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教室に着いた瞬間、恭介は目を疑った。
忽然と姿を消したはずの林檎が、自分の席の左隣──彼女の席に、まるで何事もなかったかのように座っていたのだ。
恭介には、もともと普通に歩いているときでさえ、つい早足になる癖があった。
だが今日は、その早足がさらに加速していた。
林檎がバスを降りた直後、突然視界から消えたことが、妙に不気味に思えたからだ。
彼女の姿を探しながら、登校中の生徒たちの間をすり抜け、息を切らせて教室に駆け込んだけ──それなのに、林檎は呼吸を乱すこともない。静かに座っている。
どこか現実味のない、異様な光景だった。
もし林檎が先に着いていたのだとすれば、単純に恭介よりも速く移動していたということになる。
けれど、バス停から校門までは一本道。
たとえ走っていたとしても、視界から“忽然と消える”なんて錯覚を起こすような状況ではなかったはずだ。
──とにかく、不自然だった。
林檎は、あの瞬間に突然消えて、そして今、突然ここに現れた。
スタートとゴールの間の記憶が、まるごと切り取られたかのように──林檎の移動の事実だけが、この世界からこぼれ落ちていた。
──まさか、ワープなのか?
喉元まで出かかった言葉を、恭介は咄嗟に飲み込んだ。
「ワープ」なんて、あるわけがない。
現実離れした妄想だ。そんな能力、そんな現象、存在するはずがない。
だが──そう打ち消そうとするたび、目の前にある結果が否応なく思考を引き戻す。
実際に、彼女はバス停で消え、次に現れたときには教室にいた。
その間の移動が、なかったことのように飛ばされている。
現実に起きた現象が、「ワープ」以外の言葉で説明できない──
その事実こそが、恭介を最も混乱させていた。
胸の奥でざわめく不安を抑えきれないまま、恭介はゆっくりと林檎の方へ視線を向けた。
「おはよう、史文君。これで今日は二回目ね」
まるで何もなかったかのように、彼女は柔らかな微笑を浮かべた。その唇の端に浮かんだ笑みは、冷笑とすれすれの薄さだった。
恭介は、心臓が一拍跳ねるのを感じた。
その一瞬だけで、背中に悪寒が走る。
「……音無さん、足速いんだね」
なんとか絞り出した言葉に、ひきつった笑顔がついてくる。自分でも滑稽だと思いながら、席に腰を落とす。
壁の時計を見上げた。8時20分。いつもなら、あと5分もすれば隣の席にやって来る女子──神良深憂に、どんな声をかけようかと心を弾ませている時間帯だ。
だが、今日は違った。
林檎の存在が、気になって仕方がない。
それは彼女が美しいからとか、転校生だからとか、そんな単純な理由ではない。
何かが──決定的に、異質なのだ。
そして、バスで聞いた彼女の一言。あの不自然な言葉が、恭介の中で引っかかり続けていた。
林檎は黙ったまま、小説のページを静かにめくっている。その横顔は整っていて、どこか神秘的ですらある。だが、湖面のような静けさの下に、何か猛毒めいたものが潜んでいるような──そんな危うさがあった。
──この子の裏には、何かがある。
そう直感したが、それ以上は考えても霧の中だった。
考えても無駄だ。ならば、聞くしかない。
恭介は、息を吐いてから意を決して声を発した。
「……音無さん。さっきのことで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
林檎は顔を上げ、ふわりと笑った。
「なにかしら?」
その笑顔には、初対面のときと同じ、まるで何もかもを見透かしているかのような余裕があった。
「……どうして、君が知ってるんだよ」
あえて核心には触れず、探るように言葉を選ぶ。相手の出方を窺いながら。
すると林檎は、髪を指先で梳きながら、艶やかな微笑を深めた。
「あら、『知ってる』って、何のことかしら?」
やはり、こちらの意図はすでに見透かされている。恭介は内心で舌打ちした。
だが、ここで引いては意味がない。さらに一歩踏み込む。
「……とぼけないでくれよ。少なくとも、転校してきたばかりの君が知っているのはおかしいことばかりだ。俺の名前も、彼女の──」
秘密という言葉を喉元で止める。
それでも、言いたいことは伝わったのだろう。林檎は薄く目を細め、わずかに口角を上げて言った。
「あなたの名前、そして神良深憂の秘密。なぜ私が知っているのか、ってことね?」
「……ああ」
「あなたの名前に関しては、前もって調べていただけ。神良深憂については──そうね。彼女を見れば、自然とわかるんじゃないかしら?」
そう言って、林檎はそっと顎を上げ、教室の入り口へと視線を向けた。
恭介が振り返ると、そこにはブレザー姿の神良深憂が立っていた。
けれど、普段の明るい笑顔はそこになく、表情は曇り、どこか翳りを帯びている。
その異変に、恭介は眉をひそめた。
(──どうしたんだ、深憂さん……?)
だが、答えは彼女を見るクラスメイトたちの視線にあった。
「おはよう、桂子ちゃん」
深憂が声を掛けたのは、クラスメイトの山宮桂子。その声はいつもより少しだけ低く、どこか無理に明るさを繕ったものだった。
桂子と視線が合った瞬間、彼女の肩がビクリと震える。
「お、おはよう……深憂……」
ぎこちない返答と共に、桂子はそのまま目を逸らし、そそくさと自分の席へと逃げるように歩いていく。
その背中を、深憂はじっと見つめ──ひとつ、ため息をついた。
やはり、様子がおかしい。
桂子だけではない。他のクラスメイトたちもまた、遠巻きに深憂を見ては、顔を寄せ合い何かを囁いている。
軽蔑、恐れ、嘲り。
どの感情も、深憂にとって歓迎されるものではない。それは、教室の空気に敏感な恭介にも、容易に感じ取れた。
深憂は視線を伏せ、まるでその視線から逃れるように、自分の席──恭介の右隣へと歩いてきた。そして、鞄を机に置くと、肩を落としたまま静かに腰を下ろす。
その姿は、昨日までの明るい深憂とはまるで別人のようだった。
恭介は心配になり、そっと声をかける。
「深憂さん……おはよう」
「……おはよう、恭介君」
力ない声。かろうじて微笑もうとするものの、その表情はどこか痛々しかった。
「どうしたの? なんだかクラスの皆も変だし、深憂さんも……元気ない」
恭介の問いかけに、深憂は眉根を寄せて困ったように微笑み、そして──ほんの少し、視線を泳がせた。
そして口を開きかけたが、ちらりと周囲のクラスメイトたちの様子を見て、かすかに首を振る。
「……ううん、何でもないよ。こういうの、慣れてるから」
その言葉とは裏腹に、深憂の笑顔は張りついた仮面のようで、今にも崩れそうだった。
ほんの一瞬、口元が震えたのを、恭介は見逃せなかった。チクリと胸を刺されたような気持ちになった。慣れるはずのない痛みに、慣れさせられてきた彼女を思うと──それがどれほどの強がりなのか、想像するだけで胸が詰まる。
普段の彼女なら、屈託のない明るい声で返してくれるはずなのに──今日のそれは、心からの笑顔とはとても思えなかった。
そんな恭介の心中を見透かしたように、後ろから林檎が声を投げかける。
「神良さん、少し……調子が悪そうね?」
柔らかい口調。だが、その声音にはどこか意図的な冷たさがあった。
「調子は悪くないよ。病気もしてないし……」
深憂は弱々しく否定するが、その声はどこか空回っていた。
林檎は唇に意味深な笑みを浮かべ、続ける。
「でも、顔色が悪いわ。──昨夜は、ちゃんと食事はしてきたのかしら?」
その一言で、教室の空気がピンと張り詰めた。
食事──その言葉に、妙に語気が込められていた。
深憂の釣り目が見開かれ、一瞬、動きが止まる。
その反応を予期していたかのように、林檎は静かに、妖艶に笑った。
「……」
深憂は何も言わず、視線を逸らす。
そのやりとりを見ていた恭介は、ただ黙って苦い表情を浮かべるしかなかった。
言葉にできない何かが、この教室には、確かに漂っている。