第1話:嘘つきと、鎖に繋がれた犬
「……おい。聞こえてんのかよ、ガキ」
濡れた石畳を叩く雨の音に混じって、低く濁った声が響く。
帝都の最果て、呪われた異能者が吹き溜まる「監獄都市」。その裏路地で、エルザ・フォン・アムゼルは最悪の夜を迎えていた。
「聞こえてるわよ。あんまり汚い声で喋らないで。耳が腐るわ」
エルザは泥に汚れたドレスの裾を払い、不敵に口角を上げた。
かつては帝都でも名の知れた名門貴族。今や親の借金を背負い、家も名誉も失った「没落令嬢」だが、彼女にはたった一つ、誰にも負けない武器があった。
それは、**「嘘」**だ。
「いい? 私はこの都市でも指折りの呪術師よ。私に指一本でも触れてごらんなさい。明日の朝にはあんたの体、内側からヒキガエルが突き破って出てくることになるわよ」
はったり。完全なる出まかせである。
エルザには魔力などこれっぽっちもない。だが、彼女の堂々とした態度と、射抜くような碧眼の迫力に、大柄な借金取りたちが一瞬たじろぐ。
「……ケッ、ハッタリ言ってんじゃねえぞ!」
男が拳を振り上げる。
(――あ、これ死んだわ)
エルザは悟った。彼女は静かに目を閉じ、せめて最後は令嬢らしく美しく散ろうと覚悟を決める。
だが、殴打の痛みは来なかった。
足元の腐った床板が、不自然な轟音と共に崩落したのだ。
「きゃあああっ!?」
エルザの体は、闇の底へと吸い込まれていった。
「痛たた……。生きてる……わよね?」
どれくらい落ちたのだろうか。
湿り気を帯びた冷気。地下特有のカビ臭い匂い。
エルザが顔を上げると、そこは石造りの広大な地下室だった。かつてこの都市が監獄だった時代の、忘れ去られた最下層。
そして、彼女の目の前には。
「……何、これ」
部屋の中央。巨大な魔力封印の鎖に繋がれた、「それ」がいた。
白銀の長い髪。透き通るような白い肌。月の光さえ届かない場所だというのに、自ら発光しているかのような神々しい美貌。
それは、一人の青年だった。
だが、彼から放たれるのは人間のものではない。心臓を直接掴まれるような、圧倒的な「死」の気配。
「……誰、ですか」
銀の睫毛が揺れ、紫色の瞳がゆっくりと開かれる。
その声を聞いた瞬間、エルザの本能が警鐘を鳴らした。
(まずい。これ、さっきの男たちより何万倍もヤバい。本物の『化け物』だわ)
逃げなきゃ、と足が震える。
だが、階上からは借金取りたちの罵声が近づいてくる。戻れば殺される。なら、目の前のこの「異形」を騙し通して、守らせるしかない。
エルザは震える膝を叩き、凛とした声を作った。
「……私の名はエルザ。あなたの封印を解きに来た、高名な術師よ。さあ、私に従いなさい。そうすれば自由をあげてもいいわ」
それは、死を招くほど大胆な嘘だった。
青年は、エルザの瞳をじっと見つめた。
彼女の指先が震えていることも、冷や汗が流れていることも、その言葉がすべてハッタリであることも。彼はすべてを見抜いている――そんな気がした。
だが。
「……ふふ」
青年は、鈴を転がすような声で笑った。
「自由、ですか。そんなものに興味はありませんが……。あなたの瞳、とても素敵だ」
彼は立ち上がった。
ガシャンッ! と、部屋中に響き渡る金属音。
大の大人が数十人がかりで引いても壊せないはずの特級封印の鎖が、まるで飴細工のように、彼の動き一つで粉々に砕け散った。
「ひっ……!」
腰を抜かすエルザの元へ、彼は音もなく近づく。
そして、彼女の前に膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「僕の名はシオン。かつてこの国を滅ぼしかけた罪で、ここに捨てられた化け物です。……エルザ様。あなた、嘘をつくのが下手ですね」
シオンはエルザの手を取り、その手の甲に熱い唇を寄せた。
彼の瞳には、狂気にも似た、深い、深すぎるほどの悦びが宿っている。
「あなたが嘘をつくとき、その碧い瞳が微かに揺れる。……たまらなく愛おしい。いいですよ、あなたの『嘘』に付き合いましょう。僕をあなたの『犬』にしてください」
「え……?」
「その代わり、一生僕を飼ってくださいね? もし逃げ出そうとしたら――その時は、あなたの両足を食べて、どこへも行けないようにして差し上げますから」
極上の微笑みと共に放たれた言葉に、エルザの背筋が凍りつく。
助かった、と思った。同時に、借金取りよりもずっと恐ろしいものを拾ってしまったと確信した。
その時、地下室の入り口に男たちが現れた。
「いたぞ! クソ尼、逃がさねえって――」
「静かに。僕の主人が怯えているじゃないですか」
シオンが振り返る。
彼が指先を軽く振った瞬間。
暴力的なまでの魔力の奔流が、一瞬にして男たちを壁まで吹き飛ばし、肉の塊へと変えた。血の一滴もエルザに飛ばさない、完璧で残酷な「掃除」だった。
「……さあ、行きましょうか、ご主人様」
シオンはエルザを優しく抱き上げ、まるでお姫様を運ぶかのように軽やかに歩き出す。
「僕は、あなたの嘘を真実にするために存在します。あなたが『最強の術師』だと言うのなら、僕は影で世界を滅ぼしてでも、それを証明してみせましょう」
「……ちょっと、待って。私、そんな物騒なこと頼んでない……っ!」
「いいえ。あなたは僕を選んだ。……死ぬまで、離しませんよ」
こうして、没落令嬢の「嘘」と、美しすぎる化け物の「献身」という名の執着が始まった。
雨上がりの帝都に、狂った恋の香りが漂い始めていた。




