1-4⊕
昼休みを告げるチャイムが鳴り響いたその瞬間、2-Aの教室は一変した。
静寂は打ち破られ、まるで草むらに潜むゲリラ兵が突如標的を見つけたかのように、教室の扉がばたんと開く。教室の男子たちが、ざわめきとともになだれ込んできたのだった。彼らの目当てはただ一人、今朝転校してきたばかりの少女──音無林檎。
「音無さん、一緒に飯食べようぜ!」
「いや、音無さんは俺と食べるんだ!」
「いや、音無さんは俺が食べるんだ!」
「俺は音無さんに罵ってもらえるだけで良いですから……っ!」
「むしろ踏んでください……ッ!!」
……もう後半は誰も止められなかった。前半も止めるべきだったかもしれないが。このHENTAIどもめ。
しかし、それほどまでに音無林檎という少女は、目を惹いた。
長いまつげの奥からこちらを見据えるような瞳はどこか翳りを帯びていて、感情の奥を読み取らせない。だがその無表情が、逆に想像力を掻き立てる。どこか大人びた、静謐さを湛えた佇まい。少しだけ長い睫毛の影が、瞳の奥の謎めいた深さを際立たせていた。
漆黒の髪は、夜に差した墨のように深く艶めいていた。風にそよげば、制服の襟元を優しく撫でながら、まるで人ならぬものの気配を纏うように揺れる。その全てが整いすぎていて、まるで手の届かない絵画のような美しさがあった。
帰国子女で、十八歳。学年は一つ上。制服こそ同じだが、その雰囲気は明らかに他の生徒とは一線を画していた。
彼女を中心にして、男子たちの欲望と憧れが渦巻いている。大人びた美貌に、あわよくば、という下心が多分に含まれた好奇心。彼らの視線は、もはや遠足で動物園に行った小学生のような興奮に満ちていた。
恭介はそんな光景を斜め後ろの席から見やり、わかりやすく顔をしかめた。
昼食を取ろうとしただけの教室が、今や音無林檎を中心にした黒い人海と化している。男たちは一様ににやけ顔を浮かべており、誰がどこに座っていたのかもわからなくなるほどだった。
「すごい人気だな、音無さん……」
弁当の箸を口に運びながら、恭介がぽつりと呟く。
「ん~……」
向かいに座る神良深憂が、唇で箸の先をくわえたまま声を漏らす。長い髪が肩に落ち、その視線は男子生徒の集団の中央──つまり、林檎のいる方向をちらりと一瞥する。
「私は気に入らないな……」
「音無さんのこと?」
「うん」
視線を恭介へ戻し、小さく頷く。
「ひしひしと感じちゃうんだよね」
「感じる?」
曖昧な言い回しに、恭介は眉をひそめて聞き返す。
深憂はまた林檎の方に視線を投げた。男子たちの質問責めに、林檎はうんざりもせず、むしろどこか余裕すら感じさせる態度で応じている。
「なんていうのかな……敵対意識、みたいな」
「転校したばかりで?」
恭介は苦笑まじりに言った。だが深憂の顔は真剣だった。
「……名乗ってもいないのに、恭介くんのフルネーム知ってたでしょ? 気にならない?」
「うーん……前にどこかで会ってたとか、そういうのかも」
言いながらも、恭介の視線は林檎へと向かう。
その瞬間だった。
林檎がこちらに気づき、恭介と目が合う。まるでそれを待っていたかのように、彼女は艶やかに目を細めて微笑んだ。誘うような、試すような、どこか挑発的な眼差し。
恭介は思わず視線をそらし、広げた弁当に逃げるように目を落とした。
「……それに、音無さんって恭介くんのこと、狙ってるみたいだし」
不意に深憂が言った。むっとした声音だった。
「え?」
「恋のライバル出現、みたいな……」
その発言に恭介が顔を赤く染めて固まったのを見て、深憂は小首を傾げた。瞳をぱちくりとさせた後、彼の沈黙が何を意味するのかに気づくと、口元にふっと微笑みを浮かべる。
「あれ、言われて恥ずかしかった?」
「深憂さん……」
恭介は掌を額に当てた。ほてった体温を冷ますように。視線を伏せて、なにかを飲み込むように口をつぐんだ。
「お、俺は深憂さんのこと――」
好きだから、音無さんには興味ないよ。
……そう言いかけて、やはり最後までは口にできなかった。
「え、なになに~?」
深憂が楽しげに問いかける。無邪気に見える笑顔が、どこか恭介を追い詰める。耳までかっと熱くなるのを感じ、恭介は叫ぶように言った。
「な、なんでもないよ!」
逸らした視線の先で、深憂がイタズラっぽく瞳を細める。
その笑顔を、林檎はじっと見つめていた。男子たちに囲まれながらも、表情は動かない。だが、深憂の恭介を見る瞳を捉えたときだけ、その口元にひどく冷たい薄笑いが浮かんだ。
◆
時は変わって放課後。
日が傾き、窓の外には茜色の光が差し込んでいた。どこか埃っぽい生物実験室の空気を、その光が柔らかく染め上げている。
その静かな放課後の空気を打ち破ったのは、やたらと気合の入った、そしてどうにも高すぎる声だった。
「と、いうわけでぇ!」
教室前方のホワイトボードを、小さな掌が「バンッ」と叩いた。乾いた音が実験机とガラス器具に反響し、わずかに空気を震わせる。
その主は、黒髪セミロングの少女だった。片側だけ編み込みにして垂れ下げた髪が、動きに合わせて跳ねる。背丈は小柄、142cm。だがその態度だけは異様に大きい。
彼女の名は陽子。この実験室を拠点にするオカルト研究部の部長を務めている。
ホワイトボードには彼女の丁寧とは言い難い字で、しかし情熱だけは十二分に込められた大文字がでかでかと書かれていた。
──吸血鬼事件対策本部。
その勢いのまま文字を書いたのだろう。高さ的に明らかに彼女の手が届く限界ギリギリであることから、どうやら踏み台まで使ったらしい。そこまでして書いたのだ。もはや威厳すら感じる……なんてことはない。
「早速だけど、今日の活動はこれで行きたいと思いますっ!」
陽子は、ボードを両手でドンと指し示すと、ふふんと得意げに胸を張った。
……いや、張ったところで大して膨らんでいない胸が少し前に出ただけだった。
そんな彼女の前には、部員が二名。整然と席に並んでいるが、その実、場の空気はゆるゆるとしたものだった。
志ある新生オカ研の仲間たち──とはいえ、人数だけを見れば、部としての存続すら危ういレベルである。点呼を取ったとすれば、こうだ。
『これより部員点呼を行う。番号──!』
『1!』
『2!』
『列外1! 以上三名!!』
……ご覧の通りの少数精鋭、いや、単なる部員不足である。生徒会から「同好会への格下げ」という通達がいつ来ても不思議ではない弱小部。森彼方市立撫蘭高校において、オカルト研究部とはそういう存在だった。
背丈と部員数の両方を跳ね除けるような勢いで、今日も陽子は元気にふるまっている。だがその姿を見つめる一人の男子生徒──史文恭介は、半ば呆れ顔で溜息をついた。
「陽子……吸血鬼事件対策本部って、いったい何なんだよ……」
困惑の色を隠しきれない声でそう呟くと、陽子はきっと彼に振り返り、頬を膨らませてにらみつけた。
「お兄ちゃん! 私のことは部長と呼びなさいって、前にも言ったでしょ!」
ぶりぶりと唇を尖らせながらの抗議は、まるで小動物の抗戦のように見えなくもない。恭介は渋々ながらも肩をすくめて言う。
「はいはい、わかりましたよ……部長」
「うん、わかればよろしい!」
にっこりと笑みを浮かべて満足げに頷く陽子。その様子に、今度は神良深憂がゆるく手を挙げた。
「はいはーい、部長~。質問があります~」
「なぁに、深憂さん?」
快活な返事を返す陽子に、深憂はどこか間の抜けた口調で続ける。
「その事件対策本部って……結局、何をするんですか~?」
当然といえば当然の疑問だ。
オカルト研究部とは、高校生のオカルトごっこに過ぎない。怪事件の真相を暴いたり、犯人を追い詰めたりする役目ではないし、できるはずもない。
陽子は、それでもめげずに新聞の切り抜きをひらひらと掲げると、誇らしげに宣言した。
「よくぞ聞いてくれました! 本日より冬休みにかけて! 我々オカ研がこの吸血鬼事件の真犯人をとっ捕まえる大作戦を決行しま~す!」
その唐突かつ無謀な宣言に、部室内の空気が一瞬止まる。
恭介があんぐりと口を開け、深憂がぽかんとした顔で新聞を見つめる。
「……捕まえちゃうの?」
「そう! とっ捕まえちゃうの!」
得意げに胸を叩く陽子。ボスッと鈍い音が部屋に響く。拳の勢いを受け止めるだけのクッションは、そこにはなかった。
「で! もし犯人が本物の吸血鬼だったら――」
目を輝かせながら、陽子は左胸を叩いた拳を天井に掲げた。
「その胸に白木の杭をぶっ刺して、死体を標本にして部室に飾りまーす!」
「いやいやいや、待て待て待て!」
恭介が慌てて声を上げる。
「人間の形してるんだろ? そんなん標本にして部室に置いたら……殺人じゃねーか!」
「殺人? お兄ちゃん、甘いなあ~。吸血鬼は人間じゃないから、問題なし!」
にこにこと笑う陽子の口調は軽いが、言ってることはだいぶヤバい。
恭介は頭を抱えたくなる衝動をこらえつつ、ちらりと深憂の方に目をやった。彼女の反応が気になったからだ。
深憂は、自称『吸血鬼のハーフ』である。真偽はともかく、彼女にしてみれば「標本にする」という陽子の言葉は、あまりにも不用意なものだった。
だが──
「吸血鬼を標本に、かあ……。いいね、それ。面白そうじゃない?」
深憂は目を輝かせて笑っていた。むしろ、やる気満々である。
握った拳を胸元で掲げて、まるで新しいおもちゃを手にした猫のように無邪気な笑顔を浮かべる。つり目気味の瞳が、その分だけ余計に好奇心を映し、輝いている。
……性質が悪いな、と恭介は思った。
隣の席から、ふと棚の奥へと視線を移す。そこにはホルマリン漬けのサンプルがずらりと並んでいた。もしこの先、事件の真犯人が吸血鬼だったとして。もしその吸血鬼が本当に標本にされるとしたら――
その日、ここに新しい瓶が一つ増えているかもしれない。
恭介は、深々とため息をついた。妙な部活に足を突っ込んでしまったことを、今さらながらに後悔するのだった。