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森の彼方の国──
かつて吸血鬼序列第二位、悪魔公の息子と呼ばれたドラキュラ公が生まれた地、トランシルヴァニア。その名が意味するのは「東方の果てにある遠国」だ。彼にとって今いる日本のこの土地もまた、新たな吸血鬼の王を生むにふさわしい舞台なのかもしれなかった。
「第二のトランシルヴァニア……な」
深々と続く樹海。人の足も届かぬ森の奥へ、巨躯の男は分け入っていく。
雨季を告げる温かな風が木々を揺らし、差し込む木漏れ日が彼の眼を苛立たしげに細めさせた。
身長は優に一八〇センチを超え、丸太のように太い腕を持つ屈強な体躯。元傭兵出身の教皇庁の非正規特務機関・抹殺者達《Negators》の隊員──その首にはライフルを下げていたが、彼はそれに触れることもなく、ただ力強く歩を進める。
やがて、視界の先に煌めきが走った。
男は足を止め、低く呟く。
「──へっ、あのお坊ちゃんの言葉どおりかよ」
木漏れ日に反射して銀色の光を放つもの。近づけば、それは砂の山のように見えた。
彼は精悍な顔に不敵な笑みを浮かべ、その銀砂を見下ろす。
「どうやら利用価値はあるらしいな……。悪いな、俺を仲間だと信じた部隊員たち。お前たちは知らなかった。世界はこれで変貌を見せていく」
掌ですくい上げた砂を光にかざす。銀色の粒子が冷ややかに煌めき、彼の瞳に酔ったような熱を宿らせる。
「死してなお、これほどの生命力を帯びている……。この朽ちぬ魔力こそ、新たな王国の礎になる。無限に栄え、永遠に続く吸血鬼の王国のな──」
低く、やがて高く笑い声が響き渡った。
その名を教皇庁は忌み嫌い封じたが、彼は誇らしげに背負う。
吸血鬼の血の起源を宿す人間の名──カイン。
彼の高笑いは、森の奥深くに不気味な余韻を残した。
◆
あの夜の光景が現実であったという、信じがたい事実。
漠然とではあれ、恭介がそれを受け入れるのに時間はかからなかった。だが、その事実を呑み込もうとする過程で繰り返された葛藤は、彼の心をじわじわと蝕んでいた。
顔には生気の抜けた影ばかりが貼りつき、吐き出すのはため息ばかり。
夢ではなかったと認めざるを得ない理由は単純だった。二日が過ぎても、深憂は姿を見せない。
右隣を見れば、そこにあるのは空席になったままの机だけ。
休日明けの月曜、深憂は登校していなかった。土日、そして今朝も彼女の家を訪ねたが、部屋は前に来た時と変わらず、主を失ったまま時が止まっていた。
「……」
言葉は出なかった。
まだ気力が残っていれば「くそっ」と悪態のひとつも吐けただろうが、そんな気にもなれない自分がまたもどかしい。
深憂が吸血鬼であることを隠し続けていた事実。抹殺者達《Negators》を名乗るエクソシストたちの襲来。まるで夢だったかのように訪れた、何事もない朝。
だが夢ではないと突きつけるように、深憂は今もいない。
どう解釈していいのか分からず、思考は空転するばかりだった。
左隣に目をやる。そこもまた空席。音無林檎の姿も見えない。
恭介は思った。
──学校への潜入は、ここまでなのかもしれない。きっと。
それもあり得る。もしも彼女が本当に吸血鬼を狩る者だとしたら、深憂が討伐対象となった今、登校してくる理由はない。
ぼんやりと視線を上げる。時計は九時半を指していた。
窓の外に目をやると、照りつける陽光の下、校門へ続く並木道を帰宅する生徒たちの姿がまばらに見える。
「一体……何が起こってるんだ、あれから」
自分以外の生徒が出払った教室で、恭介は一人、ぽつりと呟いた。
月曜の午前九時半、本来なら数学の授業で居眠りしている時間に、全校生徒が一斉下校するなどあり得ない。これは明らかに異常だった。
「恭介、まだ帰らないのか?」
突然の声に思考を断ち切られ、恭介はハッとした。
振り返った先に立っていた人物を見て、疲れ切った表情のまま呟く。
「……道彦か」
◆
「くそっ、わけがわかんねぇ!」
道彦は不機嫌に眉を歪め、足元のコーラの空き缶を蹴飛ばした。空き缶は数メートル先へ転がり、道端の野良犬をかすめる。睨み返してきた犬を無視して、道彦は吐き捨てるように続けた。
「解除が出るまで無期限で学校閉鎖、しかも外出禁止だとよ。理由を聞いても『答えられない』の一点張り。あの口の軽いタマちゃんが『理由は聞くな』って頑なに言うんだぞ。普通じゃねぇ、絶対何かある」
「ああ……」
恭介は気のない返事をした。ちなみに、タマちゃんとは担任の金内環先生のあだ名だ。
道彦が勝手にまくし立てるのを横で聞きながら、恭介は歩く。二人で下校するのは久しぶりだった。二年に上がってからは、陽子に半ば強引にオカルト研究部へ引き込まれて以来、帰り道は深憂と陽子と三人一緒が常だったからだ。
ぼんやり歩いていた恭介の顔を、道彦が不意に覗き込んだ。至近距離から目を見つめてくる。
「返事に元気がねぇな。神良が休んだからか?」
「別に……」
顔が近い、と言うのも面倒で、恭介はおざなりな返事をした。ようやく距離を取った道彦は、やけに真剣な表情で口を開く。
「なあ、恭介」
「ん……?」
「うちのクラス、今日何人休んでたか覚えてるか?」
妙な質問だと思った。今朝の教室を思い出す。確かに、生徒の姿はまばらだったような気がする。
「多かった気はするけど……なんだよ急に」
「二十人だ」
「それがどうし──」
言い終える前に、道彦の手が恭介の肩を強く掴んだ。
「絶対おかしいだろ! 二十人も一度に休むなんてあるか!? しかも理由の説明もなしに学校閉鎖、連絡網があるまで外出禁止だぞ!? どう考えても普通じゃねぇ!」
声を荒らげる勢いに、恭介は気圧される。
「ど、どうしたんだよ……」
困惑する恭介を見て、道彦は「すまん」とだけ言い、掴んだ肩を放した。沈黙ののち、深く息をついて続ける。
「……渡辺も、無断で休んでる」
「渡辺さんが? ……考えすぎじゃないのか」
道彦は首を振る。
「ただ休んでるだけならそう思う。でも、連絡がつかない。完全に行方不明なんだ」
「連絡……? ていうか道彦って渡辺さんとそんな仲良かったか?」
「恭介には言ってなかったが、あの後俺達付き合う事になったんだよ」
携帯を差し出される。ディスプレイには笑顔の道彦と、隣で照れくさそうに映る渡辺の姿があった。恭介は言葉を失う。
女子が着替えてる教室の窓の外からのあの衝撃的な告白、そして椅子が飛んでくるあの強烈な返事。あの出来事があってから今までの間に、どのようなプロセスがあってその結果になったかを恭介は聞かなかった。そんな事を聞く気分でもなかったのもあるが、それ以上に話を茶化す事ができる雰囲気でも無かった。
道彦はさらに畳みかける。
「土日に二日続けてデートした。昨日の夜も電話した。元気だったんだ。急病なんてありえねぇ。それにウチのクラスだけで二十人も同時に欠席なんて、どう考えても示し合わせたように消えたとしか思えねぇ」
「消えた……って」
恭介のつぶやきに、道彦は力強く頷いた。
「例の、吸血鬼事件だよ」
空気が一気に重くなる。
「馬鹿みたいに聞こえるかもしれねぇ。でもそうとしか思えない。すでに失踪者は出てる。全員が吸血鬼に関わる事件に巻き込まれたとしたら……学校閉鎖も、理由を言わないタマちゃんも、全部説明がつく」
念を押すように、道彦は声を潜める。
「……多分、神良や音無が来なかったのも、そのせいなんじゃないのか」
恭介は返事をしなかった。道彦の推測は、方向性こそ間違っていない。ただ、彼の考えでは二人は被害者として失踪したことになる。
しかし恭介の胸中に、別の思いが芽生える。──あの時見た光景を話せば、道彦は答えをくれるかもしれない。
だが、吸血鬼とそれを狩る組織などという荒唐無稽な話を受け入れるはずがない。自分でも信じきれないのだから。
それでも、胸に溜まったわだかまりは吐き出さずにはいられなかった。
「……道彦」
「ん?」
恭介は真剣な表情を向ける。
「俺の話、聞いてくれるか……?」




