ミヴェル=ソワールの過去と希望3
新しい家は、仲の良い夫婦の家だった。
ガディ=ジュエ氏。
ガディという写真家の男性に専業主婦の妻の二人暮らし。子供はいない。僕達は養子という事になるのだろうか…?
「初めまして!ようこそ!ガディ=ジュエの館へ!」
恐らくガディさんの妻であろう女の人が明るく歓迎してくれる。目を見開く僕と笑顔満開のエイヴァ。驚きが第一だった。
「初めまして。僕はミヴェル=ソワールです。こっちがエイヴァ=ソワール。これからよろしくお願いします」
笑顔を作り礼儀よく挨拶をするとその女の人は「まあっ」と目を見開き僕の顔をまじまじみる。何だろうと微笑みながら戸惑っていると女の人は我に返ったように体を動かす。
「あら、ごめんなさいね。あまりにも可愛らしい方でしたから…。あの…失礼なんだけど、性別は…」
「『両性』です。今は男性の方ですが…」
「……あらそうなの、なら女性の方にもなれるのね!」
一瞬だけ暗んだ顔が僕には見えなかった。
奥さんはルンルン気分で僕の手を掴む。びっくりした僕の様子に女の人は笑顔のまま部屋の中へ僕とエイヴァを案内した。
「いい所だね!ミヴェル!!」
エイヴァが女の人と同様ルンルン気分で僕に話しかける。僕もふと笑顔になった。
キルさん、本当は過去に囚われてなんていないんじゃ…。そうじゃないと、こんないい所に僕とエイヴァを引き取らせたりしませんよ。
そう思い、またキルさんの迫真の演技に引っかかったのかと思い笑いが止まらなくなった。
「いらっしゃい、よく来たね!」
とある部屋の中に入ると、ガディ=ジュエと思われる男性がソファに座っていた。ペコリを挨拶をしつつ部屋に入り、目を合わせる。
その瞬間、僕はガディさんの瞳に吸い込まれそうになった。何だろう。ガディさんの瞳の奥に、色々な色が見える。綺麗な写真と撮る時に、目にその光景を写しているからなのか。
少し小太りの親切そうな表情を浮かべる男性の瞳に、僕は虜になった。
「ミヴェルくん、だっけ?」
その声で我に返る。「はっはい!」と声が裏返ってしまった。
「そんなに緊張しなくてもいいぞ。どれ、もっと顔を見せておくれ」
そう言い僕に近づきまじまじと僕を見る。僕は少し戸惑いながらガディさんに応じる。
「思った以上に美しい…やっと見つけた…」
ガディさんがそう呟く。確かに、僕の美貌は美しいと、顔が整っていると皆が言っていた。僕自身そうとは思わなかったが…。
「いけませんよ。そんなに見られて困ってるじゃないですか」
クスクス笑いながら奥さんが言う。「つい…」と照れ笑いながらガディさんは僕から目を離した。
「さあ、部屋に案内しよう。ついておいで」
そう言ってガディさんは起き上がり移動する。僕らは緊張しつつガディさんについて行った。
リビングの奥には縁側のような廊下があり、大きな窓の外は広い中庭が続いている。窓から外へ出られるらしく、いつでも外へ出られるだろう。
こんな風景は一体街のどこにあったのだろうか。カイヤの家周辺も家がなく広い草原が広がっていたが、ここはそれよりも木々が生い茂り、色とりどりの草花が生え、まるで質量感の持った油絵で描いた風景画のように広がっていた。ここがカイヤの家より都会だと言う事を忘れさせる。
「この庭は僕の夢の一つを叶えるために作った庭なんだよ。リアルではありきたりすぎる。『絵のような写真』を取ることが僕の夢なんだ」
「だから……こんなに幻想的なんですね…本当に絵の中に吸い込まれたみたいです…」
「…僕の撮る写真は生き物ですら動く玩具に変わる。リアルを求めない。どうだ、美しいだろう?」
「…はい…。本当に、美しい……」
「……だから」
カディさんの話す美意識はあっという間に僕とエイヴァをガディさんの世界に引きずり込んだ。
そう……引きずり込まれたのだ。
「だから、僕の『人形』になってくれ」
瞬間、腹の方にとてつもない痛みが走った。
エイヴァが怯えた目でこちらを見る。
何が起こったのか分からない脳裏で微かに
「エイヴァを助けなきゃ」と思ったんだ。
衝撃で瞬時に女性の体になった僕を見て、僕を殴った人物はニヤリと笑った。
「やはり美しい…!女性時の方が魅力が増して見える…!」
そう叫んでから僕の髪を引っ張り無理やり立たされる。
「……っ!なんで……!」
「知らなかったのか?お前達は今日から僕の『人形』になったんだ!かつて生きていたモノほどの美しい人形なんて、最高じゃないか……!」
「……やだ……、ミヴェルを殴らないで……」
小さい声でエイヴァがそう言った。ガディ=ジュエはエイヴァを睨む。
「……まあ、成長して自我を持つようになったやつより、純粋で幼いお前からの方が言う事聞きやすいよな……。ゆっくり実を育てられる」
僕を地面に叩きつけ、怖がるエイヴァに近づく。エイヴァは恐怖で腰を抜かし、動けなくなっていた。
「エイヴァ……!」
エイヴァが殴られそうになった瞬間、僕は必死の覚悟でエイヴァを前に覆いかぶさった。飛び出した拳が僕の頬にあたり、衝撃が僕を襲う。衝撃で飛ばされ地面に体をぶつけた。
体がぐらつく。視界が暗くなっていく。
「ああ……!せっかくの美しい顔が…!だから自我を持つモノは……!これはお仕置きだな…!」
「何、言うことさえ聞いてくれて大人しくしてくれたら、何もしないのによ……」
倒れる僕を見て、ガディ=ジュエは怒りの表情を見せ、ドスドスと足音を鳴らしながら近づいてくる。
ガディ=ジュエの手がどんどん顔に近づく。
遠のいていく意識の中で、エイヴァが僕を呼ぶ声だけが頭に響き渡った。
目覚めた時から、僕とエイヴァに対する扱いがガラリと変わった。
「言う事を聞けば何もしない。反抗したら暴力を振るわれる」
「女性時は優遇される。男性時は体罰を受ける」
その繰り返しだ。
僕は最初、ガディ=ジュエに反抗し続けた。
そしてガディ=ジュエが言ったとおり、今日も体がズキリと痛む。隠せる所ばかり傷が付き、隠せられない顔などは、憎く美しいままだ。
「ああ、醜い身体め…!男性である事でその魅力が憎らしく感じる…。どうしてお前は女性として生まれてこなかったんだ…!」
カディ=ジュエは『美しい男性』を嫌っているようだった。その理由、真意は分からない。
殴られた後、女性時に戻った時は決まってその姿を写真に収められる。そしてその写真を見て「美しい…」と呟く。
『リアリティを求めない写真』それは、普通に幸せに生活していては到底起こらないこのような(虐待、体罰など)事を含んでいるのだろうか。
……何にしろ……それは僕を徐々に支配していった。
僕が気絶した後何があったのだろうか。僕はそれをエイヴァに問い詰めなかった。
だってエイヴァは、酷く怯えていたから。
いつも殴られた後、壁にもたれかかる僕に近づき、ぎゅっと幼い体で僕を抱きしめる。
「怖い……怖いよ……」
そう言い毎日怯えている。
「……大丈夫だから…僕が守るから…」
僕はそう言い、エイヴァを優しく抱きしめる。
絶対にエイヴァを守ると、心に決めて。
そしてその想いが強ければ強いほど……『僕』は知らない間に、あるもう一つの感情に支配されていくーー
『守る』方法は……ひとつだけではないことに僕/私 は気づかなかったのだ。
ガディ=ジュエの虐待が始まってから、数週間が経過した。
やはり、何も変わらない。
痛い……苦しい……そういう感情も次第に薄れていく。
僕はいつの間にか反抗することをやめ、大人しく従っていた。
その容姿はまるで人形のように、光を失った目で1点を眺めていた。
エイヴァもいつの間にか、泣くことをやめた。僕がガディ=ジュエの気まぐれで殴られた時も、顔色一つ変えなかった。
……一体どうして私は怯えていたんだっけ……
…どうしてこんなに傷ついているんだっけ……
……エイヴァは、どうしてあの時泣いていたんだっけ……
……私は、何をしようとしていたんだっけ……
そんなある日、ある人物から僕に電話がかかってきた。
『ーよぉ!久しぶり!元気してたか?』
聞き覚えのある幼い少年声に僕は一瞬頭がついてこれなかった。
「……誰」
『誰って……カイヤだぜ!カイヤ=エスポワール!なんだよ忘れたのか!?お前全然連絡くれねーから、親父から電話番号無理やり聞き出したんだぜ!俺のこと忘れちまったのか!?』
ー思い出してきた。
「……あ、ごめん。あまりに久しぶりだったからさ。元気してるかい?」
「おう!相変わらず退屈だぜ……。てか、お前の方こそ大丈夫か?声が暗いぜ」
ーそうだ、僕は助けたかったんだ。
不意にエイヴァの方を見る。エイヴァはガディ=ジュエと笑顔で楽しく話している。
いつも通り、と思っていたその光景が、どんどん現実に戻っていくー
よく見ると、エイヴァの腕には複数のアザがあり、笑っている表情も、本当は怯えた表情を無理やり笑顔にしたような、見ていられない表情だった。
ーカイヤ、僕はー!
「……ありがとう…大丈夫……」
「お、おう……感謝されることはしてねーけど……。てか、いつ会えるんだ?俺はもう父親から外出許可貰ったからいつでも行けるぜ!」
……そうとなれば、僕は心に決めなければならない。
『守らなくちゃ』
大きく深呼吸をした。
この事をカイヤに打ち明けようか……
……けれどカイヤには迷惑をかけられない。
カイヤはきっとこの事実を受け止めて何かしらするだろう。けど、それをもしガディ=ジュエに見つかったら……きっとカイヤも僕と同じ目にあう。
自分のせいで誰かが犠牲となるのは、嫌だ。
僕が、エイヴァを守らなきゃ。
「もし親が外出を許してくれたら、久しぶりに会おう。エイヴァも連れていくからさ」
「おう!了解だ!また連絡くれよな!」
電話越しで喜ぶ声が聞こえる。僕はそれに少し微笑んで答えた。
その頃の僕は、以前キルさんが僕に望んだあの『希望』すらも忘れてしまうほど、支配されていたのだ。
それはガディ=ジュエにだけでなく……自分の『性格』にも……
……僕は、助けを求める事を、放棄していたのだ。
臆病で泣き虫で、他人に迷惑をかけたくないと自分で抱え込む、そんな僕の性格が、僕の行動する勇気に対する、足枷となったんだ。
カイヤと会う日が来た。
……のだが、その日の朝、ある事件が起きていた。
「…エイヴァ…!」
僕の目の前には身体中に痣が滲むエイヴァの姿があった。
僕はその姿にこらえきれず目を瞑った。
「…ミ……ミヴェル…」
今にも消えそうなエイヴァの声が僕の脳内に響き渡る。
急いでエイヴァの元に駆け寄る。近くで見ると付けられた痣がより一層ひどく映った。
「ミヴェル……助けて……ミヴェル…」
エイヴァはそう言い僕にしがみつく。体が震えている。
僕は憎悪で頭の中がいっぱいになった。
「どうして…!エイヴァは何も悪くないだろ…!」
そう怒鳴ると、どこからかエイヴァに痣をつけた本人が現れた。僕はガディ=ジュエをきつく睨む。
「そう怒るなよ、せっかくの顔が台無しじゃないか。これはお仕置きだ。俺の前で男性化したからな」
今の僕は女性時の身体をしていた。エイヴァは……男性時の身体をしている。
「…くっ……そんな事のために…!」
「なんだ、お前も同じ目にあいたいのか?」
その言葉を投げられた瞬間、背筋が凍りつく。これまで受けてきた暴力の数々が、頭の中でごちゃまぜになる。
あの身体中が痛い感触を……あの蔑むような瞳を……思い出して恐怖が走る。
力んでいた身体が恐怖で怯んだ。
「…あ……それは…嫌……」
「だろう?だったらおとなしく言うことを聞くんだな」
「あ、そうだ。出ていくのは良いが、助けなど求めても無駄だ。もし助けを求めた場合は……どうなるかわかるな…?」
そう言いガディ=ジュエは部屋を出ていった。
しばしの沈黙。僕の心の中には、憎悪と、そして恐怖で渦巻いていた。
身体が震えている。
「……エイヴァ…ごめん…ごめんよ…」
僕の胸元で震えているエイヴァを優しくなでながら、助けられなかったことを後悔する。
ガディ=ジュエの恐怖は、僕の身体を蝕んでいる。
けど……僕は、エイヴァを助けなきゃ……
「……カイヤには悪いけど……今日はやめておこう…エイヴァがかわいそうだ……」
ガディ=ジュエは出掛けることを分かっていてわざとやったのか……?外に行っても希望はないと言いたいのか…?
もしも助けを求めたら……僕と同じ目……いや、それ以上の仕打ちが…
……それは……嫌だ…
僕が助けを求められないのをわかっていて…エイヴァにこんなにも痣をつけて動けなくして…拘束して……
痛いのは……もう嫌だ
「……エイヴァ…僕が必ず守るから……」
『守る』
その言葉が頭に響いた瞬間、僕にめまいが押し寄せた。ドクンと、心臓がはねる感触がする。
そして一瞬、視界が真っ暗になった。
「……っ!……なんだ……」
痛みがおさまり、深呼吸をする。
……ある違った感情がこみ上げてくる。
エイヴァの頭を再び撫でてやる。
「……エイヴァ」
「……カイヤのところに、行ってくるね。だから今日はここから出ないようにね」
ーーえ…?
何を、言ってるんだ…?
僕は今日はカイヤの所に行かずに、ずっとエイヴァに寄り添うつもりなのに…
どうして…足が勝手に動くんだ…
その時、僕はその「もう一人」の正体を初めて知った。
「……さあ、何着ていこうかな…」
「カイヤに私の美しさを見せるのなら、とびきりおめかししないとね」
何、言ってるんだ……僕は…
そんな事、全然思っていないのに……
「私はガディ=ジュエの人形なのだから、失礼のないようにしないとね」
その時初めて、僕は『絶望』したのだ。
「…お前、本当にミヴェルか…?」
町の麓で待っていた僕にかけられたのは、自分を疑うカイヤの声だった。
ーーカイヤ…!気づいて…!今カイヤの目の前にいる僕は…僕じゃない!!
「失礼だな。毎日会ってた仲だと言うのに」
意思と全く違うことを僕は口にする。
髪の毛を掻き上げる行為も、真っ直ぐカイヤを見据える行為も、僕がしているわけじゃない…!
僕の身体を乗っ取っているのは……一体誰なんだ…!
「…で、調子はどうだ?仲良くしてんのか?」
「ああ!ジュエ夫妻はいいお方だ。私もエイヴァも、可愛がってくれているよ」
違う……ガディ=ジュエは残酷で最悪で…!僕達を人形としか見ていないのに…!
どうして…僕は微笑んでいるんだ…!
「なあ、エイヴァはどうした?一緒に来たんじゃねーのか?」
「ああ、エイヴァね…、今日は用が出来て行けなくなったんだ…。変換していなければ行けたのにな…」
「…?へんかん?」
「い、いや!何でもないんだ!まあ…エイヴァも元気でやってるから安心して!」
「お、おう!そりゃあ良かったぜ!」
何を言っているんだ僕は……!あのエイヴァが元気に見える訳ないじゃないか…!
今すぐ戻らなくちゃ行けないのに……エイヴァを助けなきゃ行けないのに……!
「助ける」……?なら、わざわざ抗わなくて良いじゃないか。
ーーえ……?
誰だ……お前……
もう1人の……僕……?
「エイヴァはとても綺麗になった。とても可愛らしい」
「会ってみたかったなー!まあ、次に期待しておくぜ」
「早く見せてあげたいよ。本当に、よく出来ている。あの美しい顔立ち、毛並み、表情はエイヴァじゃなきゃ出来ない…。エイヴァはきっと、人々の期待に添える美しいモノとなってくれる…」
カイヤ……違うんだ……それは僕の言葉じゃない……
それは……もう1人の僕……
女性時の……あの人形の僕……!
気付いて……!カイヤ……!!
「…ミヴェル…?」
ーー!カイヤ……!
「あ、ああ、何でもないよ。まあ、楽しみにしておいて。エイヴァにもカイヤの様子を伝えておくよ」
……!!僕は……
「おう!」
カイヤは僕に対しニコリと笑った。その笑顔は……僕ではなく……『女性時』にだった……。
瞬間、世界がぼやける。
気づけばそこは、辺りすべてが真っ黒で、罵詈雑言が響く場所。
僕がこれまでガディ=ジュエに浴びせられた、罵倒だった。
『お前は一生、人形として生きていくんだよ。心も体も……一生リアルで美しい人形としてな』
その言葉が聞こえた瞬間、心臓がドクンと波打つ。苦しさと息苦しさで身体がぐらつく。
侵食している。ガディ=ジュエは、徐々に僕の身体を乗っ取っている……。
「……い…嫌だ……」
苦しい……息が出来ない……
まるで、荒れ狂う竜巻の中に身を投じたような…
鋭い風で身を削られ、吹き荒れる水が息を吸う瞬間さえ与えてくれない……
そんな苦しさ……
「苦しいだろう……?それがお前がずっと溜め込んできた、絶望だ」
「ぐっ……!お……まえは……」
僕の目の前に現れたのは、僕と同じ姿……いや、性別が違う、不敵な笑みを浮かべた『私』だった。
「おとなしく従っていたら、そんなに苦しむ事も無いというのに……どうして、抗うことを諦めないのだい…?」
「……ぼ…くは……エイヴァ…を…守ると決めたんだ……」
「……エイヴァねぇ…。庇わなくても、ガディ=ジュエの前で人形にさえなっていれば、苦しい事も起きなくてすむ…。抗うから、お前もエイヴァも苦しい思いをするのさ…!」
「……そんな…、エイヴァも僕も…人形になる事を望んでない…!お前だって……」
「…はぁ…?望んでいないだって…?それは違うね。お前もエイヴァも、苦しさから逃れたいだろう?その悔しいという感情も、助けを求める事なんて、苦痛でしかないだろう?お前はそういう性格だからな」
何かがぐさりと僕の胸に刺さった。胸元を見ると、鋭く尖った漆黒の針だった。それは『私』の髪の毛から伸びてきている。
「ぐっ…は……」
「臆病で泣き虫で、他人に迷惑をかけたくないと自分で抱え込む、そんなお前の性格が、私は大ッ嫌いなんだよ!!だからお前は……」
「『絶望』して、『女性時』になったんだよ」
『私』から伸びた無数の針が、僕に容赦なく突き刺さる。
苦しい……息ができない……
僕はこの感情を……『絶望』と知ったのだ。
「そうさ!『絶望』だ!私は絶望したんだ!ガディ=ジュエに囚われて、その器を売ったのさ!そして『人形』と化して、そして囚われてゆくのさ……!支配されていくのさ…!」
針が引き抜かれ、僕はその場に倒れ込んだ。
「……お前は……もう『女性時』じゃない……。『女性時』の殻を被った『ガディ=ジュエ』だ……」
擦れる声を絞って言うと、『私』は笑った。
「お前がどこかにまだ希望を求めるなら、自由にしてやってもいい。でもお前が絶望した時は、いつでもその身体を乗っ取ってやろう。これは呪いだ。さあ、どこまで持つかな…?せいぜい足掻くといい…!足掻いている間に、ガディ=ジュエはお前の心を蝕んでいくけどな!」
瞬間、再び世界が揺れる。頭がぐらつく。
僕は初めて、『絶望』と言うものを感じたのだった。
その日から数日が経った。
心の中に潜むガディ=ジュエは、あの時の言葉の通り、僕という人格を残していた。だが、僕が少しでも絶望すると、ガディ=ジュエは僕の心を乗っ取って、『女性時』として勝手に活動する。そして『人形』となる。
それは、カイヤと話している時もそうだった。
……だったら、カイヤに助けを求めたら良かったのでは……。
でも、僕にはそれが出来なかった。
僕の他人に迷惑をかけたくないという性格が、邪魔をしたのだ。
そしてもう一つ、もし助けを求めて、それがバレてしまったら、カイヤは……
……怖い。
そんな感情が、僕の勇気を食らった。
そうしてどんどん侵食されていったのだ。
カイヤとの会話は、僕に現実逃避をさせてくれた。
懐かしい光景を、懐かしい時間を過ごして、喧嘩したり、けど仲良く話し合ったり、楽しいものだった。
エイヴァもこの時ばかりは本当の笑顔で、楽しそうにしてくれている。エイヴァも僕と同じく、カイヤと話すことが唯一の癒しとなっているだろう。
……けど、僕は一向に助けを求めることが出来ないでいた。
そんな日々が続いて、約半年が経った。
いつも通り、表では『人形』として振る舞い、そして裏では、暴力を受ける。
ガディ=ジュエの気が済み、殴るのをやめた後、ガディ=ジュエはこんなことを言った。
「ああ、そうだ。お前が最近大人しく『人形』になってくれるおかげで周囲の評判もだいぶ上がってきた。そこで、近々撮影会を開くことになった。そこでお前を撮る。…だからな、もしそこで今みたいに反抗したとしたら…分かるな」
僕の身体が震え上がる。身体中が傷の痛みとはまた違った痛みに満ちる。
エイヴァを抱いていた力が強くなった。
「……そ、それは……どういう………」
「わからないのか!この屑が!!こういう事を言うんだよ!!」
瞬間身体を容赦なく蹴られた。アザができていたところがより赤黒く染まる。
「ゔ……」
「……ミヴェル……」
震えてかすれそうなエイヴァの声が耳元から聞こえる。
「お前はこれまで拾ってきた中で1番美しい。そしていい感じに熟してきている。だから決してヘマはするなよ。お前は俺の『最高傑作』になるのだから」
そう言い残し、ガディ=ジュエは大声を上げて笑いながら部屋を後にした。
残された中、僕はいつも通りに、エイヴァを励まそうと、頭を撫でる。
エイヴァを守れるのなら、こんな傷、全然痛くない。
いつか絶対、あの笑顔のエイヴァを助けるんだ…!
「大丈夫……。いつかきっと…救われる日は来るから……」
エイヴァの頬を伝う涙を拭ってあげると、エイヴァは余計に泣きそうな顔をしてこちらを見つめた。
「……本当に……救われるの……?」
エイヴァがそう泣きながら言った。その瞬間、僕に嫌悪のようなモノが立ち込める。
……本当に……救えるのか……?
そういえば、ずっと抗うだけで、この状況をどうにも出来ていなかった。
それよりかどんどん悪化して……どんどんガディ=ジュエに囚われて……
……僕は……何をやってきたんだろう……
……なにも、出来てないじゃないか……!
「……怖い……怖いの……殴られるのが、殴られるところを見ているのが…。怖いよ……ミヴェル……」
エイヴァが僕の胸元で泣きじゃくる。
僕はそのエイヴァを……いつものように強く抱きしめることが出来なかった。
……何を……やってきたんだよ……僕は……
このままじゃもう…………僕は……
その時、僕にあの時感じた台風に身を投じたような苦しさが押し寄せてきた。
ガディ=ジュエの染色か……
「う…!…はっ…またお前……!」
胸を刺されたように心臓が……心が痛い。
『絶望』だ。
「ぐあ……は……くそ……!」
駄目だ……どんどん浸食される…
……こんな悪あがきして余計に苦しめるのなら……
……もう、『人形』になってしまえば……
僕が己の苦しみと共にどこからか流れ込んだ風が、僕とエイヴァの綺麗な髪を揺るがす。
……そういえば、少し前から……風が、水が、僕が感情を表に出す度に吹き込んできたな……。
……どうしてだろう……
その時、その風に煽られ、とある1枚の紙が僕の目の前にひらりと落ちた。
その紙に書かれていた文字を見て、僕は…ある人の事を思い出した。
『…最期って言ったのにもう一回だけ俺の『希望』を言わせてくれ。』
この字……この言葉は……
……キルさん……?
『カイヤという『希望』を、頼ってやれ。』
……カイヤ……カイヤ=エスポワール…
その瞬間、僕は苦しみから解放された。そして起き上がる。
ここは……さっきまでいた場所じゃない……
あたりを見回すと、この前のあの暗闇の場所だった。
だが、あの時の罵詈雑言は、何故か聞こえない。
「この場所を……そうだな…、『過去現像世界』とでも呼ぼうか」
後ろから聞き覚えのある低い声が聞こえ、突発的に振り向いた。
「……え……どうして……」
そこには、あの手紙を片手に持った、キル=エスポワールがいた。
「……キルさん……?」
「……やっと気づいたか、ミヴェル=ソワール。全く待ちくたびれた」
「え……」
驚く僕を見て、キルさんはニヤリと笑って見せた。
「キルさん……どうしてここに……、ていうか、この場所……前も見た……ここって一体……」
頭が追いつけない状態で、僕は目の前に立っているキルさんに恐る恐る質問する。
僕のそんな様子を見て、キルさんはニヤリと笑った。
「…ここは『過去』が作り出した世界…。いわば、過去に囚われたモノの世界」
「……過去に…囚われたモノの世界…?」
「ああ、過去を食らう猫だけが『過去』を実体化して見えるのと同じ。ここも過去を食らう猫だけにしか入れない世界だ」
……過去に囚われたモノの世界
確かに、最初にここに来た時も、ガディ=ジュエからの虐待という『過去』からもう一人のガディ=ジュエに乗っ取られた『私』がでできて、そして…絶望した時だった。
さっきも、何も変わっていない現状に、僕は絶望しかけた…。だからここにいるのか…?
……ここは過去に囚われたモノが来る世界…
……という事は……
「……キルさんも……もう過去に囚われてしまったのですか…?」
そう言うと、キルさんは悲しそうな顔をして目をそらす。
「……もう、カイヤには完全に嫌われてしまった。だがもうそれは仕方がない」
キルさんはそう言い、再び僕の方を見る。金色の瞳が僕を捉えた。
「……お前、最後まで自分の性格に囚われていたな。プライドやら心配かけたく無いのやら…。俺は、お前にそうして欲しくて頼んだのではない」
「……キルさん……すみません……僕は……」
ずっと忘れていた事に対して、後悔する。
拳をぎゅっと握りしめて、この感情を噛み締める。
……頼んでよかったじゃないか……
むしろ頼めと……キルさんから頼まれてたじゃないか……
『カイヤという『希望』を、頼ってやれ。』
「……僕は……カイヤに……」
「……チッ、やっと気づいたか。待ちくたびれた」
ため息を吐き、キルさんは真っ直ぐな目で僕を見た。
迷いのない、『希望』が込められた瞳だ。
「再度言う。カイヤという希望を…頼ってやれ」
……カイヤ……
でも僕は……カイヤに迷惑をかけたくない…
キルさんはカイヤを頼ってもいいと言ってくれているけど…カイヤはどう思っているか……分からない……
もしかしたら……
その瞬間、とある情景が思い浮かんだ。泣き叫んでいるエイヴァの目の前で、血を流し、傷だらけになって倒れているカイヤの姿……
…そうはなりたくない……
けれど……僕はカイヤに頼むしか……もう道はない……
これは僕の性格との、葛藤だ。
「……はい」
不安が入り交じった感情のまま、僕はキルさんに返事した。
僕の『性格』が、足枷となる。
『勇気』を踏み出す方法を知っても、『希望』を見出していてもなお、この足枷はなかなか外れない。
……僕/私の心は、縛りついていた。




