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煙を上げながら、バスが坂道を下ってくる。
バス停には撫蘭高校の生徒たちが、まるでバーゲンセールでも始まるかのように列をなしていた。
昨日見たテレビの話、クリスマスの予定、バイト先の先輩がイケメンだとか、自分の彼氏がどうだとか……。
男子生徒たちが、それぞれ他愛ない話に花を咲かせている。……ん? いや待て。これ、全部男子が話してる話題なのか?
特に最後のやつ。時代的には“多様性”ってやつなんだろうけど、さすがにそれはまだありふれてるとは言えない気がする。まあいい。今はスルーしておこう。
「はぁ……」
人だかりの中で、史文恭介はひとつため息をついた。
この朝、彼は一人だった。正確に言えば妹の陽子も一緒にいたのだが、バス停に着くなり友達の元へ駆けて行ってしまったので、実質的には単独行動だ。
深憂の家はまるっきり逆方向にあるため、通学ルートもバスも重ならない。
本当は一緒に登校できたらいいのに——と恭介は思っているのだが、地理的な問題だけはどうにもならない。
バスが停留所に滑り込み、陽子たちが先に乗り込んでいく。恭介もそれを追って、静かに乗車した。
午前七時四十分。学校まで七つの停留所を越えて、およそ二十分。登校にはやや早い時間で、車内もまだ混雑していない。
ちらほらと空いている席の中から、恭介は窓際を選び、腰を落ち着けた。
やがて車内が人で埋まり、空気が抜けるような音とともにドアが閉まる。無感情な機械音声が出発を告げた。
ふと気づくと、恭介の隣だけがぽつんと空いていた。
そんなところへ、一人の女子生徒が歩み寄ってくる。
「史文君、隣いいかしら?」
外の景色をぼんやり眺めていた恭介が振り向くと、そこには見覚えのある女生徒が、どこか妖艶な笑みを浮かべて立っていた。
艶やかな漆黒のショートヘア、切れ長の瞳。冷たさを帯びたシャープな顔立ちのなかに、なまめかしい色香を湛えている——帰国子女の転校生、音無林檎。
昨日転入してきたばかりだというのに、すでに校内の話題を独占している。
その彼女が、まるでタイミングを見計らったように声をかけてきた。
深憂が本命の恭介としては、それだけで何かが起きるわけじゃない……はずなのに。
やはり美人に話しかけられれば、少しは動揺もしてしまう。
「……おはよう、音無さん。どうぞ」
「ありがとう」
落ち着いたアルトの声で礼を言い、林檎は隣に腰を下ろす。
そして鞄から一冊の文庫本を取り出し、静かにページをめくり始めた。
本を読む姿は、まるで一枚の絵画のように整っていて、視界の端でも存在感を放っている。
深憂が「可愛い」だとしたら、林檎は「美しい」に分類されるだろう。
仮に意中の人がいなくても、彼女のような美貌に抗える男子は多くない。
彼女には、例えるなら——“魔力”のようなものがあった。男の理性を曖昧にするような、得体の知れない吸引力。
(……ずいぶん分厚い本だな。何を読んでるんだろう)
つい気になって、恭介は横目でページを覗いた。
そこにはぎっしりと英文が並んでいる。……もうそれだけで、恭介には無理だ。
その視線に気づいたのか、林檎が顔を上げた。無表情のまま、じっとこちらを見る。
「あ、いや……何を読んでるのかなって」
慌てて口にした言い訳に、林檎は小さく笑った。
「……吸血鬼物の小説よ」
ふわりと微笑む唇に、恭介の心臓がわずかに跳ねる。
「へ、へぇ……吸血鬼って、ホラーとか?」
「ジャンル的にはゴシックホラーだけど、内容はちょっと違うわ」
林檎は本に栞を挟み、パタンと閉じてから恭介に向き直る。
「『吸血鬼カーミラ』って、聞いたことある?」
「うーん……ないと思う」
「アイルランドの古典怪奇小説よ。ドラキュラよりも前に書かれていて、ドラキュラにも影響を与えたって言われてるの」
「へぇ……」
「この話の吸血鬼は女。狙うのもすべて女。強烈なレズビアニズムの香りが漂ってる。——そういう小説よ」
妙にさらっと言い切られて、恭介は反応に困る。
「そんな本を……たまたま、読んでるの?」
「ええ。たまたまね。この街で“あの事件”を知ってから」
「……森彼方南公園の殺人事件、か」
頷いた林檎の目が、ふと冷たく光る。
「『吸血鬼の仕業』なんて噂もあるみたい。興味が湧いたのよ」
「はは……それ、オカ研の連中も追ってるよ」
「知ってるわよ。あなたが、そのオカ研の一員だってことも」
言葉の刃が、唐突に核心へと突き刺さる。恭介の肩がわずかに強張った。
「吸血鬼ものの魅力って、『取り憑かれる』ことだと思うの。カーミラもそう。吸血鬼は、恋をするみたいに少女を見つめて……血を吸うの。……あの事件の犯人も、もしかしたら、そうだったのかもしれないわね。カーミラのように」
「でも、現実の吸血鬼がレズビアンとは限らないだろ」
口にしてから、我ながら妙な切り返しだと思う。
林檎はまた、口元を歪めた。
「違うわ。あなたは——現実に吸血鬼が存在すると、どこかで思ってる。そういう目をしてる」
その視線は鋭く、何かを見透かすようだった。
正面から見ていると、こちらの内側まで剥がされてしまいそうで、恭介はそっと目を逸らす。
「まさか。空想の話だろ」
「嘘」
彼女は断言するように言った。
「普通の人は、『犯人は吸血鬼』なんて発想しない。でもあなたは——知っている。自分の家のことも、隠された力のことも」
「……は?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
家? 力? この女、何者なんだ。どういう意味だ?
「あなたは今、事件の真相に少しずつ近づいてる。表向きはオカルト研究部として、だけど」
「……」
「そうよね?」
返事をしない恭介に、林檎はひとつ息をつく。
「わからない振りをしているのか、本当に何もわからないのか……。史文の家の跡取りだからと期待していたのに。貴方に協力をお願いしようと思ったけど──まあいいわ」
バスはすでに撫蘭高校前に到着していた。乗客が次々に降りていくなか、林檎も立ち上がる。
そして、ふと振り返って言った。
「ひとつ忠告しておくわ。神良深憂には、気をつけなさい。もし彼女があなたを気に入ってるなら……特にね」
「え、それって……どういう意味だ?」
慌てて問い返す恭介に、林檎は意味ありげに微笑んだ。
「吸血鬼カーミラのように——彼女に取り憑かれて、血を吸われないように。……あなたの血、美味しそうだから」
その言葉を最後に、林檎はすっとバスを降りた。
恭介はあわててその後を追ったが、生徒の波のなかに、彼女の姿はもうなかった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「……なんで、深憂さんのことを……」
その呟きだけが、虚空に浮かんで消えた。