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世界が答えを求めた日。私は、語らなかった。  作者: 冴統 亜弥惟智


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プロローグ:音のない風

風が、止まっている。

そう思った瞬間から、世界はおかしかった。

夜明け前。

空気は冷たいはずなのに、肌に触れない。

頬に当たっている感覚だけが抜け落ちている。

温度はある。

だが、接触がない。

空は青ではない。

白。

塗りつぶした白ではなく、色が抜け落ちたような白。

焦点が合わない。

見ているのに、輪郭が掴めない。

海は動いている。

波が寄せる。

泡が弾ける。

——音がない。

耳が、何も拾わない。

波の衝突も、引き波の擦過も、すべてが消えている。

動いているのに、聞こえない。

遠くの塔が揺れている。

わずかに。

規則正しく。

その揺れは、風ではない。

足裏に、振動。

骨へ伝わる。

揺れている。

だが、轟音がない。

都市は整いすぎている。

直線の建築。

遠くに走る光の線。

規格化された影。

高度文明。

完璧な秩序。

なのに。

生活音がない。

巨大な文明が、息を止めている。

高台に、ルシェルが立っている。

動かない背中。

白い空と音のない海を、ただ見つめている。

泣いてはいない。

涙より先に、呼吸がある。

浅い。

乱れない。

何かを選択した後の呼吸。

背後で、距離が縮む。

足音はない。

だが、体温が近づく。

カサル。

カサル「眠れなかったのか」

声だけが鮮明だった。

世界から音が消えているのに、その声だけが届く。

ルシェルは振り返らない。

近い。

触れられる距離。

触れない距離。

言葉にしない関係が、そこにある。

カサルは異変を感じている。

だが理由を知らない。

問いが、喉で止まる。

ルシェル「風が、止まっている」

報告のように、静かに言う。

カサルは理解できない。

波はある。

塔は揺れている。

雲も流れている。

なのに。

肺に入る空気が、軽い。

吸っているのに、満たされない。

遠くで、光が走る。

雷ではない。

水平に、地平線に沿って。

空が裂ける。

地面が震える。

骨が軋む。

音がない。

揺れだけが、体を通過する。

ルシェル「あなたは知らなくていい」

ルシェル「カサル、ごめんなさい」

優しさの形。

切断。

カサル「……ルシェル」

遅い。

ルシェルが一歩、前へ出る。

ためらいがない。

代表者の歩幅。

光が増す。

輪郭がほどける。

都市が沈む。

塔が傾く。

建築が崩れる。

光の線が断ち切れる。

音がない。

だから、理解が追いつかない。

海と空の境界が溶ける。

世界の端が消える。

白。

白。

白。

——落ちる。

神代玲司は飛び起きた。

息が出ない。

肺が空のまま、体だけが先に起き上がる。

心臓が暴れている。

速い。

速すぎる。

布団がずれる音がやけに大きい。

そこで初めて、音があると知る。

冷蔵庫の低い唸り。

遠くの車。

建物の軋み。

現実が、一気に流れ込む。

だが。

足裏がまだ傾いている。

硬い石の感触。

指先に、粉のざらつき。

骨の奥に、揺れが残っている。

夢。

そう言い切るには、体が覚えすぎている。

落ちかけた。

あの白の中で。

心臓がようやく速度を落とす。

だが、胸の圧迫だけが消えない。

守れなかった。

何を。

誰を。

分からない。

ただ一つ。

あれは、ただの夢の終わり方ではなかった。

風は、止まっていた。

その感覚だけが、消えない。


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