僕の希望
小さい頃、
僕は初めて『過去』を見た。
普通の突発型は生まれた瞬間からその能力を発揮するが、突発型の過去を食らう猫は産まれてから最初は他人と同じ食事を摂る。その時は味覚も他人と同じで、美味しいものは美味しいと感じる事ができる。そしてある日、突然味覚を感じる事が出来なくなる。そして目に異常を感じ、そしてこれまで見る事が出来なかった「過去」という物体を見る事が出来るようになる。
過去を食らう猫が見ているという「過去」は、赤黒い例えると臓器のような個体で、赤い液体でヌメヌメしている。最初は誰もがその形状に驚き食らう事を拒むのだが、吸血鬼が血に飢えそれを求めるように、次第に「過去」に飢え求めるようになる。
「過去」の入手方法。一般的に「過去狩り」と呼ばれている方法は、記憶が集まる人間の部位…脳が存在する頭部から過去を取り出すという方法だ。
だが実際、そんな事をしなくても過去を入手できる。過去は何もしなくても地面に転がっているのである。
例を言うと、よく誰かが何か物を何処かに置いた時、居場所を忘れる事がある。「〜何処いったのだろう?」とアレコレ考えている時、「過去」はその人の頭上から落ち、その探している物の場所へと移動しその物の中へ浸透する。人が再びそれを見つけた時、「過去」は再びその物から姿を現し、ゆっくりとその人の脳内へ浸透し戻る。「過去」は自由に行き来している。
エイヴァにとってのソレはあの写真集だった。ミヴェルが写っている『美しき我が愛猫』を始め写真家ガディ=ジュエが遺した写真集だ。
過去を振り返ると、ジエンの図書館でクロヤが以前にそれを回収していた。その時には「過去」は写真集に付着していなかったのだが、クロヤが師匠にその写真集を渡し、師匠がそれを保管していた期間、師匠が食った「エイヴァの過去」が師匠からその写真集に移動し、そしてあの時、シュマンは師匠の懐から落ちたその写真集を見てしまったのだ。そして、シュマンにシュマンの過去の記憶…エイヴァの頃の記憶が入り思い出してしまったのだ。
ところで、何故シュマンがミヴェルと出会ってしまった時に過去を思い出さなかったのか。ミヴェルはエイヴァの過去を一番よく知っている人物。エイヴァの過去がミヴェルに浸透する確率は高いはず。それなのに何故、シュマンは何も思い出さなかったのか。
それは「エイヴァの過去」自体が、ミヴェルを拒んだためである。「エイヴァの過去」の最後、女性時のエイヴァはずっと信頼して愛していたガディ=ジュエを、自分の兄によって殺されてしまった。その時からエイヴァの中のミヴェルは、最愛の父親を殺した殺人鬼として、深く、心に残ってしまった。父親を殺された事が、女性時のエイヴァにとっての深い悲しみ、そして恨みとなり、師匠に保護される日まで、父親を殺した兄に復讐するために、無差別に他人を殺す殺人鬼になってしまった。
『希望』実行時、ミヴェルの行為を見てしまったのが男性時のエイヴァだったのであれば、ちゃんと『希望』は成功できていたのだろうか。
『希望』は、父親の恐怖から男性時のエイヴァとミヴェルを救い出すための作戦だった。だがそれは逆に言えば、女性時のミヴェルとエイヴァにとっては、不都合だったのだろうか。
そして現在、過去を取り戻した男性時のエイヴァ…「シュマン」は、何を思っているだろう。
目を覚ました。まだ頭がズキズキする。
足には足枷、手にはアマノのペンデュラムの鎖がそのまま巻きついていた。
大体推測は出来た。
「…私は…ミヴェルさんを…襲ってしまった…?」
自分に問いかけるようにそう呟くと、こちらの目覚めに気づいたように、何処からかアマノが駆けつけてきた。
「…シュマン様、ご無事で何よりです。良かった…正常でいらっしゃる」
アマノが安心したかのように安堵の息をまじえてそう言った。シュマンは今の状況にあまり付いてこれず目を見開いたままだった。
そして、ふと今の自分が男性化している事に気づく。
「…私は、『シュマン』じゃないんですか…?…外見は私なのに…私とは違う人の過去がある…」
自分でも何を言ってるのか分からない。段々と自分に混乱してきた。
アマノはそんなシュマンの様子を見、そしてそれが正常な「シュマン」の反応である事を確かめた。
シュマンは、まだ完全には過去に食われていないようだ。
そしてあれ程まで苦しい過去なのにそれに囚われないシュマンの精神に、少しだけ羨ましくなった。
「大丈夫ですか?シュマン様。何処か身体に異常はございませんか?」
そう問いかけるとシュマンは戸惑いながらもアマノに笑顔を向けた。
「…私は、大丈夫ですけど…、それは、私の状態であって…、あの、よく分からないです…。説明しにくい…もう一つの過去が存在して...」
シュマンはかなり混乱している様子だ。
「…シュマン様、現時点でそのもう一つの過去とシュマン様の過去を自分の力で見分ける事が可能ですか?」
アマノが冷静にそう問う。シュマンは戸惑いながらも首を縦に振った。
再びその過去を思い出す。自分は、エイヴァと呼ばれた人物を操っている。
そしてふと、自分の思い出した過去の人物が、エイヴァだという事に気付く。
シュマンは何かを思い出したように突然立ち上がった。
「…ミヴェルさんに、伝えなきゃ…!貴方の弟は私だって…!私の過去を食べなくても大丈夫だって!師匠が代わりに食べてくれたから…!だから…!」
そう言ったと同時に、自分の記憶の中にあるもう一つの過去…エイヴァの過去のあの残酷さに目を奪われた。そして恐怖心が湧き上がる。
「いや…、大丈夫なのは男性時の状態であって…さっきもミヴェルさんを襲ってしまった…。私の居ない内に、もう一人の私が…エイヴァが…今も苦しんでいる…」
そう呟きシュマンはアマノの方を振り返った。目には涙が浮かんでいる。
「…私は一体…どうしたらいいんですか…!?」
シュマンはそう叫び俯いた。アマノは少し冷や汗をかき、シュマンに呼びかける。
「シュマン様、とにかく今は落ち着き願います。そうじゃないと、貴方はいつエイヴァになるか…!」
シュマンの背中を摩る。シュマンは深い深呼吸を1・2回し、胸下に持ってきていた手を強く握りしめた。
「…そうですね…。ダメだ…。感情的になるのはいけないって、師匠も言ってたじゃないか…。アマノさん…ありがとうございます。…今は、状況が自分なりに整理できるまで、男性時のままで…」
シュマンはアマノに笑顔を見せた。少し引きつっていたが、それは男性時のシュマンの笑顔だった。
「…とにかく、師匠に会いたいです。…師匠に会えば、少しは落ち着くと思うので…」
アマノは少し戸惑ったが、シュマンの願いに従う事にした。足枷とペンデュラムを外し、シュマンを牢屋から出す。
アマノが自分のペンデュラムを巻き片付けている時に、シュマンが唐突に言ってきた。
「…エイヴァの過去の中で、私の兄が、私の姉に侵食されていってる描写があります…。私の兄…ミヴェルさんは、今も姉に囚われているのですか…?」
現実を受け入れさせたくなかったのだが、アマノはゆっくりと首を縦に振った。シュマンは分かっていた様にアマノを見つめる。
「…そうですか。…あの、私、普通こんな残酷な過去なら、今頃過去に囚われていた…。男性時の時も女性時の時も、ミヴェルさんを襲う殺人鬼だった。でも、今、こうして『シュマン』として、エイヴァとの過去を分ける事が出来ているのは、師匠さんが付けた、この傷のお陰なんです」
そう言いシュマンはいつも前髪で隠れてしまっている右目をアマノに見せた。
その目には大きな傷跡があり、明らかに失明している様だった。
確か、このシュマンの目元の傷は、師匠がシュマンを保護する際に付けた傷だ。
「…『過去』は自由に浮遊し、移動するんです!『過去』も生きているんです!私のシュマンとしての『過去』…師匠に保護されてから築き上げてきた思い出は、『エイヴァの過去』が私の中に入ってくる前に、私のこの右目に、避難していたんです!だから『エイヴァの過去』が『シュマンの過去』を蝕む事は無かった…!」
シュマンはアマノから目を離し、力強く拳を握り、希望に満ち溢れた笑顔でアマノに力強く言った。アマノはそんなシュマンの様子に思わず目を見開く。
「…シュマン様…」
「だから私、師匠に感謝しなきゃ…!師匠は2度も僕を助けてくれた…。今も、あの『希望』の時も…!師匠は…カイヤは、私の中のヒーローなんです!」
「だからこそ、今師匠に会いたいです…!」とシュマンはあのシュマンのいつもの笑顔を浮かべながら、グッと再び拳を握った。
アマノはそんなシュマンの気持ちがなんとなく分かり、そして少しだけ微笑んだ。
後片付けをすると言うアマノと別れ、シュマンが地下室から小さな噴水のあるいつもの広場に戻った時、クロヤが水面を覗いていた。
「クロヤさん…すいません…迷惑…かけてしまいました…」
シュマンは我を取り戻す前の行いを見直し、反省した。同じ保護員を襲ったこと、その事でクロヤを始めとする希少種猫保護施設に迷惑をかけてしまった事、これまで感じた事のない後悔の念がシュマンを襲った。
クロヤはこちらを振り向き、立ち上がった。
「…シュマン。もう大丈夫なのか?」
クロヤがそう言うと、シュマンは俯きながら「…はい」と消えてしまいそうな声を出した。
しばしの無言。その間の空気が、シュマンには重くのしかかるように感じた。
「…シュマン」
クロヤがシュマンの名を言う。シュマンは少し動揺したが、顔を上げる自身もなく、俯いたままだった。
「…お主は、エスポワールの『希望』を、信じるか?」
「え…」
シュマンは勢いよく顔を上げ、クロヤを見た。
クロヤはシュマンをその特徴のあるグルグルとした赤染みた目で捕らえ、決して離さなかった。
その瞳の奥には、希望が見えた。
「我は、信じておるぞ。エスポワールの『希望』を。お主はどうなのだ?」
クロヤが明るい口調でそう問いた。そしてシュマンに対してそっと微笑む。
シュマンにはそんなクロヤを見て、唐突にある感情が湧き出てきた。
僕の『希望』は、一体何なのだろう。
…そうだ、僕は師匠の『希望』に、助けられているんだ。
10年前のあの一瞬だけが『希望』じゃない。『希望』はいつも存在した。
僕を保護する時、暴走した僕を師匠が助けてくれた時の師匠の行為も、『希望』だ。
これまで師匠が僕に授けてくれた愛情も…僕の進む『道』を築き上げてくれたのも、すべてが師匠の…カイヤ=エスポワールの『希望』だったんだ。
シュマンとしての過去も、師匠がいなきゃ成り立たなかった。
僕は、『希望』に生まれ、生きている。
希少種猫保護施設に入って保護員になったのも、ジュネス姉さんやクロヤさんとの出会いも、悲しい思い出も、師匠がいつもそばに居た。
僕としての過去の全てが、師匠の『希望』の行き着く先であった事を、やっと気づく事ができた。
例えどれだけ『絶望』を味わったとしても、変わらない思いがある。
僕に対して、自身が持てる!
師匠を、信じている。
カイヤを、信じている。
『希望』を、信じている!
だからもう一人の自分に怖がる必要はない。
信じる事は凄く素敵な事だから、僕は迷わない。
だって、現時点で、僕はシュマンなのだから!!
「私…僕も信じます!カイヤ=エスポワールの『希望』を!!」
シュマンはいつもの偽りのない笑顔をクロヤに見せ、希望の念を込めた言葉を発した。
「そうとなれば!師匠に早く会いたいです!ちゃんとお礼を言わなきゃ…!僕をここまで愛情を持って育ててくれたんですから!クロヤさん!師匠はどこにいますか?」
シュマンが急ぎ足でクロヤのもとに駆け寄り、クロヤの手を掴んだ。クロヤはシュマンの瞳に圧倒され驚き戸惑う。こっちを真剣に見つめるシュマンに動揺する所10秒、クロヤは咳払いを一つしてシュマンに言い聞かせた。
「…シュマン、お主の『師匠』は、今ここにいない。代わりに今、『カイヤ=エスポワール』がミヴェルの所にいる。お主は、今のままでは『師匠』に会う事ができない。お主が今完璧に『シュマン』なのであれば、ホンモノの『師匠』に会える事が出来るだろう。お主の意思は分かっておる。だがお主は、心身共に本物の『シュマン』なのか?」
クロヤはそう言いシュマンの手を離した。シュマンはクロヤの言う事を最初、はっきりと理解出来ず、硬直状態に陥った。固まるシュマンに、クロヤが続けて言う。
「…お主は、元は『エイヴァ=ソワール』なのだろう?人は誰でも過去に浸る。お主だって人なのだから、カイヤ=エスポワールとミヴェル=ソワールとの10年ぶりの再会に、嫌でも過去に浸ってしまうだろう。カイヤは一人だから行かせる事が出来たのだが、お主は一人とは限らないぞ。いくら気持ちが『シュマン』なのだとしてもお主の本体は『エイヴァ』だ。カイヤとミヴェルに出会う事で、お主が過去に囚われてしまう事を我は深く恐れておるのだ。だから…エイヴァと決着が着くまで、行かないでくれ」
クロヤはまるで自分も同じ経験をしたことがあるのように深くゆっくりとシュマンに言い聞かせた。シュマンはやっと理解する。
簡単に言えばそれは、『過去』と『記憶』の生き残りをかけた一大戦争であろう。
シュマンは今、どうすれば良いか分からなかった。自分は現時点で「男性時」であるが、その『シュマン』という人格は、師匠の『希望』により出来た『記憶』で作られている。エイヴァが師匠によって過去を食われ、エイヴァがシュマンとして過ごしてきたあの楽しい思い出だ。
でもシュマンは元は『エイヴァ=ソワール』だ。ミヴェルの弟、又は妹であり、師匠…カイヤ=エスポワールの幼なじみである。それはシュマンとして生きていく以前の『過去』が物語っている。エイヴァは以前の『過去』にきっと囚われている。そしてエイヴァはきっと、いつの間にか自分の中に存在してしまったもう一つの『記憶』…『シュマン』の記憶をよく思っていないだろう。
そしてさっき、その『エイヴァ=ソワール』が目を覚ました。エイヴァは男性時と女性時の身体を所有していたが、それは大きく「女性時」の方へ傾いた。10年前の『希望』実行時、エイヴァが当時幼き身体で男性時と女性時で若干の他人からの扱いの違いを感じつつそれぞれの性別に応じた行動を取っていた時、「女性時」の方の性格に限界が来た。
その『希望』はエイヴァにとっては究極の選択であっただろう。あの光景を見たのが女性時であれ男性時であれ、エイヴァは自分の中の二つの性格に、決着をつけなければいけなかった。
そしてエイヴァが出した答えは「女性時」。ミヴェルを深く恨むことで肉体的、精神的ダメージをから解放される事を選んだ。エイヴァはそう決めたのだ。例え誰が男性時の方がメリットがあると説得しても、エイヴァはその小さな身体で「女性時」を選んだのだ。エイヴァが間違っていたのかについては、何も言えない。
そしてその時からエイヴァの「男性時」の殻は、「女性時」に染色された。気持ちは「女性時」で、「男性時」は有利に想いを実行するための道具と化した。逆に言えばそれは、本来あるべき『両性』の姿に戻ったと言ってもいい。元々エイヴァの過去は特殊だったのだ。
そしてエイヴァとしての『過去』が師匠にとって強制終了され、今日までエイヴァの身体はシュマンに占領されていた。
そして『過去』を取り戻した時、エイヴァはずっと傾いていた「女性時」の身体を奪い返し、殻として、道具として扱っていた「男性時」をシュマンに占領されたまま、今を生きている。
究極の選択が再びやって来た。
エイヴァとしての『過去』か、シュマンとしての『記憶』か、僕はどちらかを選ばなければいけない。
以前のように傾いた想いで決めてはいけない。お互いの気持ちを尊重するやり方を決めなければいけない。
これがきっと「葛藤」というやつなのだろう。
シュマンは深く考えていた。やり方を決めるといっても、シュマンの状態ではもう一人の思いを知る事は出来なかった。自分の事なのに、まるで他人ごとのようだ。
しばらく考えたのち、ある考えに辿り着いた。
「…クロヤさん。僕にテストしてください。僕が『エイヴァ』と『シュマン』のどちらなのかを、証明するテストを」
シュマンはクロヤの目を自分の漆黒とした片目でしっかりと見てそう言った。クロヤは案の定、首を傾げる。
「テスト…?…協力はするが、どんな事をすれば良いのだ?それを教えてくれまいと困る」
「…僕は再び、『エイヴァ』になります。エイヴァは必ず目の前にある邪魔なモノ…クロヤさんを殺してからミヴェルさんの元に行くと思います。そこで、クロヤさんにはエイヴァに僕の事を伝えて欲しいんです。『エイヴァ』が『僕』の事を少しでも分かっていて、認めてくれているとしたら、僕はきっと、エイヴァの姿のままシュマンで居られる。でも、認めてくれていなかったら、『エイヴァ』は僕を殺して何も考えずにミヴェルさんを殺すでしょう。…現時点で、エイヴァが僕を認めてくれる保障はありません。でも、例え僕が『エイヴァ』だったとしても、それが僕の選択であって人生です。僕は信じます!それが僕の『希望』なんですから!」
シュマンは手を胸に押し当て、威勢の良い声を放った。素晴らしい目をしている。
クロヤはそんなシュマンを見て、過去の自分の面影を感じた。
この子なら、自分が出来なかった事を、やり遂げる事ができるだろう。
クロヤは目の前の希望にうなづいた。
選択の時が、始まる。




