第5話:止まらない水
越える瞬間は、あまりにも静かだった。
堤防の上。
濁った水が、わずかに縁を越える。
溢れる、というより。
滲む。
歓声も悲鳴もない。
映像だけが、研究室のモニターに刺さる。
遅れて、現実が追いつく。
潮位。
86cm。
94cm。
102cm。
止まらない。
ライブ映像が切り替わる。
港。
住宅街。
商店街。
車が、ゆっくりと浮く。
最初はタイヤだけ。
やがて完全に持ち上がる。
くるりと回る。
静かに。
ガラスに水が叩きつけられる。
音が遅れて届く。
玄関まで水が来る。
段差を越える。
ドアの隙間から、じわりと侵入する。
生活が、水面の下へ沈んでいく。
看板が、水面に反射して歪む。
文字が読めない。
現実も、少しずつ輪郭を失う。
SNSの投稿が流れる。
《まだ上がる》
《引かない》
《ここ高台だぞ》
位置情報付きの動画。
水は膝。
腰。
胸。
避難所。
体育館の床に座る人々。
子どもの泣き声。
「津波じゃないなら何なんだ」
「いつ止まるんだ」
誰も答えられない。
情報は足りない。
高台へ向かう道が水に断たれる。
土砂崩れ。
逆流した川。
救助車両が立ち往生する。
“取り残される”。
その言葉が、抽象ではなくなる。
みことは父に電話をかける。
奇跡のように繋がる。
父「もしもし」
背後の音が近い。
サイレン。
怒鳴り声。
水音。
みこと「今どこ」
父「現場だ」
短い。
父「俺は大丈夫だ」
助ける側の声音。
みことの喉が詰まる。
逃げて。
戻って。
言いたい。
だが、言えない。
父はそういう人間だ。
父「避難誘導中だ」
息が荒い。
いつもの低い声が、わずかに擦れている。
金属が落ちる音。
父の呼吸が一瞬だけ乱れる。
何かを拾い直す気配。
あの人は、怖いときほど工具箱を強く閉める。
その癖を、みことは知っている。
濡れた作業着が張り付いている光景が、頭に浮かぶ。
金属のぶつかる音。
誰かの叫び声。
父「お前は数字を見てろ」
ぶつり。
通信が切れる。
その瞬間。
研究室の音が遠くなる。
再発信。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
回線混雑。
呼び出し音だけが、機械的に続く。
返事がない。
研究室は緊迫する。
神代の指示が短くなる。
神代「広域図」
神代「上昇率再計算」
神代「避難想定更新」
机上の紙が増える。
ホワイトボードが数字で埋まる。
誰も笑わない。
潮位。
118cm。
126cm。
132cm。
千里が背後で小さく言う。
千里「……止まらないの?」
責めていない。
だが、その問いには“なぜ”が含まれている。
なぜ東だけ。
なぜ今。
なぜ引かない。
みことは答えない。
答えられない。
だが。
頭の奥で、何かが触れかける。
形にはならない。
理論でもない。
ただ、
どこかで見たことがあるような、
そんな気配。
モニターのマップ。
東の沿岸線だけが、じわりと色を濃くする。
西は、静かだ。
静かすぎる。
偏り。
偶然にしては、整いすぎている。
潮位。
147cm。
152cm。
みことは画面を見つめる。
胸の奥が、ざわつく。
知っているわけじゃない。
思い出したわけでもない。
ただ。
この形を、
どこかで見たことがあるような、
冷たい予感だけが残る。
水は、止まらない。
東の街が、ゆっくりと失われていく。
静かに。
あまりにも静かに。
みことは、その光景から目を逸らさなかった。
理由も分からないまま。
ただ、胸の奥のざわつきを抱えたまま。




