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「────?」
黒の姫君は顔を上げた。
誰かが泣いているような気がしたのだ。
別れを悲しむような、悲痛な声が、心の中に染み込むように響いてきた。声に覚えはあったかどうかはわからないし、そもそも声だったかどうかさえもわからない。一瞬の出来事で、注意を向ける事さえできなかった。しかしそのすすり泣く声は、はっきりと頭の中に跡を残した。
どうしてだろう、胸がもやもやした。しかし、すぐに気を取り直す。自分の役目を果たす時がまもなくやって来る。今は始まりの合図を待っているのだ。
「どうかされましたかな、黒の姫君」
向かいの席で紅茶を嗜んでいた男が、柔らかく問いかけた。
この初老の男──夜の棲人の世界では『赤髭の男爵』の爵位を与えられ序列は三十一位、三百年を生きた貴族吸血鬼である。黒の姫君と並べば、まるで親子のように見えた。
もっとも、赤髭とは名ばかりだ。彼の髭は雪のように白い。
なぜ赤と呼ばれるのかといえば、彼がかつて幾百幾千もの人間の女を魅了し、恋を育て、その愛の最期に血ごと貪ってきたからである。
彼が眷属にした人間は全て女だ。彼にその血を飲み干された人間の女は幾百幾千とも言われている。黒の姫君の言葉を借りれば──女たらしの変態ジジイなのである。
「いいえ、なんでもありません」
黒の姫君は視線を伏せ、冷ややかに言葉を切った。
彼がこの城に頻繁に姿を見せるようになったのは、彼女が吸血鬼の貴族階級に加わり、序列二十八位を得た頃――数年前のことだ。
姫帝への謁見に訪れた赤髭の男爵は、その場にいた彼女を見初めて以来、贈り物を欠かさなくなった。
最初はチョコレートのパウンドケーキや姫苺のタルト。次いで絹のドレス、宝石、そして今日は金のロザリオ。
だが、黒の姫君はそのすべてを受け取らなかった。食べれば、身につければ――彼のCharm《魅了》の術中に堕ちる。そんな気がしたのだ。
彼の魔術は痕跡がわからない程に卓越している事で有名だった。それぐらい用心しても罰は当たらない。
しかし、それだけ気を配らないといけないのはいささか面倒な事ではあった。
「そんな冷たい顔をしないでおくれ、黒の姫君。可愛らしい君にはそんな顔は似合わない」
「そうなのですか。私は敬愛なる赤髭の男爵と優雅なティータイムを送れるなんて、光栄過ぎて今すぐあの窓から飛び降りたいくらいですよ」
皮肉に満ちた声に、男爵は困ったように笑みを浮かべ、髭を撫でた。
実際、この男とこうして城の一室で茶を啜るくらいなら、三月ウサギの庭園で気のいかれたウサギ達とお茶会をした方が幾分かマシだと思う。
彼の紅い瞳を決して見ないようにしていた。
彼の瞳が妖しく煌いていたのは、Charm《魅了》の凝視。それもかなりの魔力を込めたものだ。一度視線を合わせれば最後、たちまちこの男の虜になってしまうわけだ。
(──なるほど、『情熱』の赤髭。気に入った女を落とすためなら自らの命である魔力さえも賭けるんだね)
黒の姫君は心の中で「ロリコンジジイは吸血鬼狩りに抹殺されてしまえば良いのに」と毒づいた。
そんな想いをよそに、赤髭の男爵はため息を漏らした。
「君は私の魔力に魅了される事もない。私の贈り物にも靡かない。こんな事は君が初めてだよ」
「貴方が、姫帝の使用人でしかない私に興味を持つ理由がわかりません」
「君は我々と人間の狭間で強い魔力を持って生まれた。本来なら忌まれる半人半魔……だが君は吸血鬼の序列にありながら人間としても生き、灰被りの力を持ちつつ、王たる姫帝に仕えている。その自由さに、私は惹かれたのだよ」
灰被りとは夜の棲み人の世界で言う所の「同胞を狩る者」、つまり「吸血鬼狩り」を意味する言葉だ。
黒の姫君は首を横に振った。
「私は自由などではありません、それに使用人とは言っても仕えているわけでもない」
「それが自由というものさ。
我々の世界では、強き者が上に立ち、弱き者が従う。だが君は姫帝と友のように語り合い、掟や序列に縛られない。──その心が、魅力的なのだよ」
饒舌な赤髭の男爵の口調に、黒の姫君は眉をしかめた。
「……言っていることがよくわかりませ誰も側に置かぬ方だ。そんな彼女と親しくできる君のことを、私はもっと知りたい。そしてできれば──私の傍に」
「申し訳ありません。あなたに仕えることはできません。私には、果たすべき使命があります」
「『黒鍵』……でしたかな? 君が持っている使命というのは」
「ええ」
黒の姫君が頷くのに、赤髭の男爵は自慢の髭を撫でて「ふむ」と唸った。
「我々の驚異となりうる者の封印と解放を司る鍵……。なるほど、君が姫帝の側に置かれるのも何となくだが理由がわかる」
「今は『彼女』の塞ぎきった心にあった魔術空間──時計塔も空想の狭間を離れ、現実に姿を現しました。使命も間もなく訪れます。どうか、お引取りを」
「間もなく、か。ならばその時まで共に過ごそう。使命が終われば、また会いに来るが……それでも良いかね」
黒の姫君は俯いたまま答えようとはしなかった。その時、凛とした声が響いた。
「そのくらいにしておきなさい、クラレンス」
困り果てていた黒の姫君に助け舟を出したのは姫帝だった。
クラレンス・ギルボア・スカーレット。それは赤髭の男爵の真名だった。
かつての序列二位のドラキュラ公が、『悪魔公の息子』や『串刺し公』と呼ばれていたように、通り名は仮の名前に過ぎない。序列の高き者のみが他者の真名を口にすることを許されており、姫帝だけが彼を名で呼べるのだ。
姫帝の姿を認め、瞳に掛けていた魔術を解いて立ち上がった。
「おお、これはこれは姫帝様。いつ見ても相変わらずお美しい」
だが姫帝は眉ひとつ動かさず、黒の姫君へと視線を向けた。
無視された男爵は、肩をすくめて苦笑する。
姫帝は黒の姫君に向かって言った。
「整ったわ。あなたが舞台に上がる時が来たの」
「わかった」
黒の姫君は椅子を離れ、男爵へ軽く一礼した。
「それでは失礼します。御機嫌よう、赤髭の男爵殿」
そう言って軽く会釈し、黒の姫君は姫帝の細く白い手を取った。
白い煉瓦に固められた窓辺の向こうを見ると、外の闇夜の風景に立待月が浮かんでいた。
黒の姫君の隣で、姫帝が彼女の名を呼んだ。
「行きましょう、陽子」
「うん、カーミラ」
互いに頷き合い、二人は寄り添うようにして窓の向こう闇夜の空へと身を躍らせた。
遠ざかる背を見送りながら、赤髭の男爵はティーカップの最後の一口を飲み干し、呟く。
「カルンシュタイン城に二人がお戻りになられるのはいつになる事やら。全く、君はいつになったら私の魔法にかかってくれるんだろう。なあ、灰被りの少女」




