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目覚めた瞬間、彼女の内側を焼くような空腹が全身を支配していた。
胃がきしむ。骨が軋む。皮膚が剥がれそうなほどに乾き、ただ一つの本能だけが脳内を駆け巡っていた――何かを喰らいたい。
白布を払いのける。重さのない指が、するりと布地を押し退けた。彼女はゆっくりと上体を起こす。そこは暗く、ひどく寒々しい部屋だった。
鉄製の台の上に横たわっていた。まるで冷蔵庫の中の肉のように。部屋には線香の匂いが立ち込め、湿った空気の底に、鼻を突く金属臭が混じっていた。
(……血の匂い)
その瞬間、彼女の渇きが爆発的に膨れ上がる。口の奥が疼き、喉の奥に熱が集まった。まるで、自分の中の別の何かが目を覚ましたかのようだった。
ふらつく足取りで、冷たく無機質な扉に手をかける。内鍵を外し、ゆっくりと押し開ける。隙間から吹き込む夜気は刺すように冷たく、空には星一つ見えない。
それでも彼女の目には、そこにある“生”の気配が、赤い靄のように見えていた。
◆
静岡県・森彼方署。
地域課に所属する巡査部長、岡田俊介は、のちに提出された供述調書の中でこう語っている。
あの日――令和×年十二月某日。森彼方南公園で発生した殺人事件の被害者、原田まゆみの遺体は、署内の安置室に安置されていた。
誰もがそれを疑っていなかった。原田は、確かに死んでいたはずだった。
だがその夜、午後六時三十分頃。署内が騒がしくなり、岡田は当直勤務の同僚・小林巡査部長と共に署の職員用駐車場へ向かった。
そこで彼が目にしたのは、信じがたい光景だった。
死んだはずの原田まゆみが、刑事課所属の岩田厚巡査長の首筋に、食らいついていたのだ。
証言によれば、最初はただ抱きついているように見えた。だがすぐに、それがただの接触ではなく、明らかな吸血行為であることに気づいたという。
そして、直後に一発の銃声が響いた。
振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。
白いワイシャツに黒のスカート、胸元には赤いリボン。制服は市内の撫蘭高校のものだった。
彼女は無言のまま銃を構え、原田まゆみに向かって次々と引き金を引いた。
複数の弾が、原田の胸を貫く。
そして、信じられないことが起こる。
原田まゆみは胸元を押さえ、前のめりに倒れ――その肉体は、まるで砂のように、灰となって崩れ落ちた。
少女は崩れた灰の山をしばらく見つめた後、署の北側の塀を音もなく跳び越え、そのまま闇に姿を消した。
それ以降、岩田巡査長を見た者はいない。
彼は翌日の勤務にも現れず、自宅にも戻らなかった。家族による捜索願が提出されたものの、彼の行方はいまだ不明である。
岡田が提出した供述調書は、「記載ミス」として処理され、記録上の「甲五一号証」は欠番扱いとなった。調書の原本も、なぜか署内から消失している。
まるで最初から、そんな事件などなかったかのように。
だが岡田俊介の記憶には、いまだにあの夜の光景が焼きついて離れない。
灰になった少女。銃を手にした高校生。凍てつく風の中、影のように消えていった背中。
彼は確信している。
あれは夢でも幻でもない、紛れもない現実だった。
ただのおかしな夜として、片づけられるものではない。
だが、世の中というものは、そういう夜ほど器用に『なかったこと』にしてしまうらしい──