中編
## 第四章 訓練の日々
翌朝、目覚めた瞬間から、私は一人の「女優」になった。
「おはようございます、聖女様」
いつものように部屋へ入ってきたメイドたちに、私は昨日までと変わらない、屈託のない笑みを向けてみせる。
「おはよう! 今日もいい天気だね」
「はい。聖女様のような、晴れやかな朝でございますわ」
メイドたちの顔には、相変わらず精巧な作り物の笑顔。けれど、今の私の笑顔もそれと同じだ。
着替えを手伝ってもらいながら、私は鏡に映る自分を冷徹に観察していた。
演じきらなければならない。何も知らない、世間知らずで扱いやすい小娘を。
すべては魔石を手に入れ、この偽りの檻から脱出するために。
──けれど、心の隅にはまだ、澱みのような迷いが残っていた。
魔石を持ち去れば、この世界の人々は困窮する。それは事実だ。私は、自分の自由のために、見ず知らずの他人の命を見捨てていいのだろうか。
そんな葛藤を抱えたまま、召喚から二週間が経過し、本格的な訓練が幕を開けた。
「聖女様、本日から聖女の力を行使するための、実技訓練を開始いたします」
魔導師長エルヴィンの指導のもと、私は魔力の感知と制御を学ぶことになった。
宮殿の敷地内にある広大な訓練場は、壁一面に奇妙な幾何学文様が刻まれ、重苦しい魔力の気配が漂っている。
「まずは、ご自身の内にある聖なる力を感じてください。目を閉じ、深く呼吸を。そして、胸の奥深くに意識を沈めていくのです」
エルヴィンの助言に従い、意識を内側へと向ける。
すると、確かに感じた。
胸の奥底に、淡く、けれど確かな熱源がある。それは優しく、それでいて暴力的なほどの生命力を秘めた、小さな太陽のようだった。
「……感じます。何か、温かいものが」
「素晴らしい! たった一度の試行で感覚を掴まれるとは。これこそが、真なる聖女の資質……!」
エルヴィンが芝居がかった感嘆の声を上げ、周囲の魔術師たちも驚愕に目を見開く。
訓練は、恐ろしいほど順調だった。内なる力を指先へ集め、純白の光として放出する。その一連の動作を、私は本能的に理解していった。
「素晴らしい上達ぶりです、聖女様。もう光の収束までこなされるとは」
「本当だ……自分でも驚いています」
私は無邪気に喜んで見せた。その実、頭の中ではこの光をどう術式に組み込み、元の世界への扉をこじ開けるかを冷酷にシミュレーションしていた。
一週間後、エルヴィンが満足げに告げた。
「驚異的な速度です。このペースなら、予定を繰り上げて『魔の森』へ出発できるでしょう」
「本当ですか?」
「ええ。あと数日もあれば、実戦に耐えうる聖域を展開できるはずです」
いよいよだ。
魔石を手にする瞬間が、すぐそこまで迫っている。
高鳴る鼓動を抑えきれない私のもとへ、その夜、ジークフリート皇子が訪ねてきた。
「聖女様、少しよろしいでしょうか」
誘われるまま、私はテラスへ出た。この前の夜と、全く同じはずの舞台。けれど、あの時はあれほど美しかった月は、今は不吉で妖しい輝きを放っている。
「聖女様」
静寂を破り、ジークフリートが口を開いた。
「もうすぐ、魔の森への旅が始まります。……正直に申し上げて、私は不安なのです」
「え……?」
私は、わざとらしく驚いて見せた。
常に沈着冷静な第一皇子が、弱さを覗かせる。これも「マニュアル」にある一幕なのだろうか。
「魔の森は呪われた地です。どんな不測の事態が起こるか分からない。もし、貴女の身に何かあったら──私は、正気でいられる自信がありません」
ジークフリートが私をじっと見つめる。月光を反射するその瞳は、吸い込まれそうなほど情熱的で、一見すれば真実の愛に燃えているようにしか見えない。
「ですから、どうか無理はなさらないでください。貴女の安全こそが、私にとっての最優先事項なのです」
皇子の声は、微かに震えていた。
……凄い。プロの役者でも、これほど迫真の演技はできないだろう。
これが、私という「道具」を最大限に利用するための投資なのだ。
「ありがとうございます、ジークフリート様」
「聖女様、よろしければ私のことはジーク、と」
「……はい、ジーク様。私のことも、麻衣と呼んでください」
私は頬を赤らめ、感動に震える少女を完璧に演じた。
伏せた視線の先で、心臓が氷のように冷えていくのを感じながら。
(そう。頑張って。もっともっと、私を大事な道具だと思って守ってね)
私の内側で、かつてないほど冷徹な自分が、暗い愉悦とともに笑っていた。
* * *
ついに、その日がやってきた。
朝、まどろみの中で目覚めると、いつもより早くメイドたちが部屋へと滑り込んできた。
「聖女様、本日はいよいよご出発でございます」
「……うん、わかってるよ」
私は、わざとらしく強張った表情を作って見せた。不安に震える少女という役柄を、完璧にこなすために。
けれど、内側では氷のような冷静さで、暗記した魔石の術式を反芻していた。
用意された旅装束は、上質な生地で仕立てられた動きやすいローブと、聖女の証である純白のマントだった。腰のポーチには、何かの儀式に使うという小道具がいくつか収められている。
鏡の前に立つと、そこには気高く、けれどどこか儚げな「理想の聖女」が完成していた。
宮殿の中庭に降りると、そこには旅の一行が揃っていた。
第一皇子ジークフリートを筆頭に、剛健な体躯を鎧に包んだクラウス騎士団副団長、銀髪の魔術師ユリウス、そして魔導師長エルヴィン。さらに精鋭の護衛騎士が十名という、これ以上ないほど重厚な隊列だ。
「麻衣、どうぞこちらへ」
ジークフリートが、芝居がかった優雅さで手を差し伸べる。
私はその手にそっと自分の指を重ね、豪華な馬車へと乗り込んだ。
(演技よ、すべては演技)
自分にそう言い聞かせ、胸の奥で渦巻く嫌悪感を飲み込む。
馬車の中は、長旅の疲れを感じさせないよう、柔らかなクッションが敷き詰められていた。同乗するのはジークフリートとユリウスの二人。
「それでは、出発!」
御者の号令とともに、馬車がゆっくりと動き出した。
宮殿の巨大な門を抜け、帝都のメインストリートへと差し掛かる。
驚いたことに、道の両脇には黒山の人だかりができていた。
「聖女様! 頑張ってください!」
「聖女様、万歳! どうか、帝国をお守りください!」
人々が手を振り、枯れんばかりの声で叫んでいる。
馬車の窓から見えるその顔、その顔。どれもが心からの期待と希望に満ち、縋るような熱を帯びていた。
(……この人たちは、何も知らないんだ)
帝国が私を使い捨ての道具として呼び出したことも。前の聖女が無残に処分されたことも。すべてが「マニュアル」に沿った茶番劇であることも。
無邪気に私を救世主と信じる彼らの姿に、胸の奥がチリりと痛んだ。
可哀想だ、と一瞬だけ思う。けれど、すぐに冷淡な声が脳内に響く。
──じゃあ、私が彼らのために殺されてあげれば満足なの? そんなの、冗談じゃない。
馬車は休むことなく走り続け、夕闇が降りる頃に街道沿いの宿場町へと到着した。
用意されていたのは宿の最上階、一番贅沢なスイートルームだ。
夕食は一階の広間で、主要なメンバーとともに囲んだ。
私は極力、無邪気で世間知らずな「麻衣」を演じ続けた。
「わあ、このお肉、すごく美味しい! 帝都とはまた違った味わいですね」
「聖女様が喜んでくださると、我々の苦労も報われます」
クラウスに冗談を飛ばして笑わせ、ユリウスに文字の読み書きの成果を披露して褒めてもらう。
そんな私の姿を見て、男たちは満足げな笑みを浮かべていた。
彼らの瞳の奥には、「この女は何も疑っていない」「御しやすい」という傲慢な確信が透けて見えた。
ふふ、いいわ。その調子で油断していて。
私はお皿の上の肉を噛み締めながら、獲物を待つ獣のように、静かにチャンスを伺っていた。
* * *
旅の二日目、三日目と、馬車は順調に街道をひた走った。
道中、私は徹底して「天真爛漫な聖女」……もっと率直に言えば、自分の置かれた状況に無頓着で、少しばかり頭の軽い女を演じることに腐心した。
窓の外に広がるありふれた景色に子供のように感嘆し、少し走れば退屈そうに欠伸を噛み殺す。そして、折を見てはジークフリート皇子に甘えた声を出す。
「ねえ、ジーク様」
「はい、何でしょう、麻衣?」
「あの山、すごく綺麗ですね」
「ええ。あれは『碧の峰』と呼ばれる山です。この時期の緑は格別ですよ」
私は皇子との他愛ない会話を心から楽しんでいるふりをした。実際には、唇が動くたびに反吐が出そうな嫌悪感に襲われていたけれど。
「任務が終わったら、あの山に連れていってくださいね。二人でゆっくり見たいな」
「もちろんです。約束しましょう」
皇子が慈しむような微笑みを向けてくる。その完璧な表情も、すべてはマニュアル通りに用意された嘘。そう思うと、彼の笑顔がひどく安っぽい張りぼてに見えた。
時には、これ見よがしに「わがまま」も披露してみた。
「ねえ、ちょっと休憩しませんか? もう疲れちゃって」
まだ午前中。予定の半分も進んでいない段階での要求に、騎士団副団長のクラウスが露骨に困惑した顔をする。
「聖女様、しかし、まだ出発したばかりですが……」
「でも……私、元の世界では馬車なんて乗ったことがなくて。身体中が痛くてしんどいんです……」
私は瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔で彼を見上げた。駄々をこねる子供をあやすような状況を作り出す。
「……致し方ありませんな。少しだけ、休憩を挟みましょう」
馬車が停まると、私は喜び勇んで外へ飛び出し、道端の野花を摘み始めた。
「これ、可愛い!」
無邪気に花を編み、花冠を作ってはしゃぐ。それを見守る騎士たちの視線が、次第に緩んでいくのがわかった。
(──いいわ。もっと油断して、私のことを『チョロいガキ』だと思ってなさい)
旅の四日目。
一行はついに、今回の目的地である「魔の森」の入口へと到達した。
そこは、明らかに外界とは隔離された異様な空気を纏っていた。
天を突くようにそびえる木々は歪にねじれ、湿った空気が肌にまとわりつく。肺の奥まで侵食してくるような、重く不快な静寂。
「ここからが魔の森です」
クラウスが険しい表情で剣の柄に手をかけた。
「聖女様、決して我々の側を離れぬよう。何が起きてもおかしくありません」
「はい……怖い、です……」
私は怯えたように声を震わせた。
けれど、実際には恐怖など欠片も感じていなかった。むしろ奇妙な昂揚感さえある。この澱んだ空気の中に、自分を脅かすような本質的な敵意は存在しない──そんな、根拠のない確信が胸の内に芽生えていた。
馬車を捨て、徒歩で森の奥へと足を踏み入れる。
整備されていない獣道は、張り出した木の根やぬかるんだ土が行く手を阻む。
「麻衣、手をお貸ししましょう」
ジークフリートが優しく手を差し伸べる。
その手を握った瞬間、指先から嫌悪の火花が散った気がした。けれど私はそれを微塵も顔に出さず、ただ頼りなげに彼の手を握り返した。
しばらく進んだ時、前方の茂みが激しく揺れた。
「来るぞ! 総員、構え!」
クラウスの怒号とともに、騎士たちが一斉に抜剣する。
茂みを割って現れたのは、巨大な狼のような生物だった。しかし、それはもはや生物とは呼べない異相を呈していた。双眸は血のように赤く光り、異常に肥大した牙からは腐食性の唾液が滴っている。体毛の間からは、黒い霧のようなものが絶えず立ち昇っていた。
「魔狼です! 聖女様、下がってください!」
騎士たちが円陣を組み、戦闘が始まる。
私は護衛の背中の隙間から、その戦いを冷ややかに分析していた。
確かに魔狼は速く、凶暴だ。けれど、精鋭騎士たちが数人がかりで対処すれば、危なげなく仕留められる程度。実際、数分のうちに魔狼は絶命した。
(これが、帝国を滅ぼしかねないという『脅威』なの?)
「麻衣、怪我はありませんか!」
「は、はい……怖かったです、腰が抜けちゃいそうで……」
駆け寄ってきたジークフリートに抱きしめられ、私は彼の胸に顔を埋めて震えて見せた。
彼の腕の中で、私は安心したような顔を作りながらも、頭の中は冷徹な疑問で埋め尽くされていた。
その後も何度か魔物に遭遇した。巨大な熊、猛毒を持つ大蛇。けれど、どれも騎士たちが容易に排除できるものばかりだった。
帝国は嘘をついている。
本当にこれが、聖女を召喚してまで排除しなければならない存在なのか?
私の中の疑念は、魔の森の奥へと進むにつれ、確固たる黒い塊へと変わっていった。
* * *
森の中での、初めての野営が始まった。
手際よくテントが設営され、中央には爆ぜる音とともに焚き火が熾される。私専用の豪奢な個人用テントも用意されていたが、私はあえて首を横に振った。
「ねえ、今日はみんなと一緒にいたいな。一人だと、怖くて眠れそうにないの」
「し、しかし聖女様、我々のような荒くれ者と同じ場所では……」
「お願い」
私は潤んだ瞳で、上目遣いにクラウスを見つめた。あざとさ全開の、庇護欲をそそる甘えた表情。これだけで、堅物の騎士の防壁は脆くも崩れ去る。
「……承知いたしました。では、交代で厳重に見張りをつけますので、焚き火の傍でお休みください」
狙い通りだ。
夕食は干し肉とスープという質素なものだったが、私はそれをこの世の贅を尽くした料理であるかのように、大げさに喜んで見せた。
「美味しい! お外で食べると、こんなに美味しいんですね!」
「本当ですか? それは良かった」
ユリウスが、毒気のない柔らかな笑みを浮かべる。彼だけは、私を「道具」としてではなく、一人の人間として案じてくれているように見えた。もしかしたら、彼は真実を知らされていないのかもしれない。だとしても、私の決意は揺るがない。誰が善人で誰が悪人かなど、帰還を望む私には些細な問題でしかないのだ。
「ねえ、食事のあとにみんなでお話ししませんか?」
「しかし、聖女様はお疲れでは……」
「全然! むしろ元気すぎて困っちゃうくらい!」
私は立ち上がると、白いマントを翻してくるりと回って見せた。
「ほら、こんなにぴんぴんしてます!」
周囲の騎士たちから、どっと笑い声が上がる。完璧な演技だ。「元気で明るく、少し思慮の浅い聖女様」の偶像が、着実に彼らの脳内に刷り込まれていく。
「では、何を話しましょうか」
「そうだなあ。私の世界では、こういう時の定番は『恋バナ』なんです。ねえ、クラウスさん。恋人とかいるんですか?」
「ぶふっ!?」
スープを吹き出しそうになりながら、クラウスが真っ赤になって狼狽える。そのあまりにも教科書通りの反応に、周囲の騎士たちが腹を抱えて笑い出した。
「い、いえ! 私のような無骨者にそのような相手は……!」
「じゃあ、好きな人は? 気になる子くらいいるでしょ?」
「せ、聖女様! そのような不躾な質問は……その……っ!」
顔を真っ赤にして絶句するクラウス。その様子が可笑しくて、私はくすくすと鈴を転がすような声で笑った。
「ごめんなさい。でも、クラウスさんが照れてるの、なんだか可愛いなって思っちゃって」
その言葉を投げかけた瞬間、クラウスは石像のように固まった。周囲の騎士たちは、もはや呼吸困難になるほど笑い転げている。
いい。この調子だ。彼らは私を「少し頭が足りないけれど、愛嬌のある娘」として、完全に警戒を解いている。
翌日も、私は計算ずくのわがままを繰り返した。
休憩のたびに花を摘み、綺麗な石を集め、まるで遠足に来た子供のように振る舞う。
「聖女様には困ったものだ」という呆れ混じりの空気。それこそが、私の狙っていた最高の隠れ蓑だった。
そして夜。私は意図的に、ジークフリート皇子と二人きりになる時間を作った。
「ジーク様」
「はい、どうしました?」
「任務が終わったら……私は、どうなるんですか?」
不意にトーンを落とした私の問いに、ジークフリートが表情を引き締めた。
「どう、とは?」
「私、元の世界には戻れないんですよね。じゃあ、この世界で私はどうやって生きていけばいいのかなって。それが急に不安になっちゃって……」
ジークフリートは、澱みのない瞳で私を見つめた。
「麻衣には、報酬として莫大な富が与えられます。宮殿に近い屋敷で、一生何不自由なく暮らしていただけるよう、私がお約束します」
「でも……」
私はわざとらしく俯き、マントの端を指先で弄んだ。
「お金があっても、独りは寂しいです。元の世界には、うるさい家族や友達がいました。でも、ここでは……みんな優しくしてくれるけど、任務が終わったら、もう会えなくなるんですよね?」
「そんなことは──」
「私、怖いんです。独りきりになるのが」
私は意を決したように顔を上げ、彼の袖をぎゅっと掴んだ。瞳には、微かに涙を浮かべて。
「ジーク様……任務が終わっても、時々、私に会いに来てくれますか?」
ジークフリートの瞳に、一瞬だけ動揺が走るのがわかった。
想定外の「甘え」だったのだろう。けれど彼は、すぐに優雅な皇子様の仮面を被り直し、私の手を取った。
「……ええ。もちろんです。私は、貴女を独りにしたりしません」
その声には、妙に実感がこもっていた。一瞬、本気なのかと錯覚しそうになるほどに。
けれど、知っている。これは「マニュアル」にある一節。不安定になった聖女を繋ぎ止めるための、甘い劇薬だ。
「約束、ですか?」
「ええ。約束します」
私は、安堵に満ちた、けれどどこか儚い笑顔を作って見せた。
「ありがとうございます。……信じて、いいんですよね」
完璧な演技だ。皇子も私も、お互いに嘘のカードを切り合い、偽りの愛を演じている。
けれど決定的な違いが一つ。皇子は、私がすべてを見抜いていることに、まだ気づいていない。
私は内心で冷笑しながら、彼の優しい表情を見つめ続けた。
(ええ、たっぷり利用してあげるわ。……魔石を手に入れる、その瞬間までね)
* * *
旅が進むにつれて魔物との遭遇頻度は上がっていったが、その脅威度は私の予想を大きく下回るものだった。
ある日、一行の前に巨大な魔熊が現れた。丸太のような腕を振り回す姿は確かに威圧的だったが、騎士たちの手慣れた連携の前には、ものの数分で物言わぬ肉塊へと成り果てた。
返り血を拭う騎士たちの背中を見ながら、私はふと、抑えきれない違和感を口にした。
「これが、帝国を脅かす『脅威』なんですか?」
その場が、凍りついたように静まり返る。
振り返ったクラウスが、射抜くような鋭い視線を私に向けた。
「せ、聖女様? 今、なんと仰いましたか」
「あ、いえ……っ」
私は慌てて、いつもの「無知な小娘」の仮面を被り直す。
「魔物、確かに怖いですけど……皆さんが強すぎて、あっという間に倒しちゃうから。なんだか、意外だなって」
「ああ、そういうことですか」
クラウスの表情が、目に見えて弛緩した。
「我々は帝国の精鋭ですからな。この程度の野獣、聖女様のお手を煩わせるまでもありません」
「すごいです! 頼りにしてますね!」
私は無邪気に手を叩いて褒めそやした。けれど内心の疑念は、もはや無視できないほどに膨れ上がっていた。
この程度の魔物が、本当に村を壊滅させるだろうか。複数の大人が武器を持って立ち向かえば、十分に撃退できるはずだ。「国が滅びる」という話は、あまりに大げさすぎるのではないか。
──そして、旅の五日目の夜。
私は、運命の会話を盗み聞きすることになった。
用を足すためにテントを出て、戻る途中のことだった。焚き火の爆ぜる音に混じって、聞き慣れない男の声が耳に届いた。
エルヴィンと話しているのは、出発時に皇帝の側近、財務卿だと紹介された人物だ。なぜ、こんな前線に彼がいるのか。
私は本能的に身を隠し、茂みの影から息を殺して耳を澄ませた。
「……魔導師長、聖女の様子はどうだ」
「順調です。まもなく澱みの核に到達するでしょう」
「それは結構。先代聖女が遺した魔石も、そろそろ出力の限界が近いからな」
出力の限界?
魔石は治癒や結界に使うのではなかったのか。
「はい。このままでは、魔石砲の稼働に支障が出るところでした」
「新たな魔石が手に入れば、我が軍の優位は向こう数十年は揺るがぬ。北方諸国も、おいそれとは手出しできまい」
心臓が、早鐘を打つ。
魔石砲。軍の優位。
つまり……武器。私の力で作らされる魔石は、戦争のための兵器に使われるのか。
「今回の聖女から、少なくとも五個の高純度魔石が得られる計算です。それだけあれば、魔石砲を三門は増産できるかと」
「うむ。隣国との緊張が高まっている今、兵装の拡充は急務だ」
茂みの影で、私は全身の血が引いていくのを感じた。
「しかし、聖女には真実を告げなくてよいのですか? いずれ疑念を抱くのでは」
「構わん。どうせ元の世界には戻れぬのだ。ここで生きていくしかないと突きつければ、最後は大人しく従うだろう」
「案ずるな、エルヴィン。我々は嘘は言っておらぬ。澱みが魔物を生むのは紛れもない事実だ」
財務卿は冷酷な笑みを声に含ませ、続けた。
「ただ、『澱み』は一定量を超えれば飽和して安定し、それ以上は増えないという事実を伏せているだけだ。森の奥に踏み入らねば、魔物と遭遇することもない。辺境の村が襲われたというのも──」
「我々が仕組んだ『演出』でしたな」
……演出。
目の前が真っ暗になった。
「聖女を説得するためには必要な犠牲だった。数人の平民が死んだのは惜しいが、帝国の安全保障という大義に比べれば些細なことだ」
数人の平民が死んだ。私を騙すための舞台装置として、罪のない人々が殺されたのか。
「聖女など、澱みを収穫するための苗床にすぎん。適度に溜まった澱みを結晶化させ、兵器に転用する。それだけのことだ。もし、先代のように真実に気づき反抗したとしても同じように幽閉して、ほとぼりが冷めた頃に処分すればいい」
「先代は三年も牢に閉じ込めたのでしたな。……三代前の聖女などは逃亡を図り、騎士に討たれた。六代前は真実を知って発狂し、自ら命を絶った……」
エルヴィンが淡々と歴代聖女の悲劇を読み上げる。
「帝国が始まってから既に二十人近い聖女を召喚してきたが、全員がほぼ同じ運命を辿っている。従順なら安楽な最期を、反抗すれば相応の末路を。……今回の聖女は、幸いにもジークフリート殿下の毒牙にかかって従順なようだ」
二人の下卑た笑い声が、夜の森に響き渡った。
私は地面に手をつき、ゆっくりと崩れ落ちた。
全部、嘘だった。
皇子の愛も、騎士たちの敬意も、魔導師の導きも。
魔石は人を殺すための道具。平和のためではなく、他国を侵略するための火種。
そして、その「材料」を効率よく手に入れるために、彼らは自国の民を殺して私を騙した。
吐き気がした。胃の奥から熱い塊がせり上がってくる。
けれど、声を出してはいけない。ここで見つかれば、私は今すぐ「地下牢」に送られるかもしれない。
私は必死に嗚咽を飲み込み、幽霊のような足取りでテントへと戻った。
横になっても、思考は煮えくり返るような怒りで埋め尽くされていた。
平和。人権。命の尊さ。
日本で当たり前に教わってきたそれらすべてが、この国では塵芥のように踏みにじられている。
私は、侵略の片棒を担がされ、用が済めば殺される、使い捨ての家畜だというのか。
(……ふざけるな)
心の底から、どす黒い感情が噴き出した。
迷いは、完全に消えた。
この帝国を救う必要なんて、一ミリもなかった。魔石を奪った後に帝国の皇子や貴族がどうなろうと、知ったことか。自業自得だ。何も知らない国民は気の毒だが、彼らに責任を負うのは私じゃない。
(奪ってやる。魔石も、あんたたちの未来も、全部。……そして、私は私の場所に帰る)
私は闇の中で、初めて獲物を狙う野獣のような目を向けた。
明日は、決戦の地「澱みの核」に到着する。
そこで待っているのは、帝国が望む「収穫」ではない。
私という「聖女」が引き起こす、最悪の叛逆だ。




