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唐の詩人・孟浩然は、その代表作『春眠』の中でこう詠んだ。
春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く。夜来風雨の声、花落つることを知んぬ多少ぞ。
春の眠りはあまりに心地よく、気づけば夜が明けている。鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、昨夜の風雨で、いったいどれほどの花が散ったのだろうか──そんな意味らしいが、今朝のホームルームにおける恭介の状況も、さながら「春眠」のようだった。
冬の教室は春のようにぬくもりに満ちていて、空気はやわらかく、視界はほんのり霞んでいる。壇上の担任の話はひたすら眠気を誘い、たまに飛んでくるチョークで顔面を打たれても、恭介の意識は夢うつつのままだ。
──おかげで、額はもう何発食らったかわからないほど、ぼっこぼこである。
それでも、恭介の目は変わらずとろんとしたまま。
そんな彼の様子を見た右隣の女子が、椅子ごとぐいと机に寄せてきた。頬杖をつきながら、彼の顔を覗き込む。
腰まで届く銀髪を揺らし、猫のようにきゅっと吊り上がった瞳が印象的な彼女──神良深憂だった。
「恭介くん、昨日眠れなかったの?」
問いかけに、恭介は半分閉じかけた目でちらりと彼女を見る。
「……」
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
「深憂さんって、上半身と下半身が別々に動いたりしないよね……?」
突飛な問いに、深憂は一瞬目を丸くする。そしてすぐに、何を言い出すのかと呆れたように笑った。
「なにそれ、道頓堀に沈められたカーネルサンダース人形じゃないんだから。私がそんな化け物なわけないじゃん」
いや、カーネルサンダースも別にバラバラになったりはしてなかった気がするけど……と恭介は思ったが、口には出さなかった。
彼は制服の胸ポケットから折りたたんだ新聞の切れ端を取り出し、深憂に渡す。
「なにこれ? ……『現代の吸血鬼か? 女性会社員変死』って。えっ、事件のニュース?」
「陽子が今日の部活で調べるって、張り切ってんだ」
恭介がため息まじりに言う。
深憂もまた、オカルト研究部──通称『オカ部』の部員だった。
この部はもともと消滅寸前だったが、陽子の「なくなるのは嫌!」という一声で強引に復活。つまり今年が『新生オカ部』元年というわけだ。
そして恭介はというと、その復活劇に巻き込まれた最大の被害者である。
一年のときは野球部で地区大会に帯同し、今年はレギュラーを目指していたのに、妹に引っ張られてまさかの転部。いまだに根に持っている。
ちなみに深憂は違った。彼女は自分の意思でオカ部に入部した、れっきとした志願者である。
新聞に目を通した深憂が、ふと眉を寄せた。
「面白そうな事件、って言いたいところだけど……なんか、引っかかる」
「引っかかる?」
恭介は思った。
彼女が“吸血鬼と人間のハーフ”を自称しているからこそ、かもしれない。
もちろん恭介は、深憂の話を真に受けたことは一度もない。けれど、こうして彼女が真剣な顔をしているのを見ると、ただの冗談とも思えなくなる。
「やっぱ、吸血鬼ってとこ?」
「うん。記事には『全身の血が抜かれてた』ってあるよね。……本物の、純血の吸血鬼の仕業じゃないかなって」
「ふーん、本物、ね」
「ん~……?」
深憂が怪訝な顔をして恭介を見た。
「まさか、昨日の話……信じてないの?」
言うまでもなく、『自分は吸血鬼のハーフ』という話のことだ。
恭介は答えに詰まり、わずかに眉をひそめる。
「いや、いきなり言われてすぐ信じるのは難しいよ……。この事件にしたって、本当に吸血鬼の仕業なのかって言われたら、やっぱり……」
「あー、やっぱり全然信じてないんだ!」
深憂がぷくっと頬を膨らませ、眉を吊り上げる。
恭介は慌てて席から身を乗り出す。
「ご、ごめん! 信じてないってわけじゃなくて……!」
「でも、認めてはくれないんでしょ?」
「そ、そりゃ、すぐに受け入れろって言われても……」
言いかけた瞬間、何か硬いものが恭介の額に当たった。
放物線を描いて床に落ちたそれは、本日何本目かの──投げチョークだった。
「史門。私の話、ちゃんと聞いてるか?」
壇上から、担任の金内環がジト目で睨んでくる。こめかみに青筋が浮いている。
「すぐに受け入れろって……お前、神良を妊娠でもさせたのか?」
唐突な言葉に、教室の空気が一瞬凍る。
額の痛みに涙目になりながら、恭介は慌てて首を横に振った。
環は彼を一瞥し、鼻を鳴らす。
「違うならいい。けど、よく覚えとけよ。できちゃった婚ってのは最後の手段だ。でも相手の気持ちも確認せずに突っ走るのは、ただの自己中なバカ男だぞ」
その真面目なようでどこかズレた忠告に、生徒のひとりが手を挙げて茶々を入れる。
「じゃあ先生はどうだったんですか~? 結婚するとき」
教室がざわっと沸く。環はにやりと口元を緩めると、胸を張って答えた。
「私はな、あまりにも旦那が煮え切らなかったから──寝込みを襲って既成事実作ってやったわ!」
ぐっと親指を立てて笑う彼女に、クラス中が爆笑した。
教師がそんなこと言っていいのか? と恭介は思うが、
ここまで潔いと、もはや清々しい。
そんな様子を横目に見ながら、恭介は小声で深憂に耳打ちした。
『ごめん、この話はまた後で』
むすっと唇を尖らせた深憂が、文句ありげな目を向けてくる。
恭介は唇の動きだけで「ごめん」と伝え、正面の黒板へと視線を戻した。
「……まあいい。それより、お前ら喜べ。今日は転校生を紹介するぞ」
環が言い、教室の外に目配せする。
やがて、引き戸が静かに開いた。
入ってきたのは──
教室内の空気が、一瞬にして静まり返った。
特に男子のほとんどが、その姿を見て息を呑んだ。
そこに立っていたのは、まるで映画から抜け出してきたかのような、美しい少女だった。
肩にかかる長さのショートボブ。絹糸のような黒髪が壇上に向かうたびに揺れ、その横顔の美しさを際立たせる。
少女は黒板に名前を書き終えると、ゆっくりとこちらを振り返った。
「音無林檎です。皆さんより一歳年上だけど、仲良くしてくださいね」
ハスキーな声に艶やかな笑み。たちまち男子たちから小さなどよめきが上がった。
恭介もまた、そのひとりだった。
歓声を上げはしなかったものの、頭を覆っていた眠気がすっと引いて、彼は壇上の少女をじっと見つめていた。
切れ長の瞳はどこかアンニュイで、妙に色気を帯びている。口元の小さなホクロが、その美貌に絶妙なアクセントを添えていた。
担任の環も美人ではある。が、その彼女さえも霞んで見えるほど、音無林檎は群を抜いて美しかった。
とはいえ、二学期も終わりが近づくこの時期に転校生というのは、かなり珍しい。
「さて、音無の席は……」環が教室を見回し、恭介へと視線を向ける。「史門の隣だ。あそこが今日からお前の席だぞ」
「はい」
林檎は一礼し、恭介の隣の空席へと向かう。
その歩みはどこか雅で、静かな品さえ感じられた。
腰を下ろした林檎が、隣の恭介へと顔を向け、微笑む。
「これからよろしくね、史門恭介君」
「……なんで、俺の下の名前を……?」
聞いた覚えもなければ、教師も“史門”としか呼ばない。
どこで彼のフルネームを知ったのか?
戸惑う恭介に、林檎がくすりと小さく笑った。
「さて、どうしてでしょうね。『ずっと前からあなたに興味があった』──そう言っておこうかしら」
言いながら、林檎の視線が深憂へと向く。
その瞳に浮かぶのは、どこか挑発的な色だった。
「隣の席の子もよろしくね。えっと……」
「神良です」
深憂はむすっとしたまま答え、そっぽを向く。
それでも林檎は、気にも留めずに笑顔を返した。
「よろしく、神良さん」
「……よろしく」
小さく返した深憂の態度に、恭介は苦笑した。
焼き餅だろうか。だが、軽く受け流すには少し重い雰囲気が漂っている。
そのとき、林檎が深憂に聞こえない程度の声で何かを呟いた。
偶然耳にしてしまった恭介は、ゾクリと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
林檎もまた、深憂に対して敵意を抱いている──そう確信してしまったからだ。
教室の自分の席にいながら、どこか居心地の悪さを感じる。
表向きは「よろしく」なんて言い合っているが、互いの間には確かに火種が存在していた。
林檎の呟いた一言は、やけに耳に残るものだった。
「あなたとだけは、きっと短い間になるでしょうけどね」
その言葉が意味するものを、恭介が理解するには──まだ時間がかかるのだった。