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地上52階、地下2階、延べ床面積120,900㎡、高さ256メートル、エレベーター数24基。
これは森彼方市中心街にそびえ立つタワービル──世界樹の名を冠する超高層複合施設のスペックである。
その35階には、表向きにはとある外資系企業のオフィスが入っている。だが、実際にはフロア全体を使った特殊な居住空間が存在していた。
ローマ教皇庁直属の非正規特務機関──抹殺者達《Negators》。そこは、彼らが拠点とするセーフハウスである。
ビジネスオフィスを装っているため、入ってすぐのスペースには受付があり、無愛想なドイツ人警備員二人と、バイリンガルのイタリア人女性が待機している。その脇のセキュリティドアにIDカードをかざすと、右手側のドアが開き、オーク材の扉が幾つも並ぶ広間が姿を現す。
誰もいないはずのその空間が、突如、歪みを孕んで渦を巻いた。
ドタドタと騒がしい足音とともに、十数名の人影が虚空から現れる。
戦闘服を身にまとった屈強な男たちに混じり、ひとりの少女が立っていた。
彼女の名は音無林檎。
抹殺者第十三討伐部隊の隊長にして、小隊員全員を空間跳躍《Leaping》の魔術によって帰還させた張本人だった。
額には冷たい汗が滲んでいる。しかし男たちの全員が視界に入る位置まで歩を進めると、彼女は呼吸を整え、凛とした声で命じた。
『各班、報告を』
林檎の一声に、男たちは即座に整列する。
第一班班長アベルの怒号のような報告を皮切りに、激しくも秩序あるドイツ語での報告が次々と飛び交った。
イタリア領内の組織がなぜドイツ語を使うのか、不思議に思われるかもしれない。しかし、隊員の多くはバチカンを警護していた元ドイツ警備兵で構成されており、部隊の共通語は自然とそれになったのだ。
第一班、異常なし。第三班も同様。しかし、第二班の報告は違っていた。
第二班を率いるのは、元傭兵出身の男──カイン。
巨躯を誇る彼の傍らに、仲間の姿はない。険しい表情からも、報告の内容は林檎にも察しがついた。
『第二班、総員四名のうち三名が戦死。生き残ったのは俺だけだ……』
がたいの良い、という形容では足りないほどの大男だったカインが、言葉を絞り出すように呟いた。
『何があったの。話して』
林檎が静かに問うと、カインは深い彫りのある顔を歪めて答えた。
『六体の吸血鬼と交戦。しくじったぜ。うち一体が、成体になっていた』
『……既に、魔術を行使できる段階まで血を吸った個体が現れたということね。それで?』
『最初の感染者の報告から日が浅いと、甘く見ていた。……三人は、成体の魔術によって殺された。残った俺一人で応戦し、辛うじて討伐は果たしたが……被害は甚大だった』
林檎は一度目を閉じ、短く息を吐いた。
『あなたが生き残っただけでも十分な成果よ。だが、行動の遅れが事態を悪化させることが、これではっきりした。今後は成体の出現も想定して動かなくてはならないわね』
安堵か、それとも無念か。そんな気配を帯びた溜息をひとつ漏らすと、林檎は視線を全体へと向けた。
『報告する。我々──林檎と蛇は、本日○九一三時、森彼方市にてヴァンパイア・ウイルスの宿主と思われる吸血鬼を処断し、その魂を浄化することに成功した』
ざわめきは起こらなかった。隊員たちは、その言葉を静かに、重く受け止めていた。
『以降、この作戦の目的は街全体の浄化とする。吸血鬼に汚染された住人たちの殲滅を第一とし、森彼方市は戒厳令下に置かれる。未感染と判明している市民の避難誘導を早急に進める。各員は十分に休息を取り、次なる戦いに備えなさい』
言葉に熱を込めすぎず、淡々と。
だがその一語一語には、冷たく研がれた刃のような決意が宿っていた。
『成体となった個体は今後も現れる。……殉職した三名のためにも、気を引き締めて当たりなさい。以上よ』
◆
何度、彼の腕に支えられながらベッドへと運ばれただろうか──。
薄れゆく意識の中で、林檎はぼんやりとそんなことを思った。
この男が自らの部隊に配属されて十年。副官となってから七年。特にその七年間、彼との距離は否応なく近づいていた。
人間の感覚で言えば、同性ならば深い友情。異性であれば、いつ関係が変わってもおかしくはない。
それほどに、彼との間には積み重ねた時間があった。だから林檎にも、これが何度目の光景なのかはもうわからなかった。
セーフハウスの自室へ戻る道すがら、林檎は何度も立ち眩みに襲われていた。
ロニに支えられながら、カーテンが閉じられた暗い部屋へと入る。わずかなスタンドライトの灯りが、室内を淡く照らしていた。
しかしその光の中でも、林檎の足取りはおぼつかない。肩を預ける彼女に、ロニは不安げに眉をひそめる。
「大丈夫ですか、林檎様」
「……問題ないわ。ただ、少し魔術を使いすぎただけ……」
息も絶え絶えに答える林檎を見て、ロニは深く息を吐いた。
「無茶をしないでください。魔術の過剰行使はお身体に障ります」
「任務のためなら、多少の無理は厭わないわ」
その言葉に、彼は心の中で呟く──
(……そもそも無茶なのは、魔術を使うことではなくて……)
林檎も、その心中は察していた。魔力の消耗で体が軋み、灰化寸前の苦痛に苛まれるたび、彼は決まって同じことを言う。今回もまた、そうだった。
「林檎様。あなたは吸血鬼なのです。それなのに……血を吸おうとされない」
「私の心は人間よ。例えこの身に汚れた血が流れていようとも、元同胞を喰らうことだけはしたくない」
「……それが、無茶だと言っているんです!」
ロニが声を荒げた。
「吸血鬼にとって吸血は生の糧。魔術を使い続ければ、その魔力は枯渇します。血を吸わないあなたが魔術を使うのは……死に急ぐようなものですよ!」
その嘆きは、もはや呪詛のようだった。
吸血鬼。それは不死の存在ではない。
人間から転化した吸血鬼の肉体は、既に一度死んでいる。魔力──すなわち生きた人間の血に宿る力を吸収することで、死んだ細胞を無理やり活性化させ、生きたように見せかけているにすぎない。
それが吸血鬼の存在構造だった。
だが林檎は、人の血を吸わない。
その牙を、自ら削ってすらいた。
「今夜、ちゃんと摂取するわ。魔力は──」
その言葉に、ロニの表情が強張る。
「吸血鬼を……殺して、魔力を奪うつもりですね」
「ええ。そうしなければ、生きられないもの」
「それこそが無茶なのです! 吸血鬼を殺すには魔術が必要です。魔術を使えば魔力は減る。減った魔力を補うために戦う? 生きるために戦い、生きるためにまた魔力を使う……そんな矛盾を、いつまで繰り返すのですか!」
ロニの叫びに、林檎はそっと微笑んだ。
「吸血鬼を生かそうとする隊員なんて、珍しいわね……」
その顔は血の気が引き、白く美しかった。ロニはたまらず林檎を抱きしめた。
「私は、あなたに死んでほしくないのです」
「吸血鬼の私に?」
「あなたの心は人間です。……いえ、人間か吸血鬼かなど関係ありません。私は──音無林檎という女性を愛しています。ただ、それだけです」
「……あら、ずいぶんロマンチストなのね」
林檎はその温もりに身を委ね、そっと瞼を閉じた。
やがて、ロニの指がジャケットのボタンにかかる。静かに外される布の隙間から、彼の掌が肌へと忍び込む。
「ふふ……今日は随分積極的ね、ロニ」
「どうか……私自身の戒めを解くことを、お許し頂けますか」
「吸血鬼を狩る立場でありながら、吸血鬼を愛するなんて……あなたもずいぶん人間らしい」
「私は思うのです。吸血は、ただの捕食ではない。契りなのではないかと。噛む者と噛まれる者の間には、かならず何かがある……愛が」
彼は林檎の顎に指を添え、その唇へそっと自分の唇を重ねた。
林檎は応じ、深く口付けを返す。舌を絡め、彼を引き寄せて。
「……それで?」
「林檎様に噛まれるのなら、私は──構いません」
「そう……でもそれは叶わないわ。私が、あなたを噛まないのは……」
林檎は言いかけたロニの唇を、再び接吻で塞いだ。
「永遠を誓えないからよ。噛むということは、永遠を共にするということ。だけど私は……」
「あなたを吸血鬼にした男、ですか」
「……ええ。人間だった頃、私は知らず彼を愛してしまった。吸血鬼になったばかりの私は、正気を失い、多くの人間の命を奪ってしまった。だから私は誓った。吸血鬼を滅ぼすと。そして最後に、彼に終わりを与えると」
「その先に、あなたの終わりもあると……?」
ロニの問いに、林檎は何も言わない。
ただもう一度、彼の唇に静かなキスを落とした。
「終わりがあるからこそ、人生は美しいのよ。永遠を生きるなんて、きっとどちらかが壊れてしまう」
ロニは何も言わず、唇をかみしめる。
「……まるで、駄々をこねる子供ね」
林檎はそうからかい、そっとロニの腕をほどいてベッドへ横たわる。
スタンドライトの灯りを落とし、天蓋のカーテン越しに彼の姿を眺めた。
彼がどんな顔をしているかなど、林檎には容易に想像がつく。
渋面を浮かべ、納得できぬ思いを抱えている──まるで、拗ねた子供のように。
それが愛おしかった。
「……おいでなさい、ロニ。今夜の作戦までのあいだ、少し遊んであげるわ。
私がまだ『人』として、生きていることを感じさせて」
◆
ベッドを抜け出し、戦闘服に再び袖を通しながら、ロニは林檎とこうして時を共にするのが、これで何度目になるかを考えていた。
先ほどまで自分が横たわっていた場所。そこには、今も安らかな寝息を立てる林檎の姿がある。
すっかり無防備な寝顔に、ロニは静かに息を吐いた。
彼女の内に渦巻く『血の衝動』が、ようやく落ち着いたのだ。
どれだけ牙を隠し、吸血を拒み、「人間だ」と己に言い聞かせたところで──その血が訴えかけてくる。彼女は吸血鬼なのだと、抗いようもなく。
ベッドの傍らには、小さな籐籠が置かれている。そこには一匹の黒い猫が一匹、丸くなって眠っていた。
林檎の相棒であり、普段なら寝床を共にするのはこの猫の役目だった。
だが、魔術を多用した後の彼女が極端に空腹になる夜──吸血鬼の本能が彼女の心身を苛む時だけは、ロニが代わって夢の相手となる。
──まるで、それも任務のうちであるかのように。
ローマ教皇の命を受け、教皇庁検邪正省特務機関である抹殺者達《Negators》第十三討伐部隊の副隊長に推薦されたとき、彼はふと考えた。これは明らかな考えすぎではあるが、林檎の『処理係』として配されたのではないかと。
だが、実際には話はもっと単純にできている。
ただ彼が彼女の魅力に惹かれ、林檎もまた、数多くの隊員の中から彼を選び、寵愛した。それだけのことだ。
偶然の連なり──だが確かに、二人の間には愛が存在している。
それだけは、紛れもない事実だった。
ロニの手が、眠る林檎の髪をそっと撫でる。
その指先は、硝子細工を扱うかのように繊細で、同時にどこか、哀しげな温もりを帯びていた。
「……こうして君と愛し合える時間は、私にとってかけがえのないものだ。……だが君は、私のことを何もわかっていない」
いつもの柔らかな敬語が崩れ、ロニの声はかすかに震えていた。静かで、深い寂しさが滲む。
「君は、『終わり』を望んでいる。……人間は、時の中で変わっていく。だから、いずれ終わりを迎えるのは当然のこと……頭では理解している。……けれど、それでも私は──永遠を君と共に歩みたい。……それは、私の……ただの我が儘なのかもしれないけれど」
林檎は眠ったまま、微動だにしない。
けれど、まるで眠りの奥で、すべてを静かに受け止めているようにも見えた。
ロニはゆっくりと立ち上がり、寝台の傍を離れる。
ドアノブに手をかけ、振り返らずにそのまま部屋を出た。
そして林檎を起こさぬよう、音もなく──そっと扉を閉める。
「よう。お楽しみだったか?」
廊下の静寂を破ったのは、低くくぐもった男の声だった。
「……何だ。貴様か」
ロニ──ロナルドは眉をひそめ、声の主へ視線を向ける。
そこにいたのは、分厚い戦闘服越しにもその巨躯が際立つ男──カインだった。
彼の瞳は、ただの同僚を見るものではない。もっと深く、鋭く、ロニの核心に迫る光を宿していた。
「ずいぶん、ご執心だな副隊長殿? ……例の計画、お前も乗ってるんだろ? 本当に、いいのかよ」
その問いは、表面的には任務の確認だ。
だがその奥には、もっと別の意味が隠れていた。
ロニもそれを承知している。だからこそ、即答はしなかった。
しばしの沈黙の後──彼は低く囁くように答えた。
「……ああ。だが、それが貴様の思っているほど単純なものかは……わからんな」
「……へっ、そうかよ」
カインが鼻で笑う。だがその笑みに、敵意はない。
ただ、かつて共有した『何か』を踏みしめるような、重さがあった。
「私はただ……この歪んだ世界に、ひとつの答えが欲しいだけだ」
ロニの視線は廊下の奥ではなく、先ほど閉じたばかりの扉の向こう──林檎の眠る部屋を見つめていた。
その目に浮かぶのは、淡く脆い情愛と、断ち切れぬ絶望の色。
カインは腕を組み、しばし沈黙を置いたのち、ぼそりと吐き捨てた。
「……答え、な。何人が血に沈み、何人が笑って死ぬか。それを『答え』と呼ぶなら……俺達が敵対する事もあり得るって訳だな」
ロニは言葉を返さず、ただ静かに、カインの脇を通り過ぎて歩き出した。
その背に、追いかけるように静かな声がかかる。
「……ロナルド。お前、本当に人間になったんだな。姿を変えても」
「……貴様に言われたくはないな。今回の三人の隊員の殉死、わざとだろう?」
その問いに、カインは肩をすくめて見せた。
「どこからそう思った?」
「貴様が何も考えずに動くわけがない。あの配置、あのタイミング……偶然だと考えるには少々出来すぎている」
「……それは結果として、そうなっただけの話だろうよ。俺はただ──命令通りに動いた。それだけさ」
カインの言葉は一見飄々としていたが、その奥にあるわずかな棘を、ロニは見逃さなかった。
「命令通り、か。便利な言葉だ」
ロニは立ち止まり、ほんのわずかだけ振り返った。だが目は合わない。
「貴様が何を企み、何をしようとしているか……今は問わん。だが、もし私の邪魔をするようなことがあれば──容赦しない」
それは、決して声を荒げた威嚇ではなかった。
だからこそ、その言葉の底にある覚悟が冷たく響く。
カインはその言葉に表情を変えず、ただひとつ息を吐いて言った。
「……俺が何を守りたいかってのは、お前は大昔から知ってんだろ。……忘れんな」
その言葉にロニの瞼がわずかに動いた。
だが、それ以上の反応はなく、彼は静かに前を向いて歩き出す。
「ならば──お互い、後悔のないように立ち回ることだな」
「……ああ」
その一言を最後に、二人の距離はまた音もなく離れていく。
誰よりも近くで互いを知っていた過去と、
誰よりも遠いところで火花を交える現在。
共闘とも敵対ともつかない、微妙な均衡のまま──
二人の背中はそれぞれ違う闇の中へと消えていった。
自室自室へ向かう途中、ロニは廊下の角でふと立ち止まり、無機質な天井を見上げた。
そこには、何かを祈るような、あるいは断罪を待つような──矛盾を抱えた表情があった。
かすかに揺れる唇から、絞り出すように名前が落ちる。
「……私は、自分がしようとしていることが、間違っていないと……信じたいんだ。林檎……」
彼はそっと壁にもたれ、誰にも聞こえないような声で、その名を呟いた。




