2-4
考えてみれば至極当然で、単純な話だ。
生物は本能によって行動する。
それは人間も例外ではない。空腹になれば食物を求め、眠ければ無意識に身体を休めようとする。人間の三大欲求――食欲、睡眠欲、性欲――は知性や理性で抑えられるものの、誰にでも限界がある。
ではもし、吸血鬼の本能を持って生まれた人間がいたならどうなるのか。
人として生活できるがゆえに、余計に深く食い込んでくるその理性を揺るがすもうひとつの衝動は、想像を絶する苦悩と葛藤を生むだろう。
昼休みも終わろうとしていた午後十二時四十五分。
恭介は一人、教室の窓際で頭を抱えていた。今朝のバスの中でした、林檎とのやり取りが頭の中で何度も繰り返されていたからだ。
「吸血鬼カーミラの物語のように、取り憑かれて血を吸い尽くされないようにね」
音無林檎は不気味に薄く笑っていた。けれど、恭介にはどうしてもその言葉が引っかかっていた。
あのときの林檎の笑いは、冗談めいていたけれど──どこかで「本当のことを知っている人間」の目をしていた気がしたのだ。
それは、昨日の出来事と重なっていたからだ。
──深憂にキスをされた直後、彼女は柔らかな口調で問いかけてきた。「血、吸ってもいい?」と。
すぐに冗談だと笑っていたものの、言葉として出た以上、それは心に浮かんだ彼女の欲望だったはずだ。
抑えていた衝動が、無意識のうちに唇から零れ出た――そう考えてしまうと、頭の中に不安がじわじわと広がっていく。
もし林檎の言葉が真実ならば、深憂の中で何かが限界に近づいていて、自分の血を求めている可能性もある。
最悪、命を吸い尽くされるか、吸血鬼の仲間入りをするか――そんな突飛な想像ですら、否定しきれないのが現状だった。
一方で、林檎の話が虚構であるという可能性もある。
しかし、林檎が吸血鬼の存在を知っているいる存在であり、恭介が知らない自分自身の秘密について何かを知っているような素振りすらあった。そう思えば、彼女の言葉をまったくの戯言と断じるわけにもいかない。
自分の中で、深憂への好意と、林檎の警告、そして血への衝動という未知の要素が入り混じり、思考は絡み合っていた。
(……俺は、一体何を信じればいい?)
深く息を吸い込み、肺の底からため息を吐き出す。その風が机上の紙をひらりと揺らした。
そんな恭介の隣にいるのは――吸血鬼の本能などとはまったくの無縁で、むしろ人間の三大欲求に忠実すぎる存在。
自制という言葉から最も遠い位置にいる男、岡田道彦である。
道彦は鼻息荒く、沈んだ表情の恭介をじっと見つめると、唐突に強い口調で言い放った。
「さぁて、恭介! 我々は誰よりも早くスポーツウェアに着替えているわけだが!」
恭介は眉をひそめ、不愉快そうに道彦に返した。
「……ああ、体操着に着替えたな」
「俺がハリーで着替えるように言ったリーズンはわかるか、恭介!」
「……ああ、速攻で着替える理由はわからんな」
「オーウ、サノヴァ◯ッチ! お前はこの状況でこれからやることをイマジンできないとは、かなりのエアヘッド野郎だぞ! ドゥー・ユー・アンダースタンドゥゥゥゥッ!!」
『頭が空気みたい=アホ』という意味らしい。お前に言われたくないわ。
それにしても、うざったいほどのハイテンションに恭介は辟易していた。
人が頭を悩ませている時くらい空気読めよ、この野郎……とでも言いたくなるような、どこかで見たことのあるお笑い芸人の口調が脳裏をよぎる。しかもネタが相当に古い。今って知ってる人いるのか? むしろ何で俺が知ってるんだったっけのレペルの古めかしさだ。
今にも「トゥギャザーしようぜ!」とか言い出しそうな道彦に、恭介は訝しげな表情を向けた。
「で、お前は一体何をするつもりなんだ……。っていうか、何でタイ・カダイ語族じゃない方のルー語なんだよ。それとも奇妙な漫画描いてる作者のリスペクトの失敗例か……?」
「……今日の俺、変か?」
「ああ、すごく変だ。それに奇妙な漫画の方は言葉回しが相当格好良いけど、お前にはマジで似合ってねえよ。これなら女子どころか男子さえもイチコロだな。逆の意味で」
「おかしいか。そうか、この口調じゃウケは狙えないか」
「おかしいのはお前のセンスだろ。それにどこの誰からウケを取ろうとしてるんだよ、お前は……」
この変と言われて自分のキャラ付けを模索する男子生徒、岡田 道彦は、恭介の小学校時代からの腐れ縁の悪友だった。
快楽と欲望の化身──恭介が一言で彼を表現するならそんな言葉になる。
自分の欲望に忠実で、それを叶える実行力も持ち合わせたわかりやすいスケベバカ。
彼のしょうもない『真剣な考え事』に巻き込まれるのは昔からの日常茶飯事で、恭介は正直もう勘弁してほしいと思っていた。
げんなりした顔を浮かべ、恭介が言った。
「で、わざわざこんなところにまで出て何をするつもりだよ。危ないだろ」
二人がいたのは、教室の窓から外へと乗り越えた場所。
無論、空中に浮いているわけではない。足元には校舎の壁に沿って幅三十五センチの足場があり、そこに立っているのだ。
一歩でも踏み外せば二階の高さから校庭の地面へと落下し、正面衝突できる危険な場所だ。
そんな場所に恭介が連れ出された理由を道彦はこう言う。
「ディープなリーズンがエクソシストしてるんだよ」
深い理由があるんだよ、と言いたいらしいが、道彦のわざとらしいキャラ付けのクドさはさすがに鬱陶しい。
悪魔払いされるべきはお前の頭の中身だと、恭介は内心で毒づく。
げんなりする恭介の心中などお構いなしに、道彦は景気のいい口調で言った。
「恭介、今日は何の日かわかるか!」
「そろそろクリスマスの12月半ばの中途半端な平日に、何か特別なことがあったか? 俺にはわからないな」
「わかった、言い直そう。今日行われる学校行事は何だ?」
「何って……健康診断だな」
「そうだ、健康診断だ」
満足そうに頷く道彦。
「じゃあもう一つ質問だ、恭介。俺たちは健康診断のために2-Bの教室で体操服に着替えた。誰よりも早くだ。そして、他の男子達が教室でゆっくり着替えている間に、俺たちは窓の外の足場にいる。この行動の目的がわかるか?」
わからないから聞いているのだが、恭介は言わない。
道彦は続ける。
「ヒントは隣の教室だ」
「隣の教室……?」
道彦に促され、恭介は考えた。
隣は2-Aの教室。今日は女子の更衣室がキャパ的に使えないため、他クラスの女子が教室で集まって着替えている時間だ。
B組の教室の男子達はまだ着替えているが、ということはA組教室に居る女子達もまた着替えは──
恭介はやっとわかった。呆れた表情で道彦に向き直った。
「覗きとかするんじゃねえよ、最低な上に犯罪だぞ。さすがに先生に言いつけるぞ」
「はっ、良い子ぶってんじゃねえぞ恭介。男ってのはな、自己の欲求を満たしてなんぼだ。女子が着替えてるイコール覗く。単純明快な男の行動理念なんだよ」
道彦は窓の鍵のかかっていない場所を探しながら、一つ一つ確認していく。
恭介は足場に腰掛け、足を宙にぶらつかせて深いため息をついた。
「自己の欲求……なあ。俺を付き合わせるんじゃないよ」
「どうした、さっきからため息ばかりつきやがって。何かあったのか?」
窓の施錠を調べつつ、道彦が尋ねる。
恭介は眼下の校庭で一年生がサッカーゴールの位置を直している様子を見下ろしながら答えた。
「例えばだけど、俺に好きな子がいるとする」
「ああ」
「俺はその子のことがたまらなく好きだし、その子も俺のことを気に入ってるとする」
「嬉しい状況じゃねえか。それで?」
「でも、彼女には近づかない方がいいって言う秘密を知っている奴が現れたとする。ほかにも彼女の秘密に気づいている人間がちらほらいる感じだ。俺はどうすればいいと思う?」
「秘密って、神良のか?」
その言葉に恭介は驚いて道彦を振り返った。
だが道彦は顔を向けず、黙々と窓の鍵を調べたりカーテンの隙間から中を覗いたりしている。
「なんでわかるんだってか?」
「本当だよ。何でお前が知ってるんだ……」
恭介の驚きと疑いの混じった視線を無視して、道彦は言う。
「お前と神良の様子を見てりゃ誰でもわかるだろ。いちいち対象をぼかして言う必要なんてねえよ」
道彦の言葉に、恭介は息を呑んだ。
音無林檎が深憂の吸血鬼の血に気づいていることを考えると、道彦もまた彼女の秘密に気づいているのではないかと思えてしまう。その考えが、なぜか妙に心配な気分を呼び起こすのだった。
恭介が口をつぐんで黙っていると、道彦は重い口調で続けた。
「最近、うちの生徒が何人か失踪してるって話、知らないか?」
「……いや、初耳だ」
「俺も詳しいことは知らないけど、もう十人くらい家に帰ってないらしいんだ。最初に行方不明になった奴の友達から聞いた話だと、一度下校してからどこかへ出かけて、そこから行方がわからなくなってるらしい」
「……」
「それにさ、例の吸血鬼が関わってるって噂の殺人事件、知ってるだろ? うちの生徒の一部では、その犯人が神良じゃないかって密かに囁かれてるんだよ」
恭介は言葉を失った。そんな噂があることすら、初めて聞いたのだ。
彼の驚きに気づいた道彦は肩をすくめる。
「その『秘密を知っている』って奴が言ってるのも、たぶんこの噂のことじゃないのか?」
「ま、まあな……」
「まったくくだらない話だよな。神良が吸血鬼みたいに八重歯があるからって、それが噂の理由だってよ」
「え?」
道彦の軽口に、恭介は目を丸くした。どうやら彼は深憂が本当に吸血鬼だとは知らないらしい。先ほどの心配は、自分の考えすぎだったのかもしれないと気づかされた。
……なんだ、知らないのか。そう思った瞬間、胸の奥の冷えた不安が、少しだけ緩んだ気がした。
恭介の様子を気にせず、道彦はからりと笑いながら話を続けた。
「俺、神良とは中学の時、三年間同じクラスだったんだ。あの頃も神良はクラスの奴らに嫌がられてたんだぜ」
「それは初めて聞いたな……」
普段は明るく、人当たりもいい深憂のイメージからは想像しにくい話だった。
道彦は片眉を上げて、恭介の驚いた顔を見つめる。
「知らなかったのか? まあ、しょうがないか。恭介が神良と知り合ったのはこのクラスになってからだもんな」
「中学の時はどうだったんだ?」
恭介の問いに、道彦が頷いた。
「中学の頃もやっぱり神良の八重歯が原因だったよ。神良って外国人のハーフだろ? それに、人を避けてるような感じもあって、でもクラスの中ではとびきり可愛かったんだ。で、あの牙みたいな八重歯を男子がからかって『神良は吸血鬼だ』って騒いでたんだ。最初は気を引きたくてやってたらしいけどな」
「俺ならもっとスマートにやるぜ」と道彦が言うが、恭介は「お前の場合はスマートよりストレートだろ」と心の中でツッコんだ。
「それで、それがどうして孤立につながったんだ? むしろ大人気じゃないか」
「中学生って、加減を知らないからな。だんだんエスカレートしていったんだ。神良も最初は我慢してたけど、限界がきたんだろう。ある日、神良がキレてさ……」
「……それで?」
道彦の口元に微かな笑みが浮かんだ。
「神良がからかってきた男子の首筋に、ガブリと噛みついたんだ。あの鋭い八重歯でな。それで、その男子の血を吸い出して、ペッて吐き出したあと、こう言ったんだ」
「何て言ったんだ?」
「『不味い』って吐き捨ててからの、『そうだよ、私は吸血鬼だよ!』ってな」
「……」
「正直、温厚そうな神良がそんなことやるなんて面白くて仕方なかったぜ。でもそれからはひどかった。怪我を負わせたから職員室でみっちり叱られたらしい。男子の方は──まあ、軽傷だったけどな。そこからみんな神良を怖がって、誰も近寄らなくなった。今の状況と同じだ」
恭介は複雑な表情で呟いた。
「そうだったのか……」
道彦はふっと笑って言った。
「噂なんて気にすんな。所詮は噂だ。神良も前より明るくなったし、すぐに元に戻るさ。お前は心配しすぎだよ」
ガッハッハッと笑う道彦に、恭介は驚いた表情で視線を送る。道彦は肩をすくめた。
「大体、本当に吸血鬼なら普通に高校生なんてやってないだろ。こんな太陽の光が射し込む明るい教室で弁当すら食えねぇよ」
「そ、そうだよな……」
恭介はほっとした。
道彦の言う通り、たかが噂の範囲で済むならば、心配する必要はないのだ。
だが、まだ不安は拭えなかった。音無林檎の存在があった。
彼女だけは、噂の域を超えて何か動いている気がしてならない。
その曖昧な思いを察したのか、道彦が眉を寄せて言った。
「まだ心配事があるって感じだな……」
「まあ……な。秘密を知ってるって言ってた人物が気になるんだよ」
「そんな奴、気にすんな」
道彦は拳を握りしめ、声を上げた。
「良いか恭介、男ってのは好きな女がいる時は周りのことなんか気にせず突っ走ればいいんだ! アクセル踏み込めばオイルがエンジンに流れ込む! 恋愛なんて単純な考えで大丈夫なんだ! 秘密が何だ? 噂が何だ? お前、好きな女に好きだって言うのに周りの目を気にすんのか!? 違うだろ!」
「あ、ああ……」
道彦の興奮した口調に気圧され、恭介は気の入らない返事を返す。
道彦はさらに続けた。
「返事がなってねえぞ、恭介! お前は甘いんだよ! 刮目して見てろ、俺が見本ってやつを教えてやる!」
そう言うと、道彦は教室の窓に手をかけた。
勢いよくアルミサッシの窓を開け、カーテンを一気に引くと中の光景が二人の視界に飛び込んできた。
道彦は窓から顔を突っ込み、女子が着替えている教室の中に叫んだ。
「渡辺ぇぇぇぇぇぇぇ!! お前のことが好きだぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
最低最悪のタイミングでの告白だった。自称見本とはよく言ったものだ。
ちなみに渡辺とは渡辺結子。道彦が好意を寄せる女子だ。
突然の叫びに、体操着の上着を着ようとしていた上半身下着姿の渡辺結子は叫び声を上げた。
そして、そのまま道彦の顔面に椅子をぶつける。
ぶぁっかぁ〜ん。
道彦は顔面に椅子を受けて、親指を立てながら言った。
「へへっ、俺……振られちまったぜ……」
それは当然だろう。
宙に身を投げ出すように足場から落ちていく道彦を、恭介は冷めた視線で見つめていた。
そのまま校庭へと落下し、木の青い茂みに背中から突っ込んでいく彼に、恭介は教室の女子に見つからぬようそそくさと逃げながら心の中で合掌した。
──道彦よ、安らかに眠れ。