第2話:西へ
研究室の空気は、どこか落ち着かなかった。
揺れは止まっている。
だが、机の上の書類も、モニターの光も、まだ地震の続きのようだった。
千里「実家の片付け、手伝いに帰ろうと思う」
ぽつりと落ちた言葉。
みことはくるりと椅子を回す。
みこと「そりゃ帰るでしょ」
即答だった。
千里「港のほう、かなりひどいらしくて……家は高台だけど、ちゃんと見ないと落ち着かない」
紗奈「一緒に行こう」
迷いのない声。
千里「え?」
紗奈「一人で行く気?」
千里が言葉を探す。
紗奈がみことを見る。
紗奈「みことも」
一拍。
みことは少しだけ黙る。
東。
父。
頭の奥に、父の声が浮かぶ。
——助ける側に回れ。
正解より先に、立ち位置を選べ。
それが、父の口癖だった。
みことは顔を上げる。
みこと「……行くよ」
すぐに笑う。
みこと「三人いた方が絶対早いし」
千里が小さく笑う。
紗奈が端末を確認する。
紗奈「今日の新幹線、まだ止まってる」
沈黙。
みことが画面をのぞき込む。
みこと「じゃあ明日の始発」
千里「始発?」
みこと「復旧見込み、五時台。動くならそこ」
紗奈「三人で行こう」
その一言で、決まる。
逃げない。
一人にしない。
三人で向かう。
翌朝。
まだ夜の残る駅。
冷たい空気。
みこと「始発って、なんか特別感ない?」
千里「ない」
紗奈「眠い」
みこと「テンション係は私だから」
軽口。
だが新幹線が滑り込む音に、三人とも言葉を止める。
白い車体。
整いすぎている。
壊れていない。
それが、わずかに落ち着かない。
西へ。
潮の匂い。
泥の匂い。
濡れた木材の重い空気。
被災地の街。
壁に残る泥跡。
ここまで水が来たという無言の線。
転がる家具。
ひっくり返った冷蔵庫。
日常が途中で止まっている。
千里の家の前。
玄関の戸が開く。
千里「……ただいま」
一瞬、間。
奥から足音。
千里の母が立っている。
千里の母「……千里」
それだけで、空気が崩れる。
千里が駆け寄る。
抱きしめる。
千里の母「よかった……よかった……」
繰り返す。
千里「うん」
千里の母がうなずく。
千里の母「うちは……助かったね」
その言葉で、千里の肩がわずかに止まる。
助かった。
正しい言葉。
なのに、少しだけ重い。
千里「……うん」
みことは少し離れて、その様子を見る。
千里の母が二人に頭を下げる。
千里の母「来てくれてありがとう」
みことは明るく返す。
みこと「三人いた方が早いですから!」
冗談のトーン。
だが、千里の背中が少し小さく見えた。
片付けを始める。
瓦礫の重さ。
濡れた木材が想像以上に重い。
泥が靴にまとわりつく。
地震の爪痕は簡単には消えない。
みこと「これ、絶対筋肉痛くる」
千里「筋トレじゃないんだから」
近所のスーパーがシャッターを半分上げていた。
三浦スーパー。
棚を拭いていた男が顔を上げる。
三浦「……千里ちゃんか」
千里「三浦さん」
三浦が近づく。
三浦「無事だったか」
千里「はい。家も」
三浦は深くうなずく。
三浦「よかったな」
短い。
だが重い。
三浦「港はひどい。知ってる顔も何軒か……」
言いかけて止める。
千里がうなずく。
三浦「お前んとこ、高台だったな」
千里「はい」
三浦「運だな」
ただの事実。
千里は小さく笑う。
千里「……そうですね」
みことが口を挟む。
みこと「もう再開するんですか?」
三浦が肩をすくめる。
三浦「水が引いたら、また始めるしかない」
棚を軽く叩く。
三浦「止めてるほうが怖い」
店内の壁に、小さな写真。
みことが立ち止まる。
三浦「孫だ」
赤子が笑っている。
千里「大きくなりましたね」
三浦「もう歩くぞ。早いもんだ」
“続いていく命”。
確かに、ここにある。
三浦が海の方をちらりと見る。
三浦「海は読めない」
何気ない声。
千里「昔から言ってますよね」
三浦「昔から当たってる」
小さな笑い。
みことは店を出て、水平線を見る。
静かだ。
あまりにも静かだ。
ほんの一瞬。
線が、わずかに歪んで見える。
瞬き。
戻る。
みこと「……」
何も言わない。
気のせい。
そう思う。
夜。
片付けが一段落し、
三人は縁側に座っていた。
昼の海とは違う。
音だけが、ある。
千里「去年、植えたんだよ」
庭の端に、細い苗木。
支柱に紐で結ばれている。
みこと「何の木?」
千里「柿。母が急に“実のなる木がほしい”って」
まだ背丈は低い。
葉も少ない。
紗奈「ちゃんと育つかな」
千里は肩をすくめる。
千里「さあね。でも、根付けば、ずっとここにいるよ」
風が吹く。
苗木が小さく揺れる。
頼りない。
みことは、その細い幹を見る。
みこと「……ちゃんと根付いてね」
冗談みたいに言う。
でも、声は少しだけ真面目だった。
だが。
胸の奥に、微かな違和感が残る。
西は助かった。
少なくとも、千里の家は。
それでも。
何かが、まだ終わっていない。
海は静かだ。
静かすぎる。
——違和感だけが、消えなかった。




