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第一話「黒き剣奴」

*第1話「黒の剣奴」


 石造りの控室に具足を鳴らしながら男が迎えに来た。

 男は手に持った槍で床を一つ叩いて、

「マヴーロ!出番だ!」

 呼ばれて顔を上げたのは年若い少年だった。男よりも背が低く、顔立ちが幼いので十五歳前後に見えるが、引き締まった体躯のため貧弱な印象はない。

 首には奴隷を示す黒い首輪が嵌められている。それ以外には裸に鉄製の兜、腰巻、皮の具足だけ、手には剣と盾。典型的な剣闘士の装束である。剣も刀身七〇センチ程の一般的なものだ。

 ここはグラディウス王国が保有する第三闘技場テルティウムコロッセウム。マヴーロと呼ばれた少年はここで開かれる闘技会に出場する剣闘士だ。

「来い!」

 マヴーロは立ち上がり、男の横を通って廊下を歩き出した。その様子を男は警戒と気味悪さを混ぜ合わせた表情で眺めていた。

 この第三闘技場テルティウムコロッセウムの係員を務める男にとってマヴーロは小柄の部類に入る男だ。剣闘士にはマヴーロよりも一回りも大きい者は当たり前であり、中には猛獣の首を素手で捩じ切る怪力の持ち主もいる。

 だが、マヴーロにはそういった怪力の持ち主たちにはない不気味なものがあった。

 黒い髪と(・・・・)黒い瞳(・・・)

 それはアルクスゲムマ大陸において、神の祝福を(・・・・・)与えられな(・・・・・)かった者の色(・・・・・・)だ。

 穢れ(・・)を象徴する漆黒を髪と目に宿す人間を、男は、グラディウス王国の民はマヴーロの他に知らない。

 災いを齎す者。

 悪魔憑き。

 魔獣の合の子。

 人喰い魔女の下僕(しもべ)

 妖術の使い手。

 噂は様々ある。その中でも『妖術』を使うところを男は幾度となく目にしていた。

 その証拠のように男の前方を歩くマヴーロからは一切の足音が聞こえてこない。石造りの廊下は観客席からの歓声が響いていたが、足音をかき消す程の音ではない。

「……っ」

 慣れることのない気味悪さに、男は喉を鳴らして槍の柄を強く握りしめた。早く行け、と念じる男の心中とは裏腹にマヴーロの足取りが変わることはなかった。


―――――――――――――――――――――――――――――


 背後で慌てて遠ざかっていく気配を意識の外に追いやってマヴーロと呼ばれた少年――武田仁(たけだじん)闘技場(コロッセウム)の中心に視線を向けた。

 前座の闘いの後片付けを終えた舞台には、血の跡と足跡しか残っていない。

(相手は虎みたいな魔獣。全長は三メートル前後。得物は槍。手傷は負ったが勝ったのは人間か)

 しかし、仁にとってはそれだけでも闘いの様子を推察するには十分だった。噂話の妖術ではなく、純粋な洞察力と経験で闘いの状況を脳裏に思い浮かべたのだ。

 もっとも、不吉な髪と目(・・・・・・)を持つ仁と必要以上にかかわりを持とうとする者などいないので、仁の推察を聞いて妖術だ、と騒ぎ立てる者もいなかった。

 視線を中央からさらに先へ、対戦相手へと向ける。

 そこには自分とまったく同じ格好をした髭面の大男。裸に鉄製の兜、腰巻、皮の具足だけ、手には剣と盾。仁と同じ典型的な剣闘士の装束だ。唯一違うのは首に奴隷の黒い首輪を着けていないことだけだ。

 闘技会が盛んなグラディウスでは一般市民が剣闘士となるのはそう珍しいことではない。勝者に与えられる賞金は高額となる。力自慢が金と名誉を求めて闘技場(コロッセウム)へと集うのだ。

「マヴーロ!」

 呼ばれ、剣を胸の前に掲げて歩き出す。

「カルロ!」

 対面ではまったく同じ動作を対戦相手が行っていた。

 距離が近付く。カルロと呼ばれた大男は仁よりも一回り以上も体格が良い。カルロの剣の刀身が九〇センチ程なので、腕の長さと合わせて考えれば間合いの取り方を間違えれば一方的に攻撃を受けることになる。

 仁は足を機械的に動かしながらカルロの動きや癖をつぶさに観察する。否、動きや癖だけでなく、重心の位置、視線の動き、更には呼吸のリズムや思考すら読み取ろうとする。

 読み取り、歩調を合わせ、呼吸を同調させ、思考を合一させる。

 足を止めたのはまったくの同時だった。距離は仁の踏み込みで二投足。

 カルロの目を見る。あるのは野心と闘志。伸し上がってやろうとする野心と目の前の相手を打ち倒そうとする闘志。精神状態は戦闘開始前において良好。当然ながら不吉な黒色(・・・・・)に腰が引けてはいない。

 二人の頭上に対峙する二人を拡大化した幻影(ビジョン)が浮かぶ。遠目でも観客が闘いの詳細を観られるようにと配慮された魔法処置だ。仁の黒髪と黒瞳にいつものどよめきが上がる。

「――――」

「――――」

 睨み合う二人に、観客席の声が波を引くように消えていった。誰もが緊張感の高まりを肌で感じ、瞬きもせずに二人の剣闘士を見つめる。

 張りつめた糸が音を立てて切れる瞬間、

 ――プアァァァァァァァァァァァァッ!!!!

 開戦のラッパが高らかに響き渡った。

 ラッパが鳴り響くとすぐに仁は左手の盾を投げ捨てた。

 ――ワアァァァッ!!!

 同時に観客席から大歓声が沸く。仁にとっては最初、邪魔な(おもり)を外すための動作だったのだが、今では立派な示威行為(デモンストレーション)となってしまっている。

 盾を天に掲げる動作は敗北を認める証である。その盾を投げ捨てる。つまり『己に敗北はない』というパフォーマンスとなってしまったのだ。

 観客の盛り上がりはそれを見た闘技会の主催者が直々にパフォーマンスの続行を――仁は最初の試合以降は盾を持たずに入場しようとしていた――命じた程だ。奴隷である仁に否と言うことは許されず、諦観を込めて見世物になることを甘んじるしかなかったのである。

 軽くなった左手を剣の柄に添えて左足を前に半身になり、刀身を体の後ろに隠す脇構えに構える。重心の位置も、用途も刀とは違うが贅沢を言っていては目の前の大男(カルロ)に斬り倒されてしまうだけだ。

 違和感の消えない得物を手に、すり足でカルロとの間合いを削る。

 その姿を消極的と取ったのか、

「ぅおるぁああああっ!」

 雄叫びとともにカルロは突進、上段から剣を振り下ろしていた。

 斬撃の軌道を見切った仁は一歩左へ踏み込むことで袈裟切りを回避すると同時に剣を上段へ。

「っ!」

 無防備な右の肩へ斬撃を放つ。

 突進からの体重を乗せた振り下ろしの直後への攻撃。不可避の一撃は打ち込んだのが面ならば剣道の試合で確実に一本を宣告されたことだろう。

 だが、これは竹刀を使った試合ではない。鋼の刃を用いた闘技会。観客が望むのは血飛沫が舞う真剣勝負だ。刃引のされていない真剣が対戦相手(カルロ)の肉を切り、骨を断たんと奔り――


 ――剣と盾が噛み合う音が鳴り響いた。


 カルロは空振りとなった一撃の後、仁の反撃に即座に反応して盾で防いでみせたのだ。

 剣闘士に限らず、剣と盾を用いての戦闘は敵の攻撃を盾で防ぎ、盾の防御を超えて剣を叩き込むことが基本となる。まず必要になるのは剣の軌道を見極める胆力と剣戟を受け止める腕力だ。

 剣を押し込もうと体重をかける仁だが、カルロは腕力で押し返した。二人の体格差は一回りも違う。その体格差は筋力差となって仁を押し飛ばす。盾で押し返してからの横薙ぎの一撃を、仁は押される力に逆らわずに飛ぶことで後方にかわした。

 開いた間合いは当初と同じ二投足の間合い。

 だが、カルロの髭面は獰猛な笑みに歪んでいた。一連の攻防で確信した絶対的な腕力の差。それは剣戟の重さに、防御の堅牢さに色濃く表れる。

「おおっ!」

 勝利の確信にカルロは地を蹴った。

 先と同じ突進からの袈裟切り。違いは振り下ろしの後、反撃を許さない連撃となって剣が斬線を描いたことだ。

 その全てを見切り、躱し、弾く。決して正面から受け止めたりはしない。受け止めてしまえば腕力で劣る仁は体勢を崩され瞬く間に打ち倒されてしまうだろう。

 カルロの目を見据え、剣の軌道ではなく体全体の流れを読む。次の攻撃ではなく、二手先、三手先の攻防に意識を置く。回避、防御、そして攻撃を一連の流れとして闘いを組み立てる。

 ――ギイィン!

 鋼の打ち合う音が響き渡る。カルロの斬撃を刀身の側面に当てることで力を逸らしたのだ。手には重い手応え。体格差、体重差から来る斬撃の重さは予想通りだ。だが、決して予想以上ではない。

 ――ギイィン!

 また一合、鋼を打ち合う音。手に響く衝撃に、仁は覚悟を決めた。

 鋼の凶器が血の花を咲かせようと連続で閃く。その煌めきに魅入られたように仁は剣で弾くことを止め、紙一重の回避を繰り返す。裸の肌の上を剣風が何度も撫でていく。盾を捨てた彼を剣が捉えれば致命傷となっても不思議ではない。それだけの重さと剣速がカルロの剣にはあった。

 そうとわかっていながら死線の上を舞うように仁の足捌きに淀みはない。足を止めれば剣での防御を行わなければならなくなる。仁の技量ではカルロの斬撃の衝撃を完全に受け流すことができない。半端な防御の後に有効な反撃を行える程、カルロは甘い相手ではない。

 首を掠める死を感じ、だからこそ強く感じる。ここ(・・)がゲームではなく現実であることを。地球の日本ではなく、アルクスゲムマという大陸にいるという実感を。

 それは生の実感だった。

 背筋が凍るような死の気配。だからこそ浮彫になる生の感触。これだけの生の実感を日本では一度として味わったことはない。祖父との木刀を使った稽古でもなかった。

(そうだ、これは稽古じゃない。ここは闘技場(コロッセウム)。これは真剣を使った勝負……!)

 悠長な思考に知らず苦笑が浮かぶ。カルロの腕は決して余裕を見せていいものではない。一瞬の判断ミスで敗北を刻まれることだろう。

 だが、心とは裏腹に仁は笑みを深くした。まるで余裕を見せるように。

「――っ!」

 カルロの剣筋がわずかに乱れた。髭面に焦りの表情が浮かぶ。

 攻勢でありながら一向に届かない攻撃と、防戦一方でありながら浮かべられた余裕の笑み。その二つに精神を乱され、カルロの剣がこれまでで一番大きな弧を描く。

「おぉるぁああああああ!」

「――――」

 仁はその大振りを完全に見切り、これまでで一番深く踏み込んだ。剣の間合いよりも深く、手が触れるほどに深く。

 踏み込み、剣を持たない手をカルロの脇腹に添え、軽く押し出す。

 次の瞬間、カルロの体は半回転して背中から地面に墜落した。息がつまり、思考が混乱する。何が起きたのか認識できない。それでも辛うじて体を素早く起き上がらせて膝立ちになったのは流石と称賛すべきだろう。

「何だ?」「何が起きたんだ?」「妖術だ!」「あいつの体が宙に浮いたぞ」「妖術だと?」「手を当てただけで吹っ飛ばしたんだ!」

 宙に映った幻影(ビジョン)を見ていた観客には勿論、体感したカルロ自身にも何が起きたのかわからなかった。まるでカルロが自分から体を投げ出したように見えたのだ。

『重心を崩して転ぶ方向に体を誘導して投げた』と説明したとしてもカルロにも観客にも理解できなかっただろう。彼らにとって『投げる』とは『体に組み付き抱え上げて地面に叩き付ける』或いは『組み付きから地面に押し倒す』動作を指すのだから。

 致命的な隙を晒したカルロの眼前に仁が立つ。

 大上段に構えられた剣を見たカルロは膝立ちの状態からとっさに盾ではなく剣を振り上げていた。

「疾っ!」

 同時に仁も気を吹いて剣を唐竹に振り下ろす。

 独特の息吹を持って気血(オド)を巡らし、地を蹴った力と刀身の重さ、そして(オド)を切っ先に乗せて渾身の斬撃を放つ。

 振り上げられた剣と振り下ろされた剣が交差し――

 

――鋼を断ち切る甲高い音が闘技場に響き渡った。


 分厚い刀身が大上段からの唐竹割りによって綺麗に断ち切られ、ここに古流剣術上代流(かみしろりゅう)が奥義『黒鉄断ち(くろがねだち)』は成った。

 半ばから切断された剣を見て呆然とするカルロに切っ先を突き付けて仁は一言告げる。

「続けるか?」

 眼前の切っ先と仁の黒い瞳を呆気に取られた表情で交互に見ていたカルロの顔に徐々に恐怖の色が浮かぶ。

 闘技会に参加する剣闘士には公平さが求められる。それ故に多くのことが禁止されている。その最たるものは魔法行使の禁止と魔法具の使用禁止の二つである。

 一つ目を禁じるために闘技場の舞台には魔法の行使を妨害する魔法陣が刻まれている。この魔法陣の上で魔法を行使できるのは希少な魔法使いの中でもさらに一握りしかいない。当然、仁はその中に該当しない。そもそも魔法が行使されたならば魔力(マナ)の輝きで気付かない筈がない。

 二つ目は魔法が込められた器物や、魔法で鍛えられた魔剣の持ち込みを禁じるために剣闘士は試合の前に必ず身体検査を受けなければならない。検査で許可されている防具武具以外の持ち込みが厳しく取り締まられるのだ。具体的には防具は鉄兜、腰巻、具足、盾のみ、武器は一つだけである。無論、魔力(マナ)が宿る物はその場で没収である。

 身体検査の立会には対戦相手の関係者一名までが同席を許されている。カルロが信頼を置く人物が(マヴーロ)の不正を監視していたのだ。しかし、(マヴーロ)は身体検査を無事に通り抜けた。

 (マヴーロ)魔力(マナ)の輝きもなく触れただけで自分よりも一回りも大きい男を投げ、剣の一振りで鋼を断ち切る。まるで妖術でも使ったかのような一戦に観客から一際大きな歓声が上がった。

 信じられない、とカルロはまだ剣と仁を見比べている。彼には如何なる術理を用いれば、あの細腕が自分を投げ飛ばし、鋼を断ち切るなどという荒技が可能となるのか想像も付かないのだ。

 敵の力すら利用する(やわら)の技。古流剣術の奥義である斬鉄(ざんてつ)の技。どちらも単純な腕力だけでは成しえない技。天賦の才と壮絶な鍛錬を必要とするが、純粋な肉体運用の技術によるものだ。

「続けるか?」

 淡々とした声が呆然自失するカルロの意識を現実に戻した。見上げれば、一切の緩みもなく引き締められた黒の双眸と目が合った。カルロが何らかの行動を起こせば即応できるように残心を解いていないのだ。

「……続けるのか?」

 低くなった声にようやくカルロはのろのろと左手の盾を天に掲げた。敗北を認める動作に、決着の合図に観客が割れんばかりの歓声を上げる。

 仁は心神喪失状態のカルロを視界に収めたまま一歩下がり、踵を返すと歓声に構うことなく歩き出した。その背中を見送るカルロの顔には紛れもない畏怖があった。


―――――――――――――――――――――――――――――


 控室に戻った仁はすぐに着替え始めた。

 仁が剣闘士として闘技会に出場するようになって一年。腰巻だけの恰好に慣れてきたが、好き好んでこの恰好で居続けるような露出癖を持ち合わせてはいなかった。

 袖を通したのはアルクスゲムマ大陸では珍しい藍色と白を基調とした和服。仁の所有者(しゅじん)が仕立ててくれた一品だ。

 仁は帯を締めたところで首に手をやった。指先に血の感触。皮を裂く程度だが、カルロの剣が首という致命の急所に届いた証明である。

 満足半分、不満半分。それが仁の偽りなき本心であった。

 上代流(かみしろりゅう)が奥義『黒鉄断ち(くろがねだち)』は文句のない会心の一撃だった。分厚い刀身を持つ西洋剣を綺麗に断ち切れたのは出来過ぎと言ってもいい成果だ。

 しかし、奥義を放つまでの道程は問題だらけである。

 カルロの突進の予想外の速さに大きく距離を取ってしまい、初太刀を防がれてしまった。その後はカルロを調子に乗らせて防戦一方。受け流しを完璧に出来ていたなら紙一重での回避を繰り返す必要もなかった。

 カルロが攻撃が当たらないことに焦り、太刀筋を乱さなかったらもっと苦戦していたことだろう。最終的に余裕があるように見せてカルロの虚を作り、最大の攻撃で武器を破壊して戦意を挫くことができたが、一歩間違えれば仁の首は飛んでいたのだ。

 勝負にたられば(・・・・)を言っても意味はないが、勝ったからと安心できるものでもない。反省点を拾い、次に生かせなければ死期を早めることになる。

 ――コンコン。

 控室の扉がノックされたのは仁が試合の内容を一通り検討し終えたころだった。

「どうぞ」

 振り返りながら返事をすると、予想通りの人物が控室に入ってきた。仁の所有者だ。

「お疲れ様、ジン」

 労いの言葉をかけたのは仁と同い年くらいの灰色の外套と白いローブを着た少女だった。腰まで伸ばした雪原のような白い髪とエメラルドのような翡翠の瞳を持ち、人形のように整った顔立ちをした美少女である。

「怪我をしたの?」

 彼女は仁の首筋に滲む血に気付くと慌てて駆け寄ってきた。綺麗な白い手が仁の首筋に添えられると淡い光が傷口を覆った。

 それは魔力(マナ)の輝き。世界に満ちる“力”の流れを体内に汲み取り、練り上げて魔力(マナ)を精製し、仁の肉体の治癒力に魔力(マナ)を与えて、治癒を促進する魔法の業。

 時間にして数秒。魔法使いの少女がハンカチで首筋を拭うと、首筋の傷は跡形もなく消えてしまった。

「ありがとう、ステラ」

「どういたしまして」

 仁が短く感謝を述べると、少女――ステラは微笑んでハンカチを仕舞った。美少女の微笑みを至近距離で見た仁は、さり気無さを装って視線を逸らした。ステラに拾われて一年になるが、その美貌に慣れることはない。ドキドキと早鐘を打つ心臓を必死に静めつつ、灰色の外套を羽織った。

「ステラの用事は終わったのか?」

「ええ、行きましょうか」

「ああ」

 剣闘士の装備一式が入った布袋を持ち上げ、仁はステラの横に並んで歩き出した。

 石造りの廊下を誰にも遭遇することなく進み、外へ。

 強い日差しの下に足を踏み出すと、ざわめきが波紋のように広がった。仁は眉一つ動かさなかった。この一年で慣れてしまった視線が頭部に注がれているのが分かる。

 視界には煉瓦造りの建物が並ぶ大通りがあった。仁の住んでいた地球で言うなら中世ヨーロッパ風の街並みである。闘技会を終えたばかりなので、大勢の人々で賑わっている。

 金髪や銀髪、茶髪や赤毛、さらには青色や緑色と地球では見られない髪色の人間もいるが、誰一人として黒髪はいない。神の祝福を得られなかった黒色は人間に宿る色ではないのだと仁は聞いている。

 世界が違えば、法則も違う。

 恐らく、この異世界の住人の遺伝子には黒色の色素がないのだろう、と仁は予測している。遺伝子の概念も技術もないこの世界ではその真偽を確かめることはできないが、アルクスゲムマの歴史の中で黒髪の人間がいなかったのは事実らしい。

「マヴーロだ」「今日も妖術を使ってたよな」「こんな近くで初めて見た」「隣にいるのが白い魔女だろ」「大男を触れただけで吹き飛ばしたって本当?」

 街の人々の視線と呟きを受け流して、仁はステラの一歩後ろを歩いた。ステラの奴隷である仁が肩を並べて歩くと余計ないざこざが起きてしまうことを経験で知っている。ステラは気にしなくていい、と言ってくれるが頼る者のいない異世界で拾ってくれた恩人の迷惑にはなりたくないのが仁の本音だった。

 二人が歩く先で人混みが割れていく。街の人々の反応を見れば、黒髪に対する忌避感がよく分かる。もし一年前に自分を拾ってくれたのがステラではなく違う誰かだったら、武田仁はとっくに野垂れ死にしていただろう。奴隷剣闘士――剣奴としてではあるが、日々の糧を得る手段もある。黒髪というだけで真面な扱いが期待できないのだ。後は賊に身を落とすくらいしか思いつかない。

 無心に足を動かしながら、仁はステラと初めて出会った時のことを思い出していた。





読んで頂きありがとうございます。

初投稿ですが、完結目指して頑張ります。

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