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聖女として召喚されましたが、前任者の末路を知ってしまいました  作者: 宗像 凪


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1/3

前編

前・中・後編の全三話予定です。

 目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは見覚えのない天井だった。


 いや、天井と呼ぶにはあまりに浮世離れしている。それは豪華絢爛な装飾が施された、巨大な円蓋だった。金と銀の縁取りで描かれた幾何学模様が複雑に絡み合い、その中心には七つの星が円環を描くように配置されている。

 まるで、どこかの歴史ある大聖堂の芸術作品を眺めているかのようだった。


「……は?」


 思わず、間の抜けた声が漏れる。

 ここはどこだ。自分の部屋にいたはずなのに。

 慌てて身体を起こすと、周囲の光景はさらに理解不能なものとして私の目に突き刺さった。


 広い。とにかく、圧倒的に広い。

 大学の教養部で一番大きな講義室でも、これほどではなかったはずだ。床は大理石のような光沢を放ち、壁一面には精緻な彫刻が刻まれている。窓の外に広がるのは手入れの行き届いた美しい庭園で、噴水が優雅に陽光を弾いていた。

 そして何より異常なのは、私を取り囲むように立ち並ぶ、見たこともないほど豪華な衣装を纏った人々だった。


「聖女様! お目覚めになられましたか!」


 突き抜けるような声で叫んだのは、金髪碧眼の美青年だった。

 年齢は二十代半ばだろうか。深紅のマントを羽織り、胸元には金の刺繍で精巧な紋章が踊っている。整いすぎたその顔立ちは、最新ゲームのCGキャラクターのようで、実在の人間とは思えないほどの現実味のなさを放っていた。


「え、あの……ここ、どこですか?」

「ああ、申し遅れました」


 美青年は、流れるような所作で恭しく膝をついた。


「私はこのクロイツ帝国第一皇子、ジークフリート・フォン・クロイツと申します」


 皇子。今、この人は確かに皇子と名乗った。


「お、皇子……?」

「はい。そして貴女こそが、我々が長きにわたり待ち望んだ聖女様です」


 ジークフリートの言葉を合図にしたかのように、周囲の人々が一斉に膝をついた。

 その数、ざっと三十人は下らないだろう。宝石を散りばめた装身具を身に纏い、いかにも「高貴」という言葉を体現したようなセレブたちが、ただの女子大生である私に向かって深々と頭を下げている。


「ちょ、ちょっと待ってください。聖女って何ですか? ていうか、ここはどこ? 私、確か昨日はバイトから帰って、夕飯にカップラーメン食べて、適当にスマホいじってから寝たはずなのに──」


 記憶を辿る。昨日は深夜までコンビニでバイトをして、帰宅したのは午前二時を回っていた。

 今日だって、午後からは別の居酒屋のシフトが入っているのだ。


 私立の美大に奨学金なしで通う姉と、両親に溺愛されて塾とスポーツクラブにまで通わせてもらっている弟。それなのに私には「自分の学費くらい自分でなんとかしなさい」と突き放した家族。サークルに入る余裕も、友達と遊ぶ時間もなく、ただ授業とバイトの往復だけで磨り減っていく日々。

 そんな私の日常が、一瞬で書き換えられてしまった。


「落ち着いてください、聖女様」


 混乱する私を宥めるように、一人の老人が歩み寄ってきた。

 長い白髭を蓄え、紫色の重厚なローブに身を包んでいる。その手には、先端に透き通った水晶が埋め込まれた、まるでお伽話の魔法使いのような杖が握られていた。


「私は宮廷魔導師長、エルヴィンと申します。貴女様の混乱はごもっとも。突然このような場所へお連れし、さぞ驚かれたことでしょう。しかし、どうか我々の話をお聞きください」


 エルヴィンの説明を、私はまだ状況を飲み込めないまま呆然と聞き続けた。

 ここはクロイツ帝国という、私のいた世界とは異なる場所であること。そして彼らは古代の秘術を用い、私を「聖女」として召喚したのだということ。


「我が帝国の領土には、『魔の森』と呼ばれる広大な森林地帯がございます」


 エルヴィンが、祈るような厳かな口調で語る。


「その森の奥深くには、『澱み』と呼ばれる不浄なる力が溜まりやすい性質があるのです。澱みに触れた生物は変異し、凶暴化します。我々はそれを『魔物』と呼んでいます」

「魔物……」


 あまりに現実味のない単語に、頭がクラクラする。けれど、目の前の豪華な装飾も、人々の真剣な眼差しも、紛れもない現実としてそこに存在していた。


「はい。魔物は人を襲い、村々を脅かします。帝国は強力な結界によって魔物を封じておりますが、澱みが増えるにつれ、魔物の力も増大し、封じ込めが困難となってまいりました。そこで必要なのが『聖女』の力なのです」


 聖女は澱みを浄化し、魔石として封じ込める特別な能力を持つ。その力で魔物の脅威を取り除き、人々の平和を守る。それが聖女に課せられた神聖なる使命なのだと、エルヴィンは静かに告げた。


「その力を持つ者は、この世界には存在しません。ゆえに我々は、数十年に一度、貴女様の世界から聖女をお迎えしているのです」

「待って、待ってください」


 私は遮るように手を上げた。心臓が嫌な音を立てている。


「じゃあ私、その仕事が終わったら元の世界に戻れるんですか?」


 その問いが放たれた瞬間、室内の空気が凍りついた。エルヴィンの表情が、痛みを堪えるようにわずかに曇る。


「……それは」


 魔導師長が言葉に詰まる。その反応だけで、最悪の答えを察するには十分だった。


「戻れない、ってことですか?」

「……誠に申し訳ございません」


 エルヴィンが、絞り出すように答え、深く頭を下げた。


「召喚の術は一方通行なのです。過去の文献を紐解いても、聖女様を元の世界にお戻しした記録は、一つとして存在しません」

「ふざけんな!」


 気づけば、私は叫んでいた。

 腹の底から、どろりとした怒りと恐怖、そしてやり場のない混乱が噴き出してくる。


「勝手に連れてきて、戻れないなんて……! 私にだって生活があるんだよ! バイトも、大学も──!」


 家族のことを言いかけて、私は不自然に言葉を飲み込んだ。

 姉ばかりを慈しみ、末っ子の弟ばかりを甘やかして、私にはいつも冷淡だった両親。それでも、それでも家族なのだ。もう二度と会えなくなるなんて、そんなこと。


「私の人生、返してよ……」


 視界が涙で滲む。私の二十年間は何だったのか。

 バイト漬けで、友達を作る暇もなくて、家族からも疎まれて。それでもいつか報われると信じて、必死に食らいついて生きてきたのに。


「聖女様、どうかお怒りをお鎮めください」


 皇子ジークフリートが一歩前に出る。その瞳には、紛れもない同情の色が浮かんでいた。


「貴女様のお気持ちは痛いほど分かります。ご自身の意志とは関係なく、見知らぬ世界に連れてこられた。どれほどの絶望を感じておられるか、想像に難くありません。しかし、どうか……どうか我々の窮状もお聞きください」


 ジークフリートは必死に言葉を繋ぐ。


「このままでは、帝国の民は魔物の脅威に晒され続けることになります。既に辺境では犠牲者が出始めているのです。子供たちが襲われ、家畜が殺され、人々は夜も眠れぬ恐怖の中にいます」

「それは……気の毒だとは思います。けど、私には関係ない……っ」

「どうか、お願いです!」


 その瞬間、皇子は床に膝をついた。

 それだけではない。皇族という身分でありながら、一介の学生である私に対し、地面に額を擦り付けるほどの勢いで深々と頭を下げたのだ。


 それを合図にしたかのように、周囲の貴族たちも次々と跪いていく。老人も、勲章を揺らした騎士も、気品あふれる貴婦人たちも、皆が一様に平伏した。


「聖女様、どうか帝国をお救いください」

「我々の民をお守りください」

「貴女様だけが、最後の希望なのです」

「どうか、どうか……!」


 皇族や貴族たちが、たった一人の平凡な女子大生に必死に縋っている。

 あまりに非現実的なその光景に、私は言葉を失った。普通に生きていたら、絶対に目にすることのない異様な熱量。


「……わかった、わかったから……頭を上げてください」


 戸惑いながらも、私はそう口にするしかなかった。これほど大勢の人間に、命乞いにも似た懇願をされて、平気な顔で拒絶し続けられるほど、私の心は図太くはできていなかった。


「本当ですか……!」


 顔を上げたジークフリートの表情は、まるで絶望の底から救い出されたかのような、切実な安堵に満ちていた。


「あ、いや、でも……いきなり聖女って言われても、私に何ができるかわかんないし……」

「ご安心ください」


 エルヴィンが慈父のような微笑みを浮かべる。


「貴女様には、生まれながらにして聖女の素質が備わっています。適切な訓練を受けていただければ、必ずや『澱み』を封じることができるでしょう。我々が、持てる力のすべてでお支えいたします」

「でも……」

「聖女様」


 今度は、立派な口髭を蓄えた中年男性が前に出た。胸元には無数の勲章が誇らしげに輝いている。


「我々は、貴女様に少しでも快適に過ごしていただくため、あらゆる準備を整えております。宮殿で最も豪華な離宮、最高級のドレス、宮廷料理人による至高の食事、そして専属のメイド。貴女様が望まれるものは、何でもご用意いたしましょう」

「え……」

「さらに」男性は畳みかけるように続けた。「任務を完遂された暁には、莫大な報酬をお約束いたします。一生、遊んで暮らせるだけの金貨を。そして貴女様は帝国の救世主として、歴史にその名を刻まれることになるのです」


 一生、遊んで暮らせる。

 親からの仕送りもなく、睡眠時間を削ってバイトを三つ掛け持ちし、ようやく明日の生活費を捻り出している今の私には、想像もつかない響きだった。


「そ、それ……本当ですか?」

「ええ、もちろんです。聖女様は我が帝国の救世主。それに相応しい待遇を、必ずやお約束いたします」


 心が激しく揺れた。

 元の世界には戻れない。それはもう、どうしようもない事実なのだ。けれど、もしこの場所で不自由のない暮らしが約束され、さらに莫大な富が得られるのだとしたら──。


 脳裏に、バイト先の店長の汚い怒鳴り声がよぎる。高額な奨学金を返済するために、やりたくもない仕事に追われる絶望的な将来。狭く冷たいアパート。姉と弟だけが愛される、居場所のない実家。


 それらすべてから解放される道が、今、目の前に提示されている。


「……わかりました」


 私は小さく、けれど明確に頷いた。


「やります。聖女の仕事、やらせてください」

「ありがとうございます! 聖女様!」


 ジークフリートが再び深く頭を下げ、周囲からも歓喜と感謝のどよめきが上がった。中には、本当に涙を流して手を取り合う者さえいた。


 こうして、平凡な女子大生だった鈴木麻衣は、異世界クロイツ帝国の聖女として、新たな運命へと足を踏み入れることになった。



* * *



 私に与えられたのは、宮殿の東棟に位置する、目も眩むほど豪華な一室だった。


 広さは、以前住んでいた六畳一間の格安アパートの十倍……いや、二十倍はあるだろうか。部屋の中央には天蓋付きの巨大なベッドが鎮座し、雲のようにふかふかな羽毛布団が私を誘っている。壁には歴史的な価値がありそうな名画が並び、窓の外には帝国自慢の庭園が一望できた。色とりどりの花々が咲き乱れ、池では白鳥が優雅に羽を休めている。

 すべてが、絵画の中の世界のようだった。


「聖女様、こちらがお部屋でございます」


 案内してくれたのは、メイド長のアンナという女性だった。三十代半ばほどの、きびきびとした所作と落ち着いた物腰が信頼を感じさせる。


「すごい……こんな部屋、インスタの投稿でしか見たことないです……」

「お気に召していただけて光栄です。聖女様には、三名の専属メイドをつけさせていただきます」


 紹介された三人のメイドは、いずれも二十代前半の若く美しい女性たちだった。彼女たちが一糸乱れぬ動きで深々とお辞儀をする姿は、まるで舞台女優のように洗練されている。


「あ、うん。こちらこそ……って、専属メイドって具体的に何をしてくれるんですか? 掃除とか洗濯とか?」

「それは専門の職務に当たる者がおります。彼女たちの役目は、聖女様のお着替え、入浴のお世話、お食事の給仕、髪の手入れ……その他、聖女様が必要とされることすべてを、身の回りでお手伝いすることにございます」

「えっ、着替えとかお風呂って、自分でできますけど」

「いいえ」


 アンナがきっぱりとした口調で、けれど優しく微笑んだ。


「聖女様は帝国で最も尊いお方。そのような雑事を、尊きご自身の手でなさるなどあってはなりません。どうか私どもにお任せください」


 そう言われてしまえば、頷くしかなかった。

 郷に入れば郷に従え。何より、この世界で私は「特別な存在」なのだ。


 それからの数日は、まさに夢そのものだった。

 朝はメイドたちの柔らかな声で目を覚まし、彼女たちが開けるカーテンから差し込む朝日を浴びる。顔を洗うのも、用意された温かい蒸しタオルで丁寧に拭ってもらうだけ。

 最初は他人に着替えを委ねることに猛烈な気恥ずかしさを感じていたけれど、彼女たちの「これが当然」という淀みのない手際に身を任せているうちに、私の心からも余計な緊張が消えていった。


 食事は、もはや感動を通り越して畏れ多さを感じるレベルだった。

 ジューシーな肉料理、繊細なソースが彩る魚料理。瑞々しい野菜に、食べたこともないほど上品な甘さの果物。驚いたことに、少しパサついてはいるものの、お米も提供された。

 昨日の夕飯に食べたカップラーメンや、もやしでカサ増しした自炊料理が遠い過去の記憶のように霞んでいく。


「聖女様、お口に合いますでしょうか?」

「うん、すごく美味しい! 今まで食べた中で、間違いなく一番です!」


 私が素直な感想を伝えると、メイドたちは自分のことのように顔を綻ばせた。

 食後は日傘を差してもらいながら、広い庭園を散歩するのが日課になった。噴水の水音を聴きながらベンチでぼんやり過ごす時間は、バイトを三つ掛け持ちしていた頃の私には考えられない贅沢だった。


 午後は、この世界の知識を学ぶ時間だ。歴史、文化、そして「文字」の読み書き。


「聖女様、召喚の魔法には言語理解の加護も含まれておりますので、会話に支障はないはずですが」


 そう言って学習を手伝ってくれるのは、若き魔術師のユリウスだった。魔導師長エルヴィンの筆頭弟子である彼は、銀髪を揺らす知的な雰囲気の青年だ。


「話せれば十分かもしれませんが、文字が読めないのはやっぱり落ち着かなくて」

「確かに。向上心がおありなのは素晴らしいことです。ご安心ください、聖女様は大変聡明でいらっしゃる。すぐに覚えられるでしょう」


 ユリウスの教え方は、驚くほど丁寧で優しかった。彼の言う通り、不思議なほどスッと知識が頭に入ってくる。


「素晴らしい! 聖女様、もうこの一節が読めましたね」

「本当だ……自分でもびっくりしています」

「聖女様は特別な方ですから」


 ユリウスが浮かべる微笑みは、他の貴族たちのそれよりもずっと自然で、私の心を温かくした。


 ある日の学習中、私は気になっていたことをエルヴィンに尋ねてみた。


「あの、私が浄化した『魔石』って、その後どうなるんですか?」


 エルヴィンは少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑み返して答えてくれた。


「良い質問ですね。魔石には膨大な魔力が凝縮されています。その力は、結界の維持や魔法具の動力源、さらには高度な治癒魔法の触媒など、多岐にわたる用途に使われます。帝国の発展には、魔石が欠かせないのです」

「治癒魔法にも……」


 その言葉に、私は胸を撫で下ろした。

 もし、自分の力が核廃棄物のような「厄介者」を生み出しているのだとしたら、と不安だったのだ。けれど、それが人々の生活を支え、命を救うために使われるのなら、私の存在意義は確かなものになる。


「じゃあ、魔石があればもっと多くの人を助けられるんですね」

「その通りです。聖女様の力は、帝国の未来そのものなのです」


 納得した。魔物の脅威を退け、その副産物で国を豊かにする。元の世界には戻れないけれど、ここで誰かの役に立てるのなら──それは、それほど悪い人生ではないのかもしれない。


 夕方になると、ジークフリート皇子が頻繁に部屋を訪ねてきた。


「聖女様、本日のご機嫌はいかがですか?」

「はい、順調です。ユリウスさんが上手に教えてくださるので」

「それは重畳。貴女がこの場所で、心安らかに過ごせているかが何よりの懸念でしたから」


 皇子の優しさに、私の心は少しずつ動かされていった。最初は「皇子様」という肩書きに緊張していたけれど、話してみると、とても優しくて思いやりのある人だということが分かった。


「聖女様、今宵は満月です。テラスから月を見ませんか?」


 ジークフリート皇子が優しく誘った。私の部屋には広いテラスがあって、そこからは夜空が一望できる。


「はい、ぜひ」


 皇子と一緒にテラスに出ると、空には美しい満月が輝いていた。こんなに大きくて明るい月は、元の世界では見たことがない。その光が、テラスを銀色に染めている。


「綺麗……」

「かつての聖女様によれば、この世界の月は、貴女の世界とは少し違うとか」

「そうですね。元の世界の月は、こちらのものよりずっと小さいです。月明かりも、銀色というより黄色です」


 私たちは並んで、手すりに寄りかかった。夜風が優しく吹いて、私の髪を揺らす。


「聖女様」


 しばらくの沈黙の後、皇子が口を開いた。


「この世界での生活には、もう慣れましたか?」

「はい。最初は戸惑いましたけど、みなさんが優しくしてくださるので」

「それは良かった」


 ジークフリート皇子が微笑む。月光に照らされたその横顔は、本当に美しかった。皇子が少し躊躇うように言葉を続ける。


「実は私は、貴女が召喚される前、少し不安だったのです」

「不安、ですか?」

「ええ。見知らぬ世界に連れてこられた貴女が、どれほど恐怖を感じるだろうか。どれほど怒りを覚えるだろうか、と」

 

 皇子が私を見つめた。その瞳には、真剣な光が宿っている。


「でも、貴女は……とても強い方だ。この状況を受け入れて、前向きに生きようとしている。その姿に、私は──」


 そこで皇子が言葉を切った。少し顔を赤らめているように見える。


「私は、貴女を尊敬しています」


 その言葉に、私の心臓が少し早く打った。尊敬、って。皇子様が、私のことを。


「そんな……私なんて、ただの平凡な学生で……」

「いいえ、貴女は特別な方です。聖女としての力だけではなく、その心の強さが」


 そして、皇子が一歩、近づいた。私たちの距離が、ほんの少しになる。


「聖女様──いえ、麻衣」


 初めて、名前で呼ばれた。その声は優しくて、少し震えているようにも聞こえた。


「この世界で、貴女が幸せに暮らせるように。私は全力でお守りします」


 そう言って、皇子が私の手を取った。その手は温かくて、優しくて。

 顔が熱い。心臓の音が、うるさいくらいに響いている。


 これって──恋?


 元の世界ではバイトと勉強に追われて、恋愛なんてしたことがなかった。友達が恋バナで盛り上がっているのを、羨ましく思いながら見ているだけだった。


 それなのに今、本物の皇子様が、私の手を握って、私を守ると言ってくれている。


「ジークフリート様……ありがとうございます」


 私の声は、少し震えていた。

 そんな私を、皇子は安心させるように柔らかく微笑んだ。そして、私の手の甲に、そっとキスをした。


「ごゆっくりお休みください、聖女様」


 そう言い残して、皇子は去っていった。


 一人残された私は、テラスの手すりにしがみついた。

 手の甲に残る、皇子の柔らかな唇の感触と吐息。温かい手のひらの記憶。優しい声。肌を撫でる夜風がそれらを奪ってしまいそうで、私は急いで部屋の中に戻った。


 ベッドに入っても、私はなかなか眠れなかった。何度も寝返りを打ちながら、皇子のことばかり考えていた。あの優しい瞳、温かい手、唇の感触。


(──こんな気持ち、初めてだ。これが恋なのかな)



 翌日の夕食は、皇族や重臣たちとの会食だった。次第に会話にも加われるようになっていく。


「聖女様は、我が国の歴史にご興味があるとか」

「はい。元の世界でも歴史は好きだったんです。本当はもっと深く学びたかったんですけど……就職のことを考えて経済学部を選んだので」


 そう。やりたいことより「生きるための手段」を優先し続けてきたのが、私の人生だった。

 けれどここでは、純粋な好奇心が歓迎される。


「この国の名前は、初代皇帝クロイツ陛下が五百年前に北方の諸部族を統一したのが由来なのですよね?」

「左様。よく学んでおられる。建国以来、我が帝国は常に困難を乗り越え、今の繁栄を築いてきました」


 語られる歴史に耳を傾ける時間は、何物にも代えがたい知的興奮があった。


 毎日が新鮮で、刺激的で、そして何より、温かかった。

 ふとした瞬間に、元の世界のことを思い出す。冷淡だった家族、孤独だったアパート、疲れ果てたバイト帰り。

 けれど、正直な本音を言えば。


 誰からも顧みられず、奨学金の返済に追われる未来しか見えなかったあの日々に比べ、ここは天国のようだった。

 誰もが私を「聖女」と呼び、必要とし、跪いてくれる。私の手を取って「全力で守る」と約束してくれる、素敵な皇子様がいる。


(もしかしたら、ここで生きていくのも……悪くないかもしれない)


 そんな予感が、いつしか確信へと変わり始めていた。



* * *



 召喚から一週間が経った頃のことだ。

 私はどうしようもなく浮かれた気分で、その日を終えようとしていた。

 訓練は順調そのもので、魔導師長エルヴィンからは惜しみない賛辞を贈られた。ジークフリート皇子との語らいは弾み、夕食のメインディッシュも頬が落ちるほど美味だった。


「おやすみなさいませ、聖女様」


 メイドたちが恭しく一礼し、部屋を辞していく。

 一人残された私は、吸い込まれるように柔らかなベッドへと倒れ込んだ。

 ああ、幸せだ。こんな満たされた生活、元の世界ではどれほど望んでも手に入らなかった。

 何もかもが報われた。そう確信して目を閉じた、その時だった。


 廊下から、話し声が漏れ聞こえてきた。


 先ほど退出したばかりのメイドたちの声だ。まだすぐ近くにいるらしい。

 最初は、明日の準備の相談でもしているのだろうと気に留めていなかった。けれど、厚い木扉越しに届いた一言が、私の思考を凍りつかせた。


「……それにしても、今回の聖女は本当に扱いやすいわね」


 囁き声。けれどそこには、先ほどまでの敬意など微塵も感じられない、冷ややかな響きがあった。


(……扱いやすい?)


 寝返りを打とうとした身体が止まる。

 心臓の鼓動が、ドクンと嫌な音を立てて早まった。


「ええ。前回の聖女とは大違いよ」

「前回の聖女……。本当に大変だったらしいわね」

「ええ、専属メイドだった私のお祖母様から聞いたわ。最初から最後まで帝国に反抗的だったんですって。『騙された』だの『利用された』だの、ずっと喚き散らして……」


 騙された。利用された。

 ベッドの上で、私は指先を強く握りしめた。聞き耳を立てる自分の呼吸が、ひどく荒く感じる。


「結局、その方はお勤めを終えた後、幽閉されたんでしょ?」

「そう。宮殿の地下牢。誰にも会わせてもらえないまま、三年近く閉じ込められていたそうよ」

「それで、最後はどうなったの?」

「さあね。ただ、牢から出されたという話がない以上──まあ、『処分』されたんじゃないかしら」


 処分。

 その単語が、氷の楔となって私の心臓に突き刺さった。


「今回の聖女は、その点本当に楽で助かるわ」

「ふふ、本当。ジークフリート殿下の『色仕掛け』に、見事なほどまんまと引っかかってくれたし」


 色仕掛け。

 ……違う。そんなはずはない。あの皇子の、真摯な眼差しが。あの温かな言葉が。


「殿下も御苦労なことよね。あんな、どこにでもいるような田舎娘に、あそこまで熱心に愛を囁かなきゃいけないなんて」

「でも、『マニュアル通りにやれば簡単だ』と仰っていたそうよ。過去の『ニホンジン』の聖女も、みんな同じパターンで堕ちたらしいし」


 マニュアル。演技。パターン。

 全身がガタガタと震え出した。歯の根が合わない。


「それにしても、ニホンジンって本当にチョロいわよね」


 笑い声が聞こえた。

 それは、先ほどまで私の髪を優しく梳いていた女性たちのものとは信じられないほど、醜く、卑俗な嘲笑だった。


「ちょっと優しくして、ちょっと褒めて、素敵な皇子様に『君が好きだ』とでも言われれば、すぐにデレデレして。まるでお子様ね。聖女様なんて呼んでるけど、所詮は『澱み』を収穫するための道具に過ぎないのに」

「まあ、そのおかげで私たちが楽できているのだけれど。前回みたいに暴れられると面倒ですもの。今回の子は素直に魔石を差し出してくれるでしょうし、その後はまあ、前回と同じ末路を辿るだけよね」

「使い終わった道具は捨てる。当然のことでしょう?」


 足音が遠ざかっていく。

 私は一人、広すぎるベッドの真ん中で、虫のように丸まっていた。

 視界が歪む。涙が溢れそうになる。けれど、必死でそれを堪えた。

 泣いている場合じゃない。ここで泣いたら、彼女たちの言う通り「チョロい子供」のままだ。


 深く、深く呼吸を繰り返し、無理やり思考を稼働させる。

 事実を整理しろ。感情を殺して、最悪の状況を直視するんだ。


 一、帝国は私を救世主などと思っていない。ただの便利な使い捨てツールだ。

 二、ジークフリートの優しさも、この部屋の贅沢も、すべては私を従順にさせるための工作。

 三、先代の聖女は任務完了後に地下牢へ送られ、おそらく殺害された。

 四、このままでは、私も同じ結末を迎える。


 ……けれど、まだ情報が足りない。

 なぜ「澱み」を封じなければならないのか。メイドたちが言った「収穫」とは何を意味するのか。

 エルヴィンは、魔石は治癒魔法などに使うと言っていた。だが、あのメイドの口調からは、そんな温かみを感じられなかった。何より、連中の言葉をそのまま信じられるわけがない。


 私は静かに、けれど俊敏にベッドから起き上がった。

 深夜の宮殿は静まり返り、廊下には人の気配もない。

 私は音もなくドアを開け、夜の闇に紛れて歩き出した。

 向かう先は一つ。情報を掴める場所──図書室だ。


 ユリウスに教わった読み書きが、皮肉にもここで役に立った。

 暗闇の中、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、私は本棚の迷宮を彷徨う。

 見つけた。

 『魔石の性質と応用』──その分厚い背表紙を指先でなぞり、ページをめくる。


「魔石は澱みを封じたものであり、内部に膨大な魔力を秘めている。その力は大規模な空間転移魔法において、触媒としてほぼ必須である」


 空間転移──。

 心臓が跳ねた。

 召喚の魔法と同じ原理。ということは、魔石さえあれば、理論上は「帰還」も可能だということか。


「召喚規模の転移には、通常、複数の高純度魔石を組み合わせて使用する。単独の魔石では、安定性に欠ける可能性がある」


 複数の魔石。

 ……いい、それでも構わない。やってみる価値はある。あるいは、一つでも無理やり術式を起動させる方法があるかもしれない。

 私は必死にページをめくり、空間転移の術式、魔石の接続方法、必要な術言の構成を、すべて脳裏に焼き付けた。


 本を棚に戻し、私は逃げるように部屋へ戻った。

 再びベッドに横たわる。けれど、先ほどのような安らぎはどこにもない。

 皇子も、魔導師も、メイドも。この国のすべてが、私を罠に嵌めようと舌をなめずりながら笑っている。


 だが、私にはまだカードがある。

 「何も知らない無知な聖女」を演じ続け、奴らに魔石を作らせる。

 それを奪って、私は元の世界に帰る。


 ただ一つ。

 もし私が魔石を奪って消えたら、この世界はどうなるの?

 結界が解け、治癒の力が失われ、罪のない人々が魔物に襲われることになるのだろうか。


 ……ふざけるな。

 これまで苦労して生きてきた私を、また犠牲にしようというのか。

 他人のために、殺されるのを待てというのか。


 私はまだ、自分の中に生まれた真っ黒な問いに、答えを出せずにいた。

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― 新着の感想 ―
マニュアル通りとはいえ、皇子が体張って色仕掛けしてるのに、口の軽いメイドときたら……。
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