イズモは白い歯を見せてニッと笑った。


 遠いあの日、イズモが現れたおかげで、俺の日常はすこし不思議になり、友人関係はすこし複雑になり、日本のうなぎの漁獲量にすこし負荷がかかった。でもそのすこしが、俺にとってはすごく大きかったのかもしれない。


 杖に寄りかかったって、転んだっていい。すこし踏み出そう。



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