第3話:戻る日常
片付けは、ようやく一段落した。
泥は完全には落ちない。
だが、家具は立ち、窓は開き、空気が入れ替わる。
千里の母「本当にありがとうね」
何度目かの言葉。
千里「もういいって」
千里の母は、みことと紗奈に深く頭を下げる。
千里の母「遠いのに……」
みこと「三人いた方が早いですから」
軽く笑う。
だが視線は、玄関の泥跡をなぞっている。
“助かったね”
昨日の言葉が、まだどこかに残っている。
三浦スーパー。
三浦「もう帰るのか」
千里「はい。研究があるので」
三浦「そうか」
少し間を置く。
三浦「港のほう、まだ立ち入り制限だ」
千里「ニュースで見ました」
三浦「海は静かでもな」
短く息を吐く。
三浦「中は分からん」
千里がうなずく。
三浦「また来い」
千里「はい」
レジ横の棚に、地元の小さな菓子が並んでいる。
みことがそれを手に取る。
みこと「これ、研究室用」
三浦「宣伝しといてくれ」
千里「ちゃっかりしてる」
赤子の笑い声が奥から聞こえる。
澄んだ音。
みことは、その声に一瞬だけ視線を逸らす。
眩しい。
胸が、少しだけ締まる。
帰りの新幹線。
みこと「お土産、復興支援って言えば怒られないよね」
千里「怒られないけど、それ言いながら配るのやめて」
紗奈「普通に渡せばいい」
小さな笑い。
日常の音。
東京。
研究室。
蛍光灯の白が強い。
みこと「やっぱ白すぎない?」
千里「それさっきも言ってた」
神代が端末を操作する。
神代「西の被害、最終速報来た」
三人が画面を見る。
港湾施設損壊。
住宅浸水多数。
だが、死者数は当初予想より少ない。
神代「津波高が想定より低かったらしい」
千里が小さく息を吐く。
千里「高台、ぎりぎりだったみたいです」
神代「運が重なったな」
その言葉に、みことの視線が一瞬だけ揺れる。
運。
神代が目をこする。
紗奈「寝てないんですか」
神代「変な夢見たせいで、目が覚めてな」
みことが顔を上げる。
みこと「夢?」
神代「白い石みたいな場所に立ってた」
空気が、わずかに止まる。
神代「風が吹いてるのに、音がない」
みことの指が止まる。
神代「誰かの背中があった」
短い沈黙。
神代「追いつけなかった」
肩をすくめる。
神代「ただの夢だ」
みことの胸が、ざわつく。
白。
風。
背中。
既視感。
だが、笑う。
みこと「夢ってそういうものですよ」
軽い声。
神代「そうかもな」
話は終わる。
だが。
みことの胸は静まらない。
知っている気がする。
だが、届かない。
日常が再開する。
解析。
会議。
メール。
ニュースは復興報道に変わる。
「奇跡的に被害は最小限」
「再生への第一歩」
前向きな言葉が並ぶ。
蛍光灯の白が、わずかに滲む。
西は助かった。
少なくとも、千里の家は。
日常は戻った。
はずなのに。
胸の奥の違和感だけが、消えない。
戻ったはずの世界が、
ほんの少しだけ、
ずれている。
——まだ、何かが失われたままの気がした。




